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五月蝿い溽暑

作者: 穹向 水透

53作目です。早く春になって欲しいと思っています。

       1


 六月十三日。梅雨。今日も今日とて雨。

 数日間降り続く冷たい雨は街を灰色に染めて、黒い雲は青空を隠している。私の気持ちは深い深い穴の底に追い遣られて、前を向くことさえもストレスに感じられた。改めて、自分は弱い人間だと思った。

 無機質な校舎の三階、屋上に通じる階段で私は蹲っていた。この黴臭くて湿気の籠る、呼吸に不向きな場所が私の居場所だった。

 私は私が嫌いだ。どうやっても、私は社会に馴染めるような人間にはなれなかった。何ひとつとして、私には「普通」の人間らしい部分がないように思えた。「普通」になる努力はしたと思う。でも、なれなかった。どうしてもズレてしまう。そのズレが少しずつ重なって、私のような人間の姿をしただけの生き物が生まれる。構造上、脳はあるけど、中身は空っぽだ。ゾンビみたいなものかもしれない。実際、生きているか、死んでいるか、どっちなのか曖昧だと私は思う。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。私はその趣味の悪い音に耳を傾け、立つことを躊躇った。私は昼休みの間、ここで何をするわけでもなく、ただ蹲っていたので、どうせならこのままでいたかった。

 何もしたくない。

 私は五限目の数学には出なかった。

 五限目の終了のチャイムが鳴り、私はひっそりと教室に戻って、荷物を手に取って校舎を出た。雨の中、私のものであるという確信が持てないビニール傘を差して、敷地から出た。

 雨に濡れたアスファルトばかりを見ながら、ふらふら歩いた。少し熱があるのかもしれない。そう言えば、今日は朝から蹌踉めくことが多かった。その時点で判断力が鈍っていたのかもしれない。

 休めばよかった。

 ずっと寝ていればよかった。

 雨水の浅く溜まった窪みにローファーが突っ込んだ。足に嫌な感覚の冷たさが伝わった。傘でカバーできていないスカートの裾が濡れて色を濃くしていた。憂鬱になって仕方がない。多分、リュックの中身にも水は染み込んでいるのだろう。

 最寄駅までの道は舗装されている筈なのに凹凸が酷い。特に歩道が酷く、私のローファーは距離感が不明瞭な窪みに幾度も進入した。もう濡れていない部分はないので大して気にすることでもないのだが。

 私は傘を閉じた。

 何だか疲れてしまった。

 上を見れば、灰色の空から落ちる雨が顔に当たって痛い。

 下を向いても、頭に当たって痛い。

 何だか後ろ指を指されているような、そんな感じがした。

 最寄駅の無人の改札を通り、ホームに立った。雨空の所為で薄暗いホームには、二時頃なのにうっすらと灯りが灯っていた。私は蛾のように灯りに寄って電車を待った。

 電車の到着予定時刻が近付くにつれて、心の奥で放置されていた想いが、湿気のためか知らないが、入道雲のように膨らんで、私は吐きそうになった。今日という日まで溜め込まれた、人間の振りをしてきた私の想いは膨らむ癖して、鉱物の性質を備えているような、そんな厄介なもので、実のところ、この想いの名前を私は知っている。

 その想いは破滅への近道だが、もしかしたら、その破滅は幸せなものであるかもしれない。

 だから、私の足は前に進んだのかもしれない。

 右足が空気を踏んだ。

 私の身体が傾いていく。

 想いのままに、倒れていく。錆び付いた線路が見える。後ろでぼんやりと灯る灯りは何も知らない。私は水滴がスローモーションで散る様を捉えた。その水滴のひとつひとつは、私に近付いてくる何かを映した。

 私の身体が空中で止まった。

「大丈夫?」

 声がした。それは無機質なものだったが、私の負の想いは縮み始めた。私はホームに引き戻されて、その場に頽れた。

「雨で滑った?」

 私が声の方を見上げると、スーツを着た若い女性が立っていた。女性にしては高めの背で、顔立ちのはっきりした美人だった。

「もしかして、飛び込もうとした?」

 彼女の言葉に私は何も言わなかったが、表情に細かな変化があったらしく、彼女は何度か頷いてから言った。

「死にたいと思うことは悪くないよ。生きてることが楽しいとしか思えない方が異常なんだから。でも、死ぬのって意外に迷惑が掛かるからさ、死にたいなら迷惑の掛からない方法だね。その方がずっと美しいよ」

