消えた背中を探し求めて⑤
何やら得心めいた発言をする弟。
その表情を見る事はせず、私は無言のまま、リビングの扉を開けてその場を後にした。
図星だったから、颯太の顔を見ることも返事することも出来なかったんです。
私が食欲を無くしたのは、入院をしている時からだった。
それを颯太は、暗に示しているんだと思います。
『秋月に会えなくなった時から、飯を食わなくなったんじゃねーの?』って。
弟としての直感が働いたからなのかは分かりませんが、鋭い所を突かれた。
いえ。同じ屋根の下、一緒に暮らしている家族だからこそ、気付ける部分なのかもしれません。
だけど颯太は秋月に対していい感情を抱いていない。
ありのままの本心を伝えようとすると、またきっと激昂させてしまう。
そう思った私は、思わず聞こえなかったふりをしてリビングを出てしまった。
そして一気に階段を駆け上がると、転がり込むように自分の部屋へと入る。
まるで、逃げているみたいに。
「……何に逃げているというの」
ぽつりとドアに寄りかかりながら、私は自分にふと湧いた疑問を投げ掛けた。
弟から?
それもあるだろうけど、根本的な部分では違う気がする。
じゃあ食欲がないのを指摘されたこと?
それも答えになっているようでいてなっていない。
じゃあ一体……。
ドアに寄りかかったまま、天井を仰ぐ私がしばし思案に暮れていると、ふいに一人の顔が思い浮かんできた。
「あ…………っ」
口から声が漏れ出たと同時に、涙が頬を伝う。
答えは至極簡単だった。
「秋月に……会いたい」
秋月に会えないという現実。
そこから私は逃げたかったんです。
だから食事も喉を通らないし、その事実になるべく直視しないよう、今自分がやるべき事だけに頭を働かせようとしていた。
矛盾していると言われても仕方が無い、私のぶれた行動。
でもそうでもしないと、悲しみで胸が押しつぶされてしまいそうになるから、別の事を考えるしかなかった。
頬を伝う涙を拭わないまま、私はふらふらとベッドの方へと向かう。
そう言えば秋月がうちに泊まっていった時、このベッドで一緒に寝たんだっけ。
あれから何日も経っているから、もう彼の温もりはとっくに消えているんだけど、私は少しでも秋月を感じたくて、そのまま身を投じる。
ばふんとほこりが宙を舞っても気にならない。
確かにあの時まで、彼は私のそばにいてくれていた。
例え温もりがここになくても、その記憶だけは鮮明に私の中で残っている。
それがじんわりと更に涙を誘って、もう、私は何も考える事が出来ず、小さく嗚咽を洩らしながらとうとう泣いてしまった。
ずっと胸の内に燻っていた悲しみが、堰を切ったかのように溢れ出す。
涙で枕がびしょびしょになっても構わなかった。
夕飯を食べ終えた颯太が、私の部屋の前で立ち止まったような気がしたけど、それすらも厭わなかった。
ただ一点。
私が思っている事は、これだけ。
「会いたい……会いたいよぉ秋月ぃ……っ」
その晩の私は結局、秋月を想って、ただ泣いて過ごすだけになってしまった。
まだ深刻な事態は終わってない。
今もなお、時が刻むと共に進んでいっている。
でも今夜だけはせめて、彼を想って涙するのを許して欲しかった。
明日から、また頑張るから……。
今日の運勢は……。
仕事運『悪』、金運『悪』、恋愛運『最悪』
…………。
軒並みオール悪いって何の因果でしょうか。
それとも何かの暗示?
視聴するのが日課となっているテレビの占いコーナーが、目を腫らした私の視界に入ってくる。
少し眉尻が上がったけど、毎朝両親が朝食時につけている番組がこれなので、ついつい見てしまうのは仕方がない事だった。
最早習慣となってしまった、と言っても過言ではないですからね。
だけど、最近では全く信用していないので、すぐさま内容をスルー。
手早く焼きたてのパンにバターを塗り、牛乳と共に胃袋へ押し込んで、さっさと朝食を済ませてしまおうと思った。
早めに学校行って、今日こそはあの偏屈体育教師にぎゃふんと言わせてやりたいですから!
昨夜は一晩中泣いてしまった私だけど、それが返って良かったらしい。
泣いたら精神的に落ち着く、ってどこかで聞いた覚えがあるけど、確かにそれが私の身に及んでいるみたいだった。
今朝は少しばかりすっきりしてて、あまつさえ、私の闘志を再燃させる結果をもたらしたわけですから。
我ながら単純だと思う。
秋月を想って泣いて。どうして彼ばかり責められなければならないのかと悲観して。
だんだんその理不尽さが怒りに変わっていったんだもの。
「ごちそうさまでした」
さて、今度はどうやってあの教師を説き伏せようか……。
ぽんっと両手を合わせた後、食べ終わった食器を台所へ片付けた私は、ぶつぶつと呟きながら鞄を手に取った。
真山流香十六歳。
いざ、敵陣(学校)へ出撃を開始します!
