消えた背中を探し求めて②
「無粋だよ真山。関係ないのはお前の方」
「はぁ!? 意味分かんねーこと言ってんじゃねーぞ森脇! ねーちゃんは俺の家族だ! 実の姉がこんな目に遭って……関係ない訳ないだろー!?」
ドンッと花瓶をベッドに備え付けられているテーブルに置いた颯太は、ビシィと私の方に指先を突きつけた。
弟が言いたいのは、現在の私の姿を指し示してるんだと思います。
和やかな雰囲気にしようとしてくれた哲平くんですら、注視せざるを得なかった、今の私の姿を。
骨折した左腕は元より、原付で跳ねられた私は、頭には包帯が何十にも巻きつけられ、それが片目にまで及んでいる。
包帯とまではいかないものの、傷をガーゼで覆っている箇所はそれ以上。
頬や首筋。肘、膝。胴体もあちこちに打撲なり裂傷なりがあったから、寝巻きで隠れてこそはいるものの、全身そんな状態で包まれた私。
颯太が哲平くんに向かって示したいのは、つまりそういうこと。
地面に体を叩きつけられた拍子に受けた傷は、誰から見ても悲惨と言わざるを得ません。
お見舞いに来てくれた皆がそんな姿の私を見て、表情を凍らせていたのは流石の私も分かっていた。
家族なら尚のことかもしれない。
目をかっぽじってよく見てみろと言いたげに、颯太の顔は更に苦渋の色を映し出す。
「こんなねーちゃんを……誰が……またあの野郎に関わらせると思ってんだ……。二度とごめんだ……こんなの……っ」
次第に嗚咽を洩らす颯太。
涙混じりになってきた瞳からは、怒りとも悲しみとも言える光が宿されている。
もしかしたら他の皆の心情も、自らで体現させているのかも知れません。
おのずと声を詰まらせる自分がいることに私は気付いた。
皆もきっとそう感じてるだろうから……だから……。
「だったら尚更でしょ?」
打ちひしがれている私たち姉弟の間を縫うように、哲平くんの言葉が紡がれていく。
いつの間にか顔を下に落としていた私は、彼の方へと再び目を向けた。
それを認めた哲平くんは、非難していた颯太にではなく、今度は私に向けて言葉を発する。
秋月の、友人として。
「関係ないなんて言わせない。真山先輩は、楓の気持ちを知らなきゃいけないんだからね」
「……え?」
秋月の……気持ち?
そう聞き返そうとする間もなく、哲平くんから秋月の真意を聞くことが出来た。
あの、最後の『ばいばい』の意味を。
「真山に言われずとも、楓は自分で分かってたよ。『俺は先輩のそばにいる資格がない』って。この姿の真山先輩を見て、あいつは自分で決めたんだ」
『俺は先輩のそばにいる資格がない』
それ、確かに言ってた。おぼろげな記憶を頼りに、私は秋月の言葉を必死に思い出そうとする。
“……最初っから、先輩のそばにいる資格。俺にはなかったんだよな”
哲平くんが教えてくれた言葉を借りるなら、あの時の秋月は、それこそ自嘲しながら私に言ってきていた。
そうだよ。思い出してきた。
更に哲平くんは続ける。
「真山先輩がこれ以上傷つかないように。迷惑をかけないように。あいつは……楓は……、自分で、真山先輩から立ち去ることを決めたんだよ。……これがどういうことなのか、分かるよね?」
先輩が誰よりも大切だから。と、最後にそう付け加えた哲平くん。
つまるところ、それが意味するのは……。
「ははっ」
今度は私が自嘲する番でした。
どうしてこんな単純明快な答えが直ぐに出てこなかったんだろう。
察しが悪い自分に、ほとほと嫌気がさす。
いえ、実際はどこか頭の片隅で、薄々気付いていたのかもしれない。