「美しい……」

「そう。電車に飛び込んだら身体はバラバラになるし、後処理だって大変。ね、どうせ死ぬなら綺麗で迷惑の掛からない方がいいでしょ?」

 私は頷いた。

 ここで電車がやって来た。到着予定時刻を二分過ぎていた。

「あ、電車来たね。君も乗るの?」

「はい」

「じゃあ、一緒に乗ろう。私は石森希望(いしもり のぞみ)。君は?」

風里月(かざり つき)です」

「月ちゃんか。よろしくね」

 彼女は微笑んだ。私が黙っていると、彼女は私の手を握って歩いた。冷たい雨の中で感じる人間の体温は違和感だったけど、少しだけ視界が明るくなったように思えた。

 電車内はクーラーが効いていて肌寒かった。雨に濡れていた私の場合、余計に冷気が辛かった。それを察してか、彼女は私と接するくらい近くに立った。互いの体温が行き来するくらいの近さだ。

 彼女はバッグからハンカチを取り出して、私に渡した。私はそれで水滴のついた肌を拭いた。

「どうして飛び込もうとしたの?」

 彼女は唐突に訊ねた。

「どうして……私にもわからない。気付いたら足が勝手に進んでいて、そのまま……」

「電車が遅延しててよかったね。いや、死にたかった子にそれはおかしいか。何て言うのかな……」

「何でも大丈夫ですよ」

「そう? なら、取り敢えずはよかったね。あれで死んだらずっと後悔することになるからね」

 彼女は微笑んだ。無機質な声をしている彼女だが、笑顔は人間らしい温度のあるものだった。

 私たちは端小路(はしこうじ)駅という、私の家の最寄駅に着くまで話をした。

 彼女についてわかったことは、今年、短大を卒業して、就職したはいいが、そこがあまりにもブラックな会社であったため、今は新たな職場を探しているということだ。

 彼女は化粧品についての話などをしてくれた。というのも、私は化粧をしたことがなく、彼女が言うのに、化粧をすれば気分も上がるからだそうで、百円ショップで買える手頃な化粧品の存在を教えてくれた。

 たった十五分程度の会話だったが、それは私にとってあまりにも濃密なものだった。私には知らないことが多過ぎると改めて思い知らされた。化粧品を初めとする彼女の話は、基本的に私を励ますもので、ぼんやり死にたい私に前を向かせようとしたのだ。

 私としては、こんな人間らしい接触ができた時点で、負の想いは心の奥に消えていたため、彼女の励ましは過分なものだったように感じた。罷り間違っても、今は勝手に足が死に進むなんてことはない筈だ。

 端小路で降りて、閉まりゆくドアを振り返ると、彼女が手を振っていた。もう会うことはないかもしれないが、私は彼女を忘れない。電車が走り出して、彼女との距離がどうしようもないほど離れていく内に、感じたことのない感情が心の内で膨らみ始めた。

 もっと話がしたい。

 これは生まれて初めての想いかもしれない。

 今はポツポツと降るばかりの雨が頬に当たって涙のように流れた。

 私はハンカチで頬を拭いた。

 一瞬の違和感。

 ハンカチを見ると、それは私のものではなかった。端の方に「ノゾミ」と刺繍されていたことからもわかる。最初に貸してもらってから、返すのを忘れていたのだ。

 慌てて振り返ったが、当然ながら電車はいない。

 これは私の心の奥で、もう一度、彼女に会いたいという想いがやったことなのだろうか。やはり、私は人間には程遠いのかもしれない。


       2


 数日間、私は悩んだ。このハンカチを返すにはどうしたらいいのだろうか。私は彼女について、石森希望という名前であるということぐらいしか知らない。つまり、探す宛が殆どないのだ。唯一あるとするなら、駅前にある探偵事務所のような場所を頼るしかないと思った。

 学校で時折耳にする話なのだが、その探偵事務所の所長というのは金髪碧眼の幼い少女らしく、それでいて仕事の達成度は非常に高いそうだ。だが、依頼を受けるか否かは、完全に所長の独断らしく、断られることも屡々あるらしい。というように、かなり胡散臭い話ではあるが、私はそこに縋ってみることにした。

