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陸軍幼年学校

陸軍幼年学校



大正六年(1917)、無門平助むもんへいすけは東京の陸軍幼年学校に入学した。

祖父弁千代の厳命で、将来陸軍の士官になる為の最初の段階である。

当時、陸幼は国内に六ヶ所あり、平助は実家に近い熊本を希望していたが、合格通知にはなぜか『東京に入校せよ』と書いてあった。

十三歳の平助の心には、『東京に出て行ける』という高揚感と『祖父母の元を離れる』という寂しさがい交ぜになっていた。

東京には祖父と二人で行った。入校式の日、軍隊の学校と言う事でどれほど殺風景でいかめしい学校かと思っていたら、前庭には色とりどりの花が咲き乱れ赤い瓦に白壁のモダンな校舎には菊の御紋が燦然さんぜんと輝いていたのには驚かされた。

祖父は『立派な軍人になれ』と言い置いて、入校式にも出席せず、その場から柳川へと帰って行った。

それが祖父との最後の別れになろうとは、平助には知る由もなかった。


クラスは一・二・三学年それぞれ二クラスで一クラス二十五名、クラスの事を学班といった。

生徒舎は十人部屋で寝台と机がそれぞれに用意されている。平助は第一学班に配属された。入校後暫しばらくくして分かった事だが、軍隊に有り勝ちな鉄拳制裁などは殆ど行われず、むしろ暴力は特別な場合を除いて否定されていた。

放課後には運動班単位で庭球テニス籠球バスケットなどのスポーツが盛んに行われ和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気が漂う。当時の感覚としては、スポーツは軟弱だというのが通説であり男らしさを標榜ひょうぼうする軍学校でこのようなことが行われていようとは、平助は夢にも思わなかった。

『青少年の身心の健全な育成』が陸幼の理念であり『生徒の自主性を重んじる』校風であったため、平助には天国のような環境であった。

そんな中で、平助の生意気さにも拍車がかかったのは言うまでもない。

入校初日の夜、二年生がドヤドヤと第一学班の生徒舎へと入って来た。

「全員、靴を出せ!」リーダーと思われる狐目の男が大声で命じた。

平助の隣にいた生徒が、ガタガタと震え出した。

「おい、どうした?」平助が小声で訊く。

「靴を磨くのを忘れた・・・」その生徒がつぶやくように言った。

「お前の靴箱はどれだ?」

「左から三番目、上から二段目だ」

「俺のはその下だ、お前は俺の靴を出せ!」

「えっ!」

「いいから、言う通りにしろ!」

その時、二年の大声が飛んだ。「そこっ、何を喋っておるか!早く靴を出せ!」

「はいっ!」二人は互いの靴を交換した形で上級生の前に出した。

「なんだ、これは?」さっきのリーダーが、平助の顔前でえた。つばきが平助の顔に飛ぶ。

「はっ!靴であります!」

「そんなことは分かっている!なぜ磨いていないんだと聞いているのだ!」

「はっ!忘れました!」

「なにっ!」

平助の言い方が気に障ったのか、いきなり鉄拳が平助の頬を打った。

これは特別の事であったらしい。同僚の二年生たちが目を丸くして驚いている。

平助は倒れなかった。この時、嘘でも倒れていればそれ以上殴られることも無かったろう。

「生意気なっ!」リーダーはがむしゃらに平助を殴った。唇は切れ、歯も何本か折れた。

ようやく鉄拳の嵐が収まった時、リーダーは息を切らしていた。

「今度このような事があったら、生徒監に報告する!」そう言い残して二年生達は出て行った。

生徒監とは陸幼の教育の要で、直接少年達の訓育指導にあたるベテラン士官の事である。

年の離れた三年は、このようなことをする事はない。しかし年の近い二年とは、その後もしばしば火花が散った。

「大丈夫か?」隣の男が心配そうに訊いた。

「大丈夫だ」手の甲で、唇の血を拭いながら平助が言った。

「済まなかった。教練の疲れで靴を磨かずに寝てしまった」

その男は、平助に向かって頭を下げた。ひょろりと背の高い痩せた男だった。

「いいさ。あいつの顔はしっかりと覚えた」平助がにっと笑った。

「えっ、仕返しするつもりなのか!」

「当たり前だ、やられっぱなしは御免だ」

「君は凄いなぁ!」男は感心したように平助を見詰めた。

「俺は佐川、出身は鳥取、よろしく頼む」

「俺は無門。福岡から来た」


その事があってから、佐川とはよく話をするようになった。

佐川の父親は軍人で、優先的に入学できたのだと言った。

「しかし、ここは教育環境としては最高だ、教官には当代一流の人物が揃っている。俺はしっかり勉強して陸軍士官学校から陸軍大学校へ行く」佐川が言った。

「俺は勉強より実戦だ。お互い頑張ろうぜ!」

「うん!」


敵討ちのチャンスは意外に早くやって来た。午後の随意運動の時間に柔道場で狐目の男と顔を合わせたのだ。随意運動時間とは、自分の強化したい運動を自由に行う時間のことである。

「おい、あいつと稽古出来るように交渉してくれ」平助が佐川にささやいた。佐川がその週の取り締まり生徒だったからだ。

「分かった」佐川が緊張した顔で頷き、男の側に行って何事か話した。男は狐目を更に細めて平助を見た。

二人は道場の中央で向き合った。

「先輩の胸をお借りします」皮肉を込めて平助が言った。

「生意気な一年だ、後悔するぞ!」

男は小柄な平助を見縊みくびっているのか、両手を大きく広げて余裕を見せた。

平助は構わず男の前襟を取った。

勝負は一瞬で決まった。

平助は身を沈めざま男の懐に飛び込むと、一気に男を投げ飛ばし、背後から男を締め落としてしまったのだ。

佐川が固まったままそれを見ていた。


その事があってから、平助は陸幼で一目置かれる存在になった。

そんな平助だが、教官達は平助を可愛がった。特に武技の教官は平助に目をかけ、実技の時などは平助を相手に手本を見せた。


「無門、武術は誰に習った?」ある日剣道の教官が平助に訊いた。

「はい、祖父であります」

「余程名のある人であろうな?」

「西南戦争で、警察抜刀隊の隊長をしておりました。無門弁千代と申します」

「そうか、俺は寡聞かぶんにしてお名前を存じ上げぬが、お前をそこまで育て上げたとは、いずれ名人には違いあるまい」

「はっ!ありがとうございます」平助は祖父が褒められた事が素直に嬉しかった。

「いつか、お会いしたいものだ」そう言って教官は笑った。

平助の、陸幼での生活はこのようにして始まった




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