…………ちょっと、沙希と智花、哲平くんのが移ったかも。
一瞬、そんな感が否めませんでしたが、一先ず気に留めないようにした私は、そのまま家を出ようとする。
でもそこへ、慌てた様子の颯太が声をかけてきた。
「ねーちゃん食うの早っ! ちょっ、ちょっと待った! 俺も行く!」
ん?
あれ、そういえば颯太、今日は朝練どうしたんだろう?
いつもは私が朝の支度を終える前に登校しちゃうから、朝食すら一緒に摂らないのに。
何故か今朝は家にいる弟。
そんな弟に対していぶかしげな視線を送ってみたけど、本人はそれどころじゃないらしく、慌ただしくもパンの欠片を口に押し込んで、私の後に着いて来た。
「ほら、まだ左腕治ってねーんだから鞄持つって」
「い、いいよ。颯太だって荷物いっぱいじゃない」
あ。自分で言ってて気が付きました。颯太……部活用の鞄だ。
肩から斜めがけにぶら下がっているサッカー部仕様の大きな鞄を認めた私は、今日が別に部活がないわけではない事を思い知らされた。
サッカー部の練習は、いつも通りあるんだ……。
じゃあ朝練だけないのかな?
疑問に思ったけど、私の鞄を巡って当人と押し問答をしていたので、この時は突っ込みを入れる暇などなかった。
勿論、颯太の胸中に巡り始めていた思いも、知る由ありません。
まさか、弟がこれからあんな行動を取るなんて……。
到底そんな事を夢にも思わない私は、久方ぶりの賑やかな登校に勢いづいて、そのまま職員室へと直行した。
占いで今日の私の運勢はすこぶる悪かったけど、そんなもの払拭するぐらいの気迫は、『こちら』にはありましたから。
秋月を救うため。
これが、『私たち』からの最後の訴えです。
「何度足を運んできても無駄だ! お前が何と言おうと、秋月の処分は変わらない!」
「それでも言わせていただきます! 先生が思っている程、秋月は悪い子じゃないって何度言えば分かるんですか!?」
職員室の一角に備え付けられている生徒指導室より、私と、生徒指導担当である体育教師の怒号が飛び交う。
本来ならもっと理性的に事を運ばせるのが望ましいのですが、生憎とそうはいかなかった。
発端はつい先ほど。
今朝は「忙しい」と追い払われてしまい、昼休みは昼休みであっという間に時間きてしまったから、ちゃんと先生に向き合う事が出来なかった私。
だからホームルームが終了したと同時に、すぐどこかへ行ってしまわれないよう職員室を張り込んで、秋月の処分に関して諸悪の根源とも言うべきこの体育教師を捕まえる事にした。
結果は見事成功。
無事、先生と話す機会を得る事が出来ました。
だけど、私を見た時の先生の表情といったら何とも言えず、腹立たしい事この上なかったんです。
「また来たのか」とでも言いたげに向けられた、こちらを睥睨する視線。
いかにも面倒臭ささを醸し出しているその雰囲気に、私が怒髪天に達したのは言うまでもありません。
つい、感情に任せて声を荒げてしまったのも致し方ない事でした。
一人の生徒が退学処分を検討されようとしている。
その状況下で。
この体育教師は、無作法な態度を取ったわけですから。
でもそれが先生の勘に触ったらしく、怒涛とも言える口戦を余技なくする展開へと持ち込んでしまった。
それが経緯。
そして、今に至ります。
普段、口答えをしない私が、よりにもよって職員室内で怒りをぶちまけるその様は、他の先生たちから見ても珍しい光景みたい。
放課後になってまだ少ししか経っていないから、職員室内の人間は数少ないけど、それでもちらちらとこちらの様子を見てくる視線が何度かあった。
でも、今はそんな状況に気を取られている場合じゃあありません。
引き続き私は、この体育教師との一対一の勝負に挑む。
「今回だって秋月は沙希たちと同様、私を助けに来てくれたに過ぎません! 不当な処分だと、どうして先生はご自身でそう思われないんですか!?」
「その原因を作ったのがそもそも秋月だろぉが! 全うな生徒がこんな問題を自然に引き起こすものか? 違うだろう! 根本的な原因が奴にあるからこそ、お前はそれに巻き込まれたんだ!」
「見ろ」と言わんばかりに。体育教師の指が、未だギプスをはめた状態の私の左腕を指し示す。
それに気付いた私は、すかさず開いている方の手で隠した。
どうしてここを直視するんですか、って聞くのも愚問ですね。
先生にとって私の左腕こそが秋月の問題児たる証拠であり、その点を攻められる重要な箇所なんですから。
もう少ししたらギプスを外せるんだけど、それまでは執拗に言われ続けるかと思われます。
だったら、別の方法で切り込むしかない。