 今日も今日とて雨が降っている。東の方角にはちらりと青空が見えるけれど、私の上は降っている。私は学校帰りに探偵事務所を訪れた。あの件以来、私の負の想いは殆ど顔を出さなくなったようで、少しは呼吸が楽になった。目的の探偵事務所は廃ビルのような建物の四階にあった。一階から三階まではテナント募集中の空虚で不気味な雰囲気が漂っているので、私は陰鬱な階段を早足で上った。四階に辿り着いてすぐの扉には「探偵事務所」とだけ書いてあった。私は呼吸を整えてからノックした。

「はーい?」と軽快な高い声。

 私が扉を開けると、事務所とは思えないほど、極端に家具が少ない空間が現れた。最低限のデスクとソファだけで、灯りは灯っておらず、まさに廃墟のようだった。

 ソファには小柄なブロンドの少年が座っていた。

「どうも」

 先に少年が声を発した。異国めいた風貌にも関わらず、発音は歴とした日本語のものだった。彼は空間の、とりわけ暗い方に向かって、「お客さんだよ」と叫んだ。その呼び掛けから少しして、暗闇からフランス人形のようにでき過ぎた風貌の少女が現れた。噂が正しいなら、彼女が所長なのだと思われた。

「あら、どうも。取り敢えず、ソファにどうぞ。ほら、アンリ、仕事だから退いてね」

 彼女がそう言うと、少年は部屋から出て行った。すぐに階段を下る無機質な音が聞こえた。

「ご機嫌よう。どうされました?」

「えっと、人を、探して欲しくて」

「それはどういう人なの?」

 私はハンカチを出し、名前を伝えた。また、手掛かりになるかわからなかったが、彼女の現在の境遇も伝えた。

「ふぅん。それで、どうして探したいの?」

 私は言葉に詰まった。しかし、こういう時は真実を伝えるべきだと思った。ただでさえ、依頼を受けるか否かわからないのだから、ここで下手な誤魔化しは無用だと判断した。

「へぇ。電車に飛び込むところを助けられたのね……。それで、この借りたハンカチを返したいんだ? 健気ね……」

 彼女は私の眼を見つめて頷いた。明らかに年齢上は若い筈の彼女が、何百年も生きている魔女のように思えた。その青い瞳には底知れない魔力があると言っても過言ではない。

「そうね、いいわ、その依頼を受けましょう」

「え?」

「面白そうだから、ちょっと探してみるわね。あなた、名前は?」

「風里……月」

「私はマリー。じゃあ、月さん、電話番号とか書いておいてね。多分、三日ぐらいで見つかると思うから、見つけ次第連絡するわね」

 私は紙と古風なペンを渡されたが、ここには応接用のテーブルがないので、非常に書き難かった。

「あの、お金とかは?」

「そうね……前金とか要らないから、達成報酬だけでいいわ。依頼を達成したらまた伝えるわね。あ、安心して、私はそんなに強欲じゃないから。良心的な値段にしとくわね」

 この日、私は紙に電話番号と名前を書いて探偵事務所を後にした。帰り道で振り返った建物の四階は真っ暗だったが、その窓辺にマリーが立っているように思えてならなかった。


       3


 三日待ったが連絡は来ず、結局、連絡が来たのは一週間が過ぎてからだった。マリー曰く、部下のアンリが仕事をサボっていたからだそうだ。私としては時間よりも見つかることが重要だったので、咎めたりはしなかったし、そもそも、咎めるような立場の人間でもなかった。

 私が探偵事務所に向かうと、一階の入口でマリーは待っていた。私が不思議に思って訊ねると、今から石森希望のところに案内するから待っていたと言った。

 今日は午前中に雨が降り、午後は曇りで、非常に蒸し暑い。私とマリーは雨上がりだが気分の晴れない街を歩いた。マリーがタクシーを止めたので、私たちは目的地までそれに乗っていくことにした。代金はマリーが受け持つと言ってくれた。

