弥勒の拳エピソード１ 追憶

愚挙

愚挙

テツは、むしゃくしゃしながら商店街を歩いていた。

関の呼んだ若い用心棒が気に喰わない。

「何を偉そうに、歳は俺と変わらないじゃないか！」落ちていた空き缶を蹴飛ばす。

「お、関一家のテツさんじゃないかね」

声をかけてきたのは、商店街組合の理事長をしている肉屋の長澤である。

「あ、理事長さん、こんにちは」テツは間の抜けた挨拶をした。

「どうしたね、怖い顔をして」

「いえ、別に何でもありません」テツは急いで顔の筋肉を手で揉んだ。

「そうかい・・・それならいいけどね」

長澤は言い難そうに口籠りながら、「テツさん、丁度良い所で会った、ちょっと相談があるのだが・・・家へ寄ってくれんかね」と、言った。

「良いですけど。俺は今常兄いの言いつけで酒を仕入れに行く所なんで・・・」

「時間は取らせないよ。それに、これは親分の耳にも是非入れといて欲しい事なんだ」

松尾は、長澤について肉屋へ入って行った。長澤は店を妻に任せて、テツを二階へ誘った。

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「実は最近、若松興業の奴らがこの商店街に出没している」長澤は単刀直入に話を始めた。

「角の電気屋の親父が博打に手を出してね、借金を作ったんだ。それで店を渡せと矢の催促なんだそうだ」

「借金はどのくらいなんでやすか？」

「大した額ではないそうなんだが、利子がべら棒でね。今じゃ家を売っても足りないそうだよ」

「奴ら、素人さんを賭場に誘ったのか。何か裏があるな・・・」

「儂の憶測だが、奴等この商店街を門司進出の足がかりにしようとしているんじゃないかな？」

「う〜ん、ありそうな話だ」テツは、腕を組んで唸った。

「相談というのはね、この話を親分の耳に入れておいてもらいたいという事なんだ」

テツは、腕を解いて言った。「分かりました、任せてくだせい」

「よかった、よろしく頼んだよ」

長澤はテツに、礼だと言って上等の肉を持たせた。

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「ただいま戻りやした」

テツが戻ると、常が玄関で待っていた。

「テツ、遅かったな？」

「はあ、今夜客人にすき焼きを食べてもらおうと思って、酒の他に上等の肉を仕入れてまいりやした」

テツは常に嘘の報告をした。

「ほう、気がきくな・・・」常は、目を細めて疑わしそうにテツを見た。

テツは、身の竦（すく）む思いで俯いた。

「まあいい、親分がお呼びだ。若いもんに酒と肉を渡してお前は親分のところに行け」

「へい、承知しやした」テツはホッと胸を撫で下ろした。

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「親分、松尾参りやした」

座敷の襖の前で、廊下に手をついてテツは声をかけた。

「テツか、入れ」

「失礼致しやす」

関は袷（あわせ）の着物を楽に着こなし、長火鉢を前にして座っていた。　　　

「テツ、お前を呼んだのは他でも無い」関は松尾を見据えた。「若松興業は知っているな？」

「へい、存じておりやす」

「近頃、奴らの動きが不穏なのだ。ちょくちょくこの門司にも姿をあらわす」

「親分・・・」さっき商店街の理事長長澤から聞いたばかりの話だ。関の耳にも入れるように頼まれている。

「まぁ最後まで聞け。この件は大事にならんうちに手を打たねばならん。無門先生はそのためにお呼びした」

「へい・・・」無門と聞いて対抗心に火がついた。

「お前は血の気が多いから、この時期に先走ったことをしないように釘を刺しておく」

「へい」

「無門先生のお世話はお前に任せる。決して失礼があってはならん、分かったな」

「へい」

「なんだテツ、今日はやけに素直じゃないか？」

「いえ、そんなことはありやせん・・・」

「そうだ、さっき何か言いかけていたが？」

「いえ、何でもありやせん・・・」

「ふ〜ん、そうか・・・では頼んだぞ」

関は、用事は済んだ、というように口を閉じた。

テツは礼をして関の座敷から引き退った。

「よし、肉屋の親父の言ったことは、俺が解決してやる。親分の手を煩わすまでもない」

テツは腹を決めた。「無門平助、お前に活躍の場はない、ふふふ・・」

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それからテツは、外出の時には懐に匕首（あいくち）を忍ばせて歩くようになった。