「秋月は今まで私に、とても優しく接してくれてました」
私はキッと先生を真っ直ぐ見据えながら、言葉を紡いでいった。
思い返せばきりがない程、彼は温かな気持ちを私にくれた。その事を伝えるために。
「ロッカーが壊されてた時、また何かあったら言ってって申し出てくれたし、その……集団暴行に遭った後だって、凄く心配してくれました」
先輩は俺が守ると、彼は真っ直ぐな目で私にそう告げてくれた。
どんな論理を組み立てて主張しても、この体育教師には通用しない。
それならば、感情論で訴えようと私は思った。
秋月の素行の悪さばかり指摘してくるんだったら、こっちはこっちで彼がこれまで私に届けてくれたものを言うまでです。
「軍団対抗リレーは物凄く頑張って走ってくれたし、その後私が泣いてしまった時も、ずっと慰めてくれました」
体育祭で自分が最大の功労者にも関わらず、私が泣き止むまでずっとそばにいてくれた。
それは彼が優しさを持ち合わせているという何よりもの証拠。
決して、先生が思っているような粗悪さは、そこから微塵も感じられません。
「期末試験だって、どれだけ一生懸命勉強していたか……」
私が貸したノートを食い入るように見つめ、頭に叩き込んでいた秋月。
真剣に取り組んでいたその姿からは、誠実さも思わせられる。
「それにこの間だって……」
多人数に囲まれ、絶対絶命の窮地に追いやられた私たち。
そこで彼は、私に向かってにっこり笑いながらこう言ってきた。
“これで先輩とずっと一緒にいられるなら、お安い御用だって”
過去と決別するために取った、秋月の思いがけない行動。
それは暴力が常に隣り合わせだった彼が、その暴力自体を放棄した瞬間だった。
どの場面を取っても、かつて問題児だと称されていた彼からは程遠い。
紛う事なき、秋月に備わっている本質です。
そしてこれらは、私が秋月に恋した軌跡でもありました。
「秋月は悪い子なんかじゃあありません! 本当はとってもいい子なんです!」
真っ直ぐ見上げる私の視線と、眉間に皺を寄せた先生の視線が交わる。
それは和やかな雰囲気など一切感じさせない、険を含んだ交錯。
こちらを睨みつけてくる先生の目が厳しい。
「だからどうした」と威圧してくるが如く、圧倒的な重圧がまるで私の言葉を押さえ込もうとしているよう。
だけど私は怯まない。
いえ。怯んでなどいられませんでした。
もうこの際、本当の秋月を分かってもらえなくてもいいです。
知ってて欲しい。
これだけ、今まで彼がどんなに悪い事をしてきたとしても、私のそばにずっといてくれた秋月を知って欲しかった。
私は未だ厳しい視線を投げ掛けてくる先生に向かって、秋月に対する思いの丈を、渾身の力を込めてぶつける。
「しっかりと見て下さい! 『今』の彼を!」
にこにことこちらに笑顔を向けてくる彼を。
優しい声音で言葉を紡いできた彼を。
曇りのない真っ直ぐな瞳でこちらを見つめてくる彼を。
そしてずっとずっと――『好き』だと。
想いを伝えてくれた彼を。
私に温かい気持ちを届けてくれた、彼を。
知らない内に私の目から冷たい雫が零れ落ちていた。
それは私自身が秋月に対する想いから自然と流れてきた涙。
昨晩巡らせていた感情も相まって、頬を伝う筋はとめどなく流れ、同じ路を辿る。
だけどそんな事は私にとって、些細なものに過ぎなかった。
秋月について、全て伝えきった。
それが今の私にとって、唯一無二の実感。
息継ぎもしないで話していたからなのか、少し両肩を上下に揺らし、呼吸が乱れてしまった私。
でも、先生が知らないであろう秋月の側面を全部話せたと私は思った。
だけど――。
「ふんっ、何を言うかと思えばそんな事。取るに足らん」
「…………え?」
思いがけない先生からの返しに、涙で溢れてる私の目が大きく見開く。
同時にまた一つ、大きな雫が瞳から零れ落ちた気がした。
今、何て言ったの?
信じられないと胸中疑心に満ちていた私は、聞き返す事を忘れてただ呆然とする。
そんな私を気にも留めてない様子の先生は、更に言葉を続けた。
ある意味、侮蔑を含んだ笑みを洩らしながら。
「今がどうであれ過去は過去。既に起こったものは事実だ。お前はそれすらも分からんのか? いくら秋月を庇いだてようとも、今更奴の悪事は消えるもんじゃない」
私とは違い、一呼吸置いた先生はどっかりと生徒指導室に備え付けられているパイプ椅子に座ると、今度は立ったままの状態である私を下から見上げる形で口を開いた。
「それを踏まえての今回の処分だ。言い掛かりも甚だしい。学校全体の治安を考えれば当然の処遇だろうが。抗議される筋合いなどない」