「何処まで行くんですか?」

重日(かさねび)ってところ。重日駅って通学で通るでしょう?」

「通ります」

 重日までは端小路から二十分程度で、私たちが降りたのは、建設工事がされている前の道路だった。

「ここは?」

「目的地よ」

「でも、工事中なのでは……?」

「工事は停止中よ。何故かは知らないけれど」

 マリーが躊躇うことなく、建設中の建物に入って行くので、私も続いた。どうやら、ここは何かのホールを造っているらしい。

「月さんは石森さんの職業ってご存知?」

「いえ、知らないです」

「彼女、建設会社にいたのよ。ここはその会社の担当なの」

 如何にも造っている途中といった感じの通路を抜けると、メインホールらしき場所に出た。大きな舞台に客席、二階もあるらしく、不思議な空気の漂う空間だった。その舞台に腰掛けている人影が見えた。その人は髪が長く、身長が高めであるように思えた。

「希望さん……」

 私は客席間の通路を下って舞台に近付いた。彼女の方も気付いたのか、私に手を振った。何処か疲れているのか、表情は少し沈んでいたが、確かに彼女だった。石森希望だった。

 私は彼女の横に腰掛けた。まだ空調が整備されていないらしく、ここはかなり暑くて、湿気で心地が悪かったが、そんなものは気にするほどのことではなかった。

「希望さん……これを」

 私は彼女にハンカチを返した。

「え? 態々これのために?」

「返さなくちゃって思って……」

「……ありがとう。もう、死にたいとは思ってない? 足が勝手に進んでしまったりしてない?」

「大丈夫です。それなりに生きています」

「それなら良かった。救った甲斐があるよ」

 彼女は微笑んだ。

「月ちゃんは学校とかどう?」

「……楽しくはないけど通ってますよ」

「休んだりしてない?」

「時々……」

「休むのは大事だから悪いことじゃないよ。休まなきゃ人間って壊れちゃうから。壊れたらどうしようもないからね。機械は再利用しようと思えばできるけど、人間って再利用できないんだよ。だから、本当は利用する側が壊れないように適度に管理すべきなの。本当はね。でも、壊しに掛かってるからさ、結局、自分で壊れないように気遣うしかないんだよ」

「壊れないように……」

「そう。壊れたら戻せないの。人間はナマモノだから。腐っていく一方なんだ。月ちゃんは自分を大事にしてね」

「うん」

「ねぇ、月ちゃんがどうして死にたかったのか、教えて?」

「……人間になれないから」

「人間に?」

「うん。私はちゃんとした、ごく普通の、ありきたりで何でもない人間になりたかった。だって、周りはみんなそうだから。人間らしく他の人間と関係を築いて、群れて成長していく。でも、私はその関係を築くどころか壊すしかできなくて、仲間もいないから、ずっと成長できなかった」

 私がそう言うと、彼女は少し口角を上げて言った。

「大丈夫だよ。人間なんて、大抵が成長できないんだから。仲間も本当はいないんだから。月ちゃんが少し繊細なだけで、実はみんなひとりぼっちなんだよ。でも、ひとりぼっちであることから眼を逸らしてる。仲間がいると思いたがってる」

「……そうなら気が楽かも」

「そうだよ。生きることって、人間らしくあることって、大して難しくないんだよ。何も考えずにいればいいんだから。あ、でも、何も考えない方が難しいのかな……」

 彼女は考え込むような表情になった。

 私はそんな彼女を眺めた。凛々しい瞳は真っ直ぐで、彼女が私よりも優れた人間であることが嫌でもわかる。彼女のシャープな輪郭の美しさを見つつ、首に視線を移すと、そこに普通ではないものを見つけた。

 白く細い首の半ば襟に隠された部分が、赤紫色になっていて、少し盛り上がり、見間違えかもしれないが、何やら蠢いているようだった。細かではあるが波打つ首の皮膚は、明らかに普通ではなく、考えたくはなかったが、寄生虫の存在が嫌でも思い浮かんだ。

 私は視線を動かして、ホールの客席を見回した。舞台から見て右側の上の方にマリーが座っているのを見つけた。彼女は落ち着いた表情でティータイムを楽しんでいるようだった。

 私の視線に気が付いたのか、彼女は私に手を振った。

 私は、私が何か不思議な事柄に囚われているような気がしてならなかった。明らかにおかしい。何かがおかしい。何かが狂っているような気がするのだ。それは蒸し暑い梅雨が齎す狂おしい熱気によるものではない。明らかに非人間的な異変が私を包んでいる。

「あの……」

「何?」

 彼女は私の方を見た。その顔は石森希望の整った顔だったが、やはり、綻びがあった。前髪で隠れ気味の額の右端に、紙が剥がれるように皮膚が捲れている部分があり、その捲れた下は赤紫色になっていた。