今日も、使いのついでに商店街の角にある電気屋の見回りに来た。

すると何やら人の言い争う声がする。

松尾はそっと店へ近づいて行った。

「そんなことで許されると思っているのかい？」店の奥からドスの効いた声が聞こえて来た。

「い、いえ、必ず来月までには・・・」店主の声だろう、必死に懇願する声がした。

「ダメだ、これで三度めだぞ。今日こそ、その娘は連れて行く」まるで、店主をなぶるようにその声は言った。

「お願いです、後生ですから・・・この子だけは」店主の妻であろう、女の声がした。

「だったら、店の権利書を渡せ、そうしたら今日は帰ってやる！」

ワッ！と娘の泣き声がした。

長澤の言っていた若松興行の奴に違いない。

「やめんかい！」テツは店に飛び込んだ。

「なんだ、てめえは！」男が振り向いた。

テツは娘の泣き顔を見たとたん逆上し、いきなり匕首を抜いて男に斬りつけた。

「うわっ！」男の額がぱっくり割れて、大仰に血が噴き出した。

二度三度、男の顔に匕首が閃（ひらめ）き、あっという間に鱠（なます）のようになった。

「あっ！城島の兄ィがやられた！」

後ろで大声がして男が五人駆け寄って来る。目立たぬところに隠れていたのだろう。

「お前のようなバカが、引っ掛かるのを待っていたよ」拳銃を持った男が言った。

「うぬら、若松興業の者か！」テツは怒鳴ったが後の祭りである。匕首はすぐに取り上げられた。

「おい、誰か車を回せ。このバカを事務所に連れて行く！」拳銃をテツの脇腹に突き付けながら男が言った。

男が一人、急いで駆けて行く。テツはそれを、呆然と見送った。

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関一家は、殺気立っていた。

「テツが若松興行の奴らに奪（と）られたそうじゃ！」血気に逸った者が叫んでいる。

「殴り込みじゃ！」若い衆が怒声を上げた。

「オウ！」

「待て待て待て、親分の許しがまだない！」常が必死に止めるがなかなか収まらなかった。

「静かにせんかい！」さっと襖が開いて関が現れた。

「あっ、親分！」

「何を騒いでいる、近所迷惑だ！」

「親分、テツが・・・」

「テツは、俺の言いつけを破った。もう親でもなければ子でもない」

「じゃけんど！」

「勝手に動く奴は、テツと一緒だぞ！」

関はそれだけ言うと、ピシャリと襖を閉めて奥へ戻っていった。

あれだけ騒いでいた子分たちは、水を打ったように静かになった。

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「親分、ここで大きな出入りになれば、警察が動きます。一家の存続が危うい」平助が言った。

「でしょうな」落ち着いた声で関が答える。

「ここは、先手を打ちましょう。今の内ならまだ若松興業の支度も整ってはいない」

「どうするのです？」

「親分は、兵を動かさず相手と交渉を続ける振りを続けて下さい」

「振り・・・？」

「時間稼ぎです。その間に、私が松尾さんを取り戻します」

「そんなことができますか？」

「おまかせください、それに一人の方が目立たない」

関は暫く考えていたが、ゆっくりと頷き畳に手をついた。

「それしかないようだ。先生には迷惑をかけるが、よろしく頼みます」

「親分、お手をお上げください、私はその為に呼ばれたのですから」

平助は、座敷を見回して、関に訊いた。「刀を一振り、お貸し願えますか？」

「お安い御用、そこの刀箪笥（かたなだんす）の中に関孫六（せきのまごろく）・虎徹（こてつ）・長船（おさふね）が入っております、お好きなのをお持ちなせえ」

「いえ、数打物（かずうちもの）の白鞘（しらさや）で構いません、勝手に物色させていただきます」

平助は、刀箪笥を開けて、手頃な刀を手に取った。

「これを・・・」

そう言ったと思ったら、そこにはもう平助の姿はなかった。

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平助は、一人の若者に運転させて門司港の倉庫群の端に着いた。車の中で刀の鯉口を切る。

