豆腐※の角に頭をぶつけた王太子殿下
「ああ、どうしましょう」
足元に、男の死体が転がっていた。間抜け面のそれの後頭部からはどろりと真っ赤な血が流れ、息もしていなければ脈もない。これは、確実に死んでいる。
「私、王太子殿下を殺してしまったわ……!」
「え、まじすか」
「誰!? ――ってなぁんだ、サヤカさんね」
彼女の姿を目で捉え、ほっと息をつく。彼女は恐る恐るというふうに部屋の真ん中まで足を踏み入れ、私を見てそして床に転がるものを見た。
「これはまさか……」
「ええ、この国の王太子殿下よ。今は死体だから、王太子殿下だったもの、の方が適当かしら」
今や死体となったこのものは、ほんの数分くらい前まではこの国の尊い尊い王太子殿下であった。ご愁傷様です。南無南無。
「えええ、なんでそんな平然としてるんですか、アリア様。これ、貴女の婚約者ですよね?」
たしかにサヤカさんの言う通りで、アリア侯爵令嬢――つまり私と、バカナ王太子殿下は婚約関係にあった。あと一年もすれば正式に結婚するはずだったが、彼が死んでしまったのでそれはおじゃんだ。
「婚約って、死んでからも続くものだったかしら? あっ、これが最近流行りの婚約破棄ね!?」
「いやいやちょっとアリア様。これは婚約破棄よりまずいですって。殿下殺したらバッドエンドで、貴女も処刑されちゃうんですよ」
「失礼ね、言われなくても分かってるわ。さっきのは冗談よ。私がどれだけやり込んでたと思ってるの」
さて、私とサヤカさんにはとある共通点がある。それはふたりが異世界からの転生者であり、どちらもこの世界を舞台としているらしき乙女ゲームをプレイしていたということだ。ちなみに私がいわゆる悪役令嬢、サヤカさんが聖女でヒロイン、バカナ王太子殿下は攻略対象のメインヒーローだった。
「そういえば、サヤカさんって聖女じゃない! ちょっと癒しの魔法でこの死体復活させられたりしない?」
「さすがに死体は無理っすね」
「えー、現実って非情なのね。ゲームでは、愛の力で死んでも復活させられたのに」
私たちがプレイしていた乙女ゲームの中には攻略対象が途中で死んでしまうルートがあり、そのときに今までの好感度次第で復活させられるか否かというイベントがあった。
「あ、一応この世界でも愛があれば死体でも復活しますよ。ただ私がこれのこと愛してないんで無理ってだけです」
「あー、なるほどねぇ」
それは残念なことだ。彼女が彼を愛していれば、彼は復活できたというのに。
「……あら? でもサヤカさんってバカナ王太子が推しだったんじゃなかったかしら」
以前ふたりで誰推しかの話をしたときに、彼女は圧倒的にバカナ王太子推しだと言っていた。彼女は床に転がっているそれを一瞥した後に、苦笑を浮かべる。
「ゲームではバカナ推しだったんですけど、やっぱ現実ってなると話は変わりますよね。あんまりお馬鹿さんだとちょっと……」
「どうしましょう、否定できないわ。彼、本当にお馬鹿で……っ! ほ、ほんとうに……っ」
「アリア様ぁ、泣かないでくださいよ……私まで悲しくなっちゃいます」
泣き始めた私の頭をよしよしと撫でてくれるサヤカさんは、やはりこの世界のヒロインに相応しい。優しい聖女様の彼女とは、私は悪役令嬢とはいえとても仲良くしている。それに比べて、この世界の攻略対象はと言えば。
「幼い頃の彼はね、とっっても可愛かったのよ!? もうなんて可愛いお馬鹿さんなんでしょうって。……でも、でも、現実を見たら……彼が将来王位に就くのだと思うと、不安で仕方なくなって……! もう愛どころではなくなったわ。いかにこの国を滅亡から救おうかと……!」
「ゲームでは国の将来なんて考えなくて良かったですけど、現実ではそうはいかないですからねぇ。バカナ王太子殿下も、マヌーケ公子も、ネクラン侯爵令息も、伯爵家のブキとヨウの兄弟ふたりも、ゲームでは可愛かったですけど現実では頼りないですし」
「そう、そうなのよ! もうこの国の未来不安しかないわよね!?」
バカナ王太子、マヌーケ公子、ネクラン侯爵令息、伯爵家の双子の兄弟ブキとヨウは、乙女ゲームの攻略対象たちだ。