「失礼なことを訊いていいですか?」

「失礼なこと? いいけど……」

「希望さんは、今、生きていますか?」

 私がそう発した瞬間、既に確認済みの首元と額の異常が増大し、首元の痣のような盛り上がりは生きているように大きく波打ち、額の皮膚は急速に剥がれていった。私は叫びそうになったが、声を押し留めて、変貌する彼女を眺めた。やがて、首元や額以外にも手や足に同様の異様な現象が起こり始め、彼女の内部から不快な音が鳴り出した。私はその音を聞いたことがあった。しかし、こんなに大規模なものではない。

 ブブブブと鳴り止まないそれは、蝿が耳元を飛ぶ際に鳴らす不快極まりないものだった。それが彼女の内部、全体から絶え間なく聞こえるのだ。彼女の額や足の皮膚が捲れた下は今や空洞のようになり、知りたくはなかったが、その向こうで何かが飛び回っているのがわかった。

 私は助けを求めるようにマリーを見た。彼女は席を立って、ゆっくりと舞台に近付いていた。

 マリーが来るよりも早く、石森希望の内部の羽音が最高潮になり、遂に額と足の空洞から無数の蝿が飛び出し、彼女の身体を覆い始めた。気が遠くなるほどに多い蝿にすっかり覆われた石森希望は、マニアックな芸術品だと一瞬だけ錯覚させるようなものになった。最早、人間と言えるのは形状だけで、羽音に包み隠された姿は化物と形容できるものだった。

「マリーさん、これは何ですか? あまりにも異常です。説明して下さい。本物の石森希望さんは何処なんですか?」

 私が訊ねるとマリーは首を傾げて微笑んだ。

「ここにいるじゃないの」

 彼女はそう言って、私の横の変わり果てたものを指差した。

「どういうことです?」

「……本物、見たい?」

「やっぱり、これは偽物なんですね?」

「えっとね、そうとも言えないのよね……」

 マリーは舞台に上がり、袖の方に消えたが、少しして、何かを引き摺りながら戻って来た。それは寝袋で、明らかに中身が入っていた。

「これ、ちょっと開けてみて」

 マリーがそう言ったので、私は恐る恐る寝袋のジッパーを動かした。動かす前に中身が何か、何となく私は悟った。この寝袋の周囲に漂う尋常ではない悪臭が物語っている。

 ジッパーを勢いで動かし、寝袋を解放すると、もう二度と見たくない、世にも恐ろしい記憶から最優先で消して欲しいものが顔を見せた。悪臭で頭が眩んだが、その半ば崩れたものが石森希望であることは間違えようがなかった。かなり腐敗が進んでいたが、その顔の特徴は掴むことができたし、服装も六月十三日と同じスーツだった。

「説明して下さい」

 私がそう言うとマリーは簡単に頷いた。

「勿論。依頼主にはちゃんと伝えるのが探偵だからね。まず、謝らないといけないのは、あなたが望んでいないサプライズを仕掛けたことね。死んでいるなら死んでいると簡潔に述べるべきだったわ」

「……やはり、希望さんなんですね」

「そう。私……いや、主にアンリが足取りを追って、最後に目撃されたのが重日駅だったの。重日周辺には石森希望の会社が手掛けるホールがあることから、アンリはここを訪れて、舞台の上で首を吊っている彼女を発見したってわけ」

「それはいつ発見したんですか?」

「えっと、六月十九日ね。あなたが事務所に来たのは十六日だったから、実際のところ三日くらいで発見はされてたのよ」

「どうして一週間経ってから連絡が来たんです?」

「えっとね、これに関してはアンリの責任なの……」

 マリーは頭を下げた。

「あの子が自分の趣味を試そうとして、私に連絡を怠っていたの」

「趣味?」

「エンバーミングってわかるかしら? 死体の保存をする作業なんだけれど、見てわかるように失敗したの。失敗したから連絡を遅くして、腐敗が進行していたように見せ掛けたかったんでしょうけど……」

「じゃあ、こっちの偽物は?」

「こっちもアンリの悪戯ね。あの子、夢を悪用する傾向があるから。ある山間地方で行われてた呪術を試したらしいの」

 マリーはそう言うと蝿に覆われたものに近付き、口に当たる部分に手を突っ込んだ。そして、少し変色した紙切れを取り出した。すると、蝿たちが四方に散り、石森希望擬きは消失した。

