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銀鱗楼の夜  作者: 真朱
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後編

その昔、この世界の神々は天上の世からこの地上に降り立ち、人と交わりを持ったという。

長い長い時の果てに、人は神々を敬うことを忘れ、かつて神に仕えていた巫女たちは遊女に堕ちた。

なるほど神々は浮き世を見捨てたもうたのであろう。されど神と人との交わりの末に生まれてきたこどもらは何処へ行ったのか。

繰り返される混血の果てに、薄れて消えてしまったのであろうか。

否、混ざり薄まろうとも、神の血潮の消える事はない。


夜半。

相も変わらず煙を吐いていると、音もなく襖が開いた。

「蝶子か」

どうしてここの女どもは皆が皆声も掛けずに襖を開けるのか。

するりと薄く開いた襖を抜けて滑り込んできた女は夜目にも赤い唇で笑う。

「よくもそんなしれっとしていられるものだねえ。アタシが何を言いに来たんだか、まさか知らぬ訳ではあるまいに」

笑みの気配は消さぬまま、蝶子の肢体から苛立ちが匂いたった。

彼女が纏う闇よりも昏い黒地の衣には、目に痛い黄色の蝶が乱舞している。

それらはまるで柊に襲いかかってくるようである。

「いや、知らんな。何かあったのか」

空惚けて見せると、蝶子は鼻を鳴らしてぴしゃりと後ろ手に襖を閉めた。

「嫌な男」

「お褒めに与り光栄だよ」

「口の減らない男だねえ。今夜の客、あれはなんだえ」

「ああ、そんなに酷い男だったか」

「酷いなんてもんじゃない。あんな男が花街の門を潜るだなんて世も末だ」

「だが金離れは良かったろう」

「女を金で買えるだなんてとんだ了見違いだって言ってンだよ」

てっきり激怒されるかと思っていたが、蝶子の声色はむしろ悲しげである。僅かに肩が下がり、左の袖がだらりと揺れた。

蝶子には左の腕がないのだ。

「これっきりにしておくれな」

きれいに結い上げられていた髪が、情事の痕跡を匂わせて乱れている。怒る気力もない程に疲れているのかと思えば、柊の胸も痛まぬ訳ではない。

だが、それでもなお件の男の持つ人脈をみすみす逃す手はないと柊は考えている。

「あんなのを出入りさせていたら、そのうち桐を差し出せと言い出しかねない」

蝶子は不愉快極まりないという風に顔をしかめた。

だが目が合うと、赤い唇がにたりと歪む。

「おや、顔色が変わったねえ」

「…うるせえ」

「心配しなくっても、そんな事アタシらが許しゃしないサ。あの娘はアタシらにとっても可愛い妹分だからね」

柊の反応を面白がるように、衣擦れの音もさやかに蝶子は傍らに膝をつき、間近から顔を覗き込んで来た。

間が持たず煙管を吸おうとしたら、片方しかない手で蝶子がそれを奪う。

「今じゃ数少ない本物だものね、桐は」

一服深く煙を吸って、煙管は柊の手に戻された。

去っていくかと思われた手は、そのまま柊の指先に触れたまま、かたちを確かめるようにゆっくりと動く。

「まるで自分が偽物だとでも言うようだな」

「偽物だろう…?」

「馬鹿な」

蝶子の指が、柊の指の股をまさぐった。

そこには薄く皮膚が膜を張っている。

…果たしてそれを皮膚と呼んで良いものか、どうか。

その色は緑がかった青である。

「いかにもアタシは巫女として生まれついた。それを否定するつもりはないサ」

どこか遠い目をして、蝶子は彼女にしては珍しく優しげに微笑した。

「でもアンタはアンタを否定しているだろう。ねえ、柊…それはアンタの大事な姪っ子まで否定することになりゃしまいか。あの娘にはもう、アンタの他に身寄りなぞないんだよ」

応う事が出来ず黙り込んだ柊の手を、蝶子の掌が包む。

「アタシはアンタのこの手が好きだよ」

それが何かの証でも、そうでなくとも。

どうしてここの女どもは皆が皆…。

小声で悪態を吐きながら、柊は渇ききった己の心の内がいくらか慰められるのを感じた。

ここまでお付き合いくださってありがとうございました。

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