お馬鹿、間抜け、根暗、不器用。そんな彼らを愛でながら養っていくのが私たちがやっていた乙女ゲーム。ゲームの中ではみんな母性本能に働きかけてくるたいへん可愛い男の子たちだったのだが、現実ではそう可愛がっているばかりではいられない。なんてったって、彼らは将来はこの国の政治を担うことになる高貴な身分のお方たちなのだから。
「それで? あまりの馬鹿さに我慢ならなくなり、こんな男に王位を継がせてなるものか――っと殺したんですか?」
「いいえ、違うわ。私は殺すつもりなんてなかったの。ふざけてただけなのよ。……サヤカさん、ちょっとあれを見てちょうだい」
私が指差す方向を見て、サヤカさんは目を丸くした。
「あれは……豆腐?」
「そう、豆腐の模型よ。大理石でできているの」
「なんでまたあんなものが」
「話せば長くなるのだけれど――」
私はサヤカさんに、豆腐の話を始めた。
――前世で日本人だった私は、それはそれは豆腐を愛していた。こよなく愛していた。好きな料理は豆腐ハンバーグ、好きな飲み物は豆腐の味噌汁、好きなお菓子はおからクッキー、好きな言葉は「豆腐の角に頭ぶつけて死ね」……というくらいには、豆腐を愛していた。
そんな私はある日、豆腐が食べたくなって近所のスーパーに豆腐を買いに行った。その日はとにかく豆腐が食べたすぎて、家にあったストックの十丁の豆腐をあっという間に食べ終わってしまったのである。しかし十五丁の豆腐を購入した私はるんるんと家に帰る途中、よくある異世界転生パターンよろしくトラックにバァンと撥ねられて、あっけなくお陀仏となってしまったのだ。ぐしゃぐしゃになってしまったであろう、誰にも食べられずに終わったであろう十五丁の豆腐のことを思うと、今でも涙が出てくる。
豆腐のことを思いながら死んだ私は、気づけば自分がプレイしていた乙女ゲームの悪役令嬢になっていた。悪役令嬢には基本的にはハッピーエンドはなく、婚約破棄のすえ追放か、あるいは何かしらやらかして処刑されるかだ。しかしそんな幸薄い結末よりも私が悲しかったのは、この世界に豆腐が存在していないことだった。
父親にねだってみて、この世界の東の国から豆腐らしきものを取り寄せたこともあった。けれどこの世界のそれは私の愛するものとは似ても似つかず、到底豆腐と言えるような代物ではなかった。家の料理人たちと一緒に、豆腐を再現してみようと励んだこともある。けれどそれもうまくいかず、結局転生してからの十七年間、私は豆腐を食していない。
私は落ち込んだ。もう生きている意味などないと言いそうなほどに落ち込んだ。そんな私の様子を見かねて父親が用意してくれたのは、豆腐を模したグッズである。味や食感は再現できなかったが、見た目だけならと。その舌を喜ばせることはできないが、せめて目だけでは豆腐を愛でて楽しめるようにと。ことあるごとに豆腐グッズを贈られ、私の部屋はそれらで満ち溢れている。
そして今日の悲劇は、その豆腐グッズの最新作のせいで起こった。私の十七歳の誕生日のプレゼントは、胸のあたりの高さまである巨大な豆腐の模型。私はそれを崇め、毎日その巨大豆腐に礼をして、前世の最後の豆腐を弔い、この世界でも豆腐が食べられる日が来ることを願い、豆腐という尊き存在を祝福し感謝していた。
今日、バカナ王太子殿下は私の部屋にいらっしゃると、その巨大豆腐にたいへんな興味を示された。私は豆腐に興味を持ってくれたことが嬉しくてマシンガントークを始め、「豆腐の角に頭ぶつけて死ね」という言葉の話までした。それは後頭部に剛速球で豆腐を投げつけたら実際に起こりうるのだろうかなんて話もした。そして恐ろしい言葉をもって、彼を殺したのだ。
『もし本当に豆腐の角に頭ぶつけて死ぬ方がいらっしゃったらびっくりです。不謹慎ですけど、あまりに滑稽な死に方に笑ってしまうかもしれませんね』
『それが見られたら、君は笑ってくれるのか?』
『はい、そうですね!』
