前編
長編小説の世界観を固めるための習作です。
それ故に、読んで面白いものに仕上がってはいないのですが、この世界とキャラクターに興味を持って頂けましたなら嬉しいな、と思います。
柊は金魚鉢の中に棲んでいる。水のなかを悠然と泳ぎ回る金魚たちを眺めているのは酷く愉快である。
ここの金魚達は、片目が潰れていたり、鰭が千切れていたり、皆が様々に欠損を持っているのであるが、その欠落は彼女らの美しさになんら影を落とすものではない。
その美しさに一層の凄味を与えることはあれども。
「叔父上」
脇息に凭れて煙管をふかしていたら、前触れもなく襖が開いた。
浅葱色の衣の袖を翻し、許しを与える間もなく乱入してきたその娘は、首を傾けて肩で落とした髪を揺らし顔をしかめる。
「灯りくらい点ければいいのに。そろそろ日も暮れる頃だよ」
呆れたように口を開くその姿は、この頃ますます死んだ姉に似てくるようだ。
もっとも、父親の顔は知らぬのでその顔にどんな面影が潜んでいようとも柊には気付きようもない。
「桐」
名を呼んで、昔を懐かしむように視線が過去を探して遠くをさまよう。
「だから俺が起きてるんだろ」
ふう、と煙を吐き出しながら柊は唇だけで笑って見せた。
「嘘。あんまり寝てない癖に」
濃紺の袴の裾を器用に捌きながら近付いてきた桐は、無垢故の真っ直ぐな瞳で柊の顔を覗く。
痛みと陶酔を同時に呼ぶその視線はいつも、柊に失った恋を思い起こさせた。
苦くて甘い。
つらいのに病みつきになるような。
寒い時期だというのに、傍らに立った桐は素足のままだった。その爪は、澄んだ青い色をしている。
昏く深い海の色である。
「何かあったのか」
ぺたりとその場に座り込んだ桐の顔に、憂いの気配を見てとって柊はその白い頬に手を伸ばした。
閉ざされた金魚鉢の中を、唯一遊走することの出来る娘。
「何も」
陶器のように滑らかな肌は触れれば微かに温かく、それが却って不思議に思える。
柊の手に重ねられた華奢な手の先では、こちらもまた青く爪が光っていた。
自由に生きることを許された身でありながら桐が花街に身を置くことを、柊だとて不憫に思わぬ訳ではない。
だが浮き世にはもうここより他に彼らが身を寄せられる場所はないのだ。
「生きているのか確かめに来ただけだよ。こんな酷い顔色をして…」
たまには外に出れば良いのに、と桐の瞳が言う。
桐を引き取る事になって四年、歳は確か十四になったはずである。
嘘の吐けぬ質は誰に似たのか。
それでもそれを口には出さぬ分別は、ここで身につけた知恵か、姉の養育がもたらした思慮深さ故か。
否、彼女の持つ優しさに因るのであろう。
「瀕死の魚か俺は」
「そうだよ。私たち、もう浮き世にふたりっきりじゃないか」
額に額を寄せて、桐はそっと目を閉じた。
「姐さん達がいるだろう?」
「…勿論、姐さん達も私の大切な家族だよ。だけれども」
柊の体温が低いせいか、伝わってくる桐の熱は酷く熱い。
「そういう事じゃないって知っている癖に」
拗ねたように落ちた囁きに身を委ねるように、柊は目を閉じた。
お読みくださってありがとうございました。
お楽しみ頂けましたなら幸甚に存じます。