「それは?」

「遺書よ。この呪術は死者の遺書を素材としてその死者を一時的に蘇らせる方法なの。死者は遺書に書かれた内容を元に構築されて、それをベースに喋るの。ちょっと読んでみる?」

 私はマリーから遺書を受け取った。 

 腐敗のためかわからないが、所々にあまり気分のいいものではない染みが見受けられる遺書には、始まりこそ整って美しいが、徐々に崩れていく文字が書かれていた。文章自体は長めだが、その半分近くは両親への感謝や死ぬことの謝罪、また、不特定の誰かに対する恨み言で占められていた。そして、残り半分に石森希望の内側が記されていた。

「私は下らない人間だ。誰のためにもならない。ただ自己満足のために生きている。もう死にたい。死に場所を探して、決めた。今は舞台に腰掛けてこれを書いている。雨に濡れた身体が冷たい。私は人助けをした。したつもりだ。電車に飛び込もうとした少女の手を掴んだ。私は余計なことをしたかもしれない。死にたかった少女を救ったことは誰のためになる? 結局は自己満足だ。しかも、死にたい私が死んではいけない理由をバカみたいに喋ってしまった。こうして見栄を張る。見栄を張ってばかりの人生だった。勉強も運動も人間関係もそう。見栄を張って息苦しかった。全てに背伸びして疲れた。疲れた。生きている振りをするのは、もううんざりだ。何のために生きるのかわからない。わかりたくもない。人間なんて全員がひとりぼっち。そんなことは知っている。私は意地っ張りだ。ゴミだ。張り子の虎のようだ。きっと、死んでも見栄を張るに違いない。だから、こうしてここに来た。首を吊るために。舞台で少しでも悲劇を演出したいがために。本当なら電車に飛び込んでもよかったし、ビルから飛び降りたりしてもよかった。でも、死んだ後の形を考えてしまう。四散した肉塊になるのは嫌だ。せめて、人間らしい形で死にたい。私は見栄を張ることだけ。そういえば、ハンカチを貸したままだ。彼女は私のことをどう思っているだろう。きっと……言わない。必要がない。別にいい。だから、返しには来ないで欲しい。私はどうせ見栄を張るから。そういうわけで、死にます。来世があるなら、どうか意思のないものにして下さい」

 私は遺書をそっと畳んだ。

「どう? 私はアンリからちょっと聞いたただけなんだけど……」

「……彼女は彼女みたいです」

 私は横たわる腐った身体を見た。彼女の遺された想いは、彼女が危惧していたように見栄を張っていた。

 彼女は強い人間ではなかった。私のように弱く、人間になりきれないものだったようだ。

 私は彼女の傍で屈み、彼女の顔にハンカチを掛けた。腐った汁でハンカチが変色した。何処からかやって来た蝿が五月蝿かった。ジッパーをまた勢いよく動かして、寝袋を閉じた。

「こんな時に申し訳ないけど、代金の話をするわね」

「……はい」

「えっとね、本当は十万くらいを想定していたんだけど、アンリが要らないことをしてくれたから、お金の代わりにその遺書でいいわ」

「遺書……」

「そう、遺書」

「それをどうするんですか?」

 私が訊ねるとマリーは優しく微笑んだ。

「石森希望の偽物を作るの。彼女の亡骸は私が引き取って、ここでは何もなかったことにするから。後は石森希望の偽物を作って、別の死をでっち上げるのよ。なるべく、身体が形を保たないような死にしてね……」

「どうしてそんなことを?」

「そうね……だって、私は探偵ではないから。私はあくまで商売をする、言わば、何でも屋、行商人。あらゆるニーズに答えるの。世の中にはね、特殊な人間もいるから……」

 私はマリーを睨み付けたが、彼女は何でもないように私の手から遺書を抜き取った。そして、また優しく微笑んだ。

「さぁ、もう帰りなさいね? もうあなたの依頼は終わったのだから」

 私は飛び出すように工事中のホールから出た。そして、次に記憶にあるのは端小路駅のホームのベンチで眼を開けたことだ。

 六月二十三日。今日は蒸し暑い。何もかもが崩れそうだ。

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