ほんの冗談のつもりだった。まさかそんなことは起こり得ないだろうと思っていた。バカナ王太子殿下が椅子から立ち上がって巨大豆腐(大理石製)に近づくのを、私はぼんやりと眺めていた。そしてガンっという音とともに彼が倒れたのを見て、目を丸くしたのだ。彼は自ら豆腐の角に頭をぶつけて、血を流して死んでしまった。あまりのショックに呆然と突っ立っていた私は、しばらくしてやっと彼の生存確認をした。彼は息も脈もなく、やっぱり死んでしまっていた。
『ああ、どうしましょう……。私、王太子殿下を殺してしまったわ……!』
――そして、冒頭のシーンへと続くのである。
「私のせいでっ……私のせいでバカナ殿下は……」
「アリア様、ちょっと待ってください? それって……バカナ殿下のただの自殺なのでは?」
涙をぽろぽろと零しながら、その言葉にはっとした。たしかによくよく考えてみれば、私は彼に直接手をかけてはいない。ちらりと床の上の死体を見やる。そろそろさすがに、このまま放置していてはまずいだろう。
「……なるほど、なら私はありのままを証言すれば良いのね!」
「はい。私もアリア様の身の潔白を証言しますね」
私たちはバカナ王太子殿下の死を知らせ、その後いろいろと事情聴取をされた。彼の遺体は王城の霊安室に収められ、国王陛下や王妃殿下は彼の死をたいそう悲しまれた。その死因をお伝えするとさらにいっそう悲しみを深められ、とても見ていられなかった。
そして事件の次の日には、こんな新聞記事が発行された。
――――――
【訃報】王太子殿下、豆腐※の角に頭を強打し逝去
☓☓年○月△日、バカナ王太子殿下が亡くなられた。享年十七歳だった。死因はアクヤーク侯爵邸にあった「豆腐」※の角に頭を強打したことによる脳内出血であると見られており、現在詳細の解明が進められている。
〜中略〜
※ちなみに大見出しにある「豆腐」とは、アリア・アクヤーク侯爵令嬢の自室にあった置物のことで、大きな大理石製の直方体だった。アリア嬢曰く本物の「豆腐」は神の最高の創造物であり人類に幸福を与える存在であり、その活用法の多さたるや誰もが目を丸くするほどだという。その白さや滑らかさはもとより、大豆のその(以下豆腐についての話が延々と続く)――……
――――――
国中の人が彼の死を悲しみ――そして同時に、彼が王位を継ぐことにならなくて良かったとほっとした。悲しいことに、彼は国民みんなにそう思われるほどにお馬鹿さんだった。
私はみんなからの質問攻めに答えるうちにだんだん彼の死を本当に実感してきて、胸に悲しみがじわじわと攻め入ってきた。王太子としては相応しくないお馬鹿さんだったが、やはり私は彼のことが好きだったのだ。
彼の姿を見に行くべく、私は霊安室に足を踏み入れた。そしてそこにいる人の姿と、その人の腕の中にあるものを見て、過去最大に目を丸くした。
「……アリア」
「バカナ、殿下……?」
バカナ王太子殿下が地に足をつけ、立っていた。息をしていて、瞬きもしていて、唇を開くと私の名を呼んだ。その腕の中には日本でよく見るような鍋があり、その中には――豆腐が、入っていた。
「これが、君の言っていた『トウフ』か?」
「そう、そうです! それがまさに豆腐です! 殿下、どうして……?」
「よく分からないけど、何か紙がある」
「紙……?」
たしかによくよく見てみると、鍋を持つバカナ王太子殿下の手には、白い紙も握られていた。彼にゆっくりと近づき、鍋の中の豆腐のことがめちゃくちゃ気になりながらも、その紙を受け取って開いてみる。それは日本語で綴られた、手紙であった。
――――――
拝啓、アリア殿
あの事件と豆腐について書かれた新聞記事が、ひらりとこちらまで飛んできました。私は〝豆腐の女神〟です。貴女の豆腐愛に心打たれ、そして同時に事件のことをとても悲しく思いました。
私たち〝大豆の神々〟で話し合った結果、貴女の深い信仰心に祝福を与えることにしました。豆腐の悲劇によって命を落とされた可哀想な青年は、貴女の豆腐愛によって復活しました。そして豆腐を心から望まれる貴女に、ささやかながら贈り物がございます。