若者を車に残し倉庫伝いに歩いた。若松興業の仮事務所はこのすぐ裏だ。

外は暗く、倉庫の入り口の裸電球でなんとか物の形が認識できる程度だった。

「来たな」

倉庫の影から、一人の男が出てきた。

「久保田清源か？」

「無門平助だな？」

久保田は着流しの帯に、刀を落とし差しにしている。

「伯耆流の達人が、ヤクザの用心棒か？」

「お主も同じではないか」

「ふふふ、確かにな」平助は、自嘲気味に笑って腰のベルトに刀を差した。

どちらもまだ刀の柄には手を掛けていない。清源は、左手の親指を鍔（つば）に掛けた。

間合いが、静かに縮まって行く。抜刀の瞬間が迫っていた。

清源が動いた、と思った時には平助の胴の位置に刀身が達していた。

平助の躰はそれより早く、久保田の右に移動している。

「チイッ！」

清源が柄（つか）に左手を添えようとした瞬間、平助の抜き付けの一刀が清源の小手を斬り落とした。

清源の右手が刀を握ったまま地に落ちた。清源は唇から呻きを漏らして蹲（うずくま）る。

「惜しい！」

平助は、これほどの技量を持つ術者が一人消えたことを惜しんだ。

それも一瞬の事、平助は若松組の事務所に向けて全速で走った。

入り口のドアを蹴破った時、中には五人の男達が武器の手入れをしていた。

「野朗！」

銃を構えた男の手を斬り落とし、次に向ってきた男の右耳を削いだ。気を呑まれた男たちに平助は言った。

「この辺で手を打たねば、死人が出るぞ！」

平助は、椅子に縛られて朦朧（もうろう）としていたテツを救い出し、関一家に戻ってきた。

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「馬鹿野郎！」

関の大喝が、テツの上に落ちてきた。

「す、すいやせん親分！」

さっきまで、朦朧としていたテツだが関の前に出ると、一気に正気に戻った。

「勝手なことをしやがって！もう少しで戦争になるところだったんだぞ！」

「・・・」

テツは、無言で土間に額を擦り付けた。

「無門先生にもご迷惑をかけた」

「本当に、申し訳ありやせん！」

「親分、もうよろしいでしょう。相手の用心棒も片付いたことだし、勝ち目はこちらにあります」平助は言った。「仮に、今回のことが無かったとしたら、話はもっとこじれていたでしょう。この機を逃さず一気に若松興業を地元に追い返すことです」

関は、腕組みをして考えていたが、「あっちにもそろそろ援軍が着く頃だ・・・、常、兵隊を二十ばかり連れて、話をつけてこい、ぐずぐず言うようなら叩き潰して構わねえ！」

「へい、承知いたしました。おいタカ、トラックを出せ、兵隊を運ぶ」

「常兄ィ、俺も連れて行ってくれ」テツは、常の足元に縋り付いて懇願した。

「馬鹿野郎、足手まといだ！命が助かっただけありがたく思え！」常は、テツを蹴り倒して出て行った。

テツは、土間に這いつくばって、男泣きに泣いた。

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翌日、テツは寝床から起き上がれなかった。

昨日は気が張っていたのか多少は動けたのだが、今日になって全く動けなくなったのだ。

その枕元に関が来た。

「テツ、お前は破門だ、今後一切、関一家の敷居を跨（また）ぐことは許さねぇ！」関は、冷淡に言い渡した。

「お、親分、それだけは・・・」

「うるせぇ！昨日子分たちにはっきり宣言した手前、もう覆せねぇんだよ！」

「親分・・・」

テツは、天井を向いて目を瞑ったまま涙を流した。

「その代わりなぁテツ・・・」関が急に語調を改めた。「博多の叔父貴のところへ行け。博多にはお前のような馬鹿が必要だとよ」

この一言で、関の本心が知れた。関はテツを手放したくはなかったのだ。

「躰が動くようになったら、無門先生と博多へ行け」

「無門先生と？」

「ああ、博多にも何かと揉め事があるようでな。お前も行って暴れてくるがいい」

関はそれ以上何も言わず、テツの手を握って頭を垂れた。

その日限り、二人は二度と互いの顔を見る事は無かった。

日本がやっと戦後の復興に向けて動き出した頃の事だった。