でもそれがどうしても認められなくて。誰かに訂正してもらいたくて。皆に聞いていたんだ。
本当に自分勝手だなぁ私。
そりゃあ皆答えずらいですよ。話題にもしづらいですよ。こんなこと、聞く方が間違ってる。
哲平くんの言葉を聞いた瞬間、私の目からとめどなく涙が溢れ出してきた。
同時に、秋月が別れ際に放ったもう一つの言葉も思い出す。
“先輩、愛してる”
彼が最終的に下した決断。
それは、私のために自ら身を引いたということ。
その事実が、容赦なく私の胸を締め付けた。
「……ぅうっ…………っ……」
更に溢れ出してくる涙。
しゃくりあげ、嗚咽を洩らし。涙で顔がぐしゃぐしゃになった私は、きっと酷い状態だったと思う。
でも、そんなこと気にも留めてられない。顔を拭う余裕なんて、今の私にはないんだから。
「……正直、予想外だったよ」
泣き続ける私に、ぽつりと哲平くんが呟く。
中学の時からずっと一緒で、他の誰よりも秋月のことを知っている彼の友人は、しみじみと尚も言葉を繋いできた。
「あの楓が、他人のためにここまで考えるなんてさ。昔のあいつからじゃあ全く想像が出来ない。……本当に変わったよ」
感慨深いといった様子で、その目線はどこか遠くを見ているよう。
だけど変わっていった秋月を心から歓迎している哲平くんにとって、悲願ともいうべき成果を達成したのに関わらず、どこかしら空虚感も持ち合わせているようにも見えた。
「こんなはずじゃあなかったんだけどね」
「ははっ」と苦笑い混じりで言う哲平くん。
それが彼の持ち合わせている正直な心境だということは、目で見るよりも明らかでした。
「俺は楓に、真山先輩と幸せになって欲しかったからさ」
涙で視界が霞む分、哲平くんの言葉は酷く私の心に突き刺さってくる。
「止めろよ!」と颯太が間に入ってきたけれど、耳に入ってきたものは拭いさることが出来ない。
私は胸に渦巻いてきた感情で一杯一杯になり、もう体を支えることが出来ず、布団にひれ伏す形でうずくまった。
私だって、こんなはずじゃあなかったんだよ哲平くん。
声を殺して泣く私。
こんな結果になるなんて想像すらしていなかったから、今にも決壊してしまいそうな自分の感情を必死に制御しようとする。
そうしないと、確実に心が壊れてしまいそうだから……。
どうして秋月?
なんて今更言うつもりはありません。
それはさっき、哲平くんが私に対して言ってきた言葉が全てを物語っています。
秋月が変わっていったからこそ、もたらされた結果。
だけど……!
「秋月の……ば……か……っ」
私は嗚咽混じりにようやく口を開いた。
でもそれは、秋月に対する嘆き。
彼が私のために身を引いてくれたのは、心が引き裂かれそうになるぐらい良く分かった。
でも、分かっているけれど、どうしても納得出来ません。
こんな結果で終わるなんて、誰が納得出来ると言うの。
このまま終わりにして言い訳なんてない。
すんなりと、終わりを受け入れることなんて出来ない。
だってそうでしょう?
私たちは、やっと始まるだよ?
ようやく、普通の恋人らしい日々を始めることが出来るんだよ?
経緯がどうであれ、神澤くんのことが無事解決出来たんだから、これからなんじゃあないの?
一人で何もかも背負い込んで去るなんて、ずるいよ。
夢へと誘われた私が最後に見た秋月は、ゆっくりとこちらに背中を向けている姿だった。
私の身に起こった全てを請け負うかのように。
連れ去っていくかのように。
そんなことをされて、私が嬉しがると思ってるの?
感激すると思ってるの?
安心して、これからを過ごせると思っているの?
そんなことは決してありません。
あんたがいなきゃあ私の日常は、もうそこで、普段の日常じゃあなくなるんだよ……。
もし、あの時意識がちゃんと定まっていたらと思うと、本当に悔やまれる。
そんな私に対して無情にも哲平くんは、さも秋月の代弁をしているとでも言いたげに再び口を開いてきた。
認めざるを得ないと言わんばかりな面持ちで。
「先輩がどう思おうと、あいつの意思は……固い……」
それを私は退院した途端、まざまざと思い知らされることになった。
「……え? や、辞めた?」
退院し自宅療養を経て、悪化させてしまった左腕以外の包帯がほぼ取れた私は、新学期開始から二、三日遅れて登校した。
そして、久しぶりに演劇部へ顔を出した直後、信じられない事実を知る。
「……あ、秋月が……演劇部を……退部したというんですか?」
しどろもどろの口調でも、何とか言葉を口にする私。
そんな私に、部室の片隅で台本のチェックをしていたらしい演劇部部長の藤堂先輩が、淡々と答えてくれた。
「そうだ。夏休み中にわざわざ俺の所へ来てな」
言うのと同時に、部長はついっと一枚の封筒を差し出してくる。
表一面に書かれてあったのは『退部届』の文字。
紛れもなく、秋月の筆跡で書かれたもの。
それに愕然とさせられた私は、部長からその封筒を勢いよく奪い取ってしまったのは当然の事でした。
――秋月が演劇部を辞めた。
神澤くんと対峙したあの日から既に一ヶ月が経ち、その間、一度も彼に会えなかったのは勿論のこと。
声も、姿すら見かけることが出来なかったので、私は頼みの綱として演劇部に希望を託していた。
学年の違う私たちが、同じ空間を共有することが出来る唯一の場所がここ、演劇部。
そこでなら秋月に会えるかもしれない。
話が出来るかもしれない。
そう思っていたから、登校し始めた今日、真っ先に私は部室へと足を伸ばすことにした。
だけど、その思惑が脆くも崩れ去る。
私の考えは甘かったと言わざるを得ません。
哲平くんが言ってた通り、秋月が私から離れるという意思は本物でした。
夏休み中ってことは、あの後すぐに部長の所へ行ったのかもしれない。
まるで私との接点を無くすかのように、迅速に行われた彼の行動。
それを彷彿させられた私は、全身ががたがたと震えだしてきたのを感じた。
何かの間違いであって欲しいと、何度も封筒に書かれている文字を再び読んでみる。
持つ手が震えているから、文字がブレ、目の錯覚を引き起こしてるのだと願わずにはいられなかった。
でも、いくら見返してもそこにある文字は変わらない。
本当に秋月は私の前から去る気なんだと、改めて思い知らされた。
「またお前たちに何かあったみたいだな」
率直に聞いてくる部長。
その言葉に、私の顔は否応無しに引きつってしまう。
マイペースながらもじっとこちらを見てくる部長に、一瞬、返す言葉が見出せない私。
『また』って……。
些細な一文に過ぎないけど、私にとっては重く圧し掛かってくる言葉。
やっぱり部長からしてみても、毎回私たちには何かしらのトラブルが付き纏っているという認識があるみたい。
それが私を酷く動揺させた。
すぐさま、否定しようと慌てて私は口を開く。
だけど――。
「そ、そんなことはないで……!」
言いかけて、言葉が最後まで出てこず。真っ直ぐに見てくる部長の視線を認めた私は、すぐに口を噤んでしまった。
私たちに何が起きたかについて、今更弁解することに、意味はないって気付いたから。
演劇部代表としてお見舞いに来てくれたのは部長本人。
入院中の私の姿を、当然ながら目撃している。
全部とは言わなくても、部長ならきっと、私たちが置かれた状況を大体把握しているはずです。
私の頭上にブロック塀が落ちてきて、秋月の雰囲気がガラリと変わった時からちょっと思っていたけど、部長は彼の事を何か知っている様子だったみたいなので。
まぁそれは部長に限った事ではなく、私たちと関わりを持っている人だったら、ある程度察しをつけられるものでもあるけど……。
部長は他の皆と同様、病室では何も聞いてこなかった。
それは私を慮っての事。
ただ一つ皆と違う点は、演劇部の部長として、『理由』を私に聞かざるを得ない立場。
既に配役が決まっている今後の演目は、秋月が突然退部した事により支障をきたすわけですから。
口が噤んだと同時に、すっかり黙してしまった私。
部長の事を考えると、当事者である私がちゃんと説明しなくちゃいけない。
それは頭では分かっているつもりでした。