ひとつは豆腐の現物。もうひとつは、豆腐の製造方法を記した紙です。貴女の世界に豆腐が存在しないなんて、とても残念なことです。けれど、ないならば作ってしまえば良いのです。貴女のその深き豆腐愛をもって、ぜひそちらの世界でも豆腐を広めてください。〝豆腐の女神〟はいつでも貴女を見守っています。
ついでに私の夫の〝味噌神〟も、貴女に何か与えたいと味噌の製造方法を記してくれました。貴女がいつかその世界でも味噌汁を作ることができる日を、夫婦ともども願っております。
――〝豆腐の女神〟と〝味噌神〟より、愛をこめて
――――――
「豆腐の、女神様……!」
その手紙を読んで、私は感動で泣きそうだった。
「ごめんね、アリア」
「殿下……?」
バカナ王太子殿下は、豆腐の入った鍋を持ったままその場で片膝をついた。私は豆腐に目を奪われそうになりながらも、こちらを真っ直ぐに見つめるバカナ王太子殿下と視線を合わせる。
「僕は馬鹿だから、豆腐の角に頭をぶつけたらどうなるか考えてなかった。君が笑う顔を見たくてぶつけてみたら、死んでしまった」
「……殿下」
まさかあんな冗談を真に受けて、しかも「笑顔が見たくて」あんなことをしたなんて、全然知らなかった。バカナ王太子殿下は頬を少し赤くしながら、はっきりと言う。
「アリア。君のことが好きだ。君のことが大好きなのに、今までちゃんと言ってこなかった。死んだら婚約はなかったことになってしまうだろうから、改めて言う。…… 一度は死んだ僕だけれど、どうか僕の妻になってはくれないだろうか? 僕と一緒に、豆腐を作ろう」
「バカナ殿下……!」
私は豆腐の入った鍋の取っ手を掴んだ彼の手に、自分の手を重ねた。そして豆腐をたっぷり三十秒ほど眺めた後に、ようやく彼の方を見て答えを伝える。
「はい、喜んで。一緒に豆腐を作って、そして豆腐作りに成功した暁には……私は毎日、貴方のために豆腐の味噌汁を作りましょう。あと豆腐料理も!」
そうして初めてふたりで一緒に、私たちは豆腐を食べた。鍋に入った豆腐は真っ白で、醤油も薬味も何もかかってはいなかったけれど、前世で食べたどの豆腐よりも美味しかった。
時は過ぎ、二年後。私たちは、海の見える小さな家でふたりで暮らしていた。
「アリア! 今回の〝にがり〟はどうだろう?」
「どれどれ……あら、前よりとってもうまくなったわ! バカナ、ありがとう!」
「うんっ」
バカナ王太子――今となっては元王太子――が復活してから、城の中はかなりの騒動となった。彼が亡くなったことでユウシュウ第二王子が王太子となり、国は安泰――と思われていたところだったので、哀れにも彼は邪魔者扱いだったのだ。
そこで私たちは王家も貴族社会も捨てて、ふたりで平民になることにした。国の端っこの方にある海の見える家で、豆腐作りに励みつつ料理屋なんてやりながら、慎ましく暮らしている。
「アリアちゃん! 豆腐料理の試作品食べさせてくーださいっ!」
「あら、サヤカ! いいわよ。今日は豆腐のステーキを作ったの」
「わーい! いただきます!」
ヒロインで聖女のサヤカはちょくちょくこちらに遊びに来て、料理屋に金を落としてくれたり豆腐作りを手伝ってくれたり、豆腐料理の味見をしたりとしている。
「アリア、まだ僕より豆腐の方が好き?」
「うーん、そうねぇ……」
豆腐ステーキを食べながら不安そうにこちらを見るバカナに、しばらく考え込むふりをした後ににっこり笑って答えた。
「どっちも大好き! バカナ、愛してるわっ」
「僕も愛してるよ、アリア」
「相変わらずお熱いですねぇ」
サヤカにからかわれながら、私はバカナにキスをする。
日本で売っていたのと比べるとまだまだ完成度は低いけれど、豆腐らしいものが最近はできつつある。毎日豆腐作りをして、毎日一緒に豆腐を食べてくれる夫がいて――私はとても幸せだ。
巨大豆腐(大理石製)は、この家の片隅にぽつんと佇んでいる。殺傷能力を持っていた角は丸く削り、下手に近づけないように周りは柵で囲っている。
――もう二度と、大切なひとが豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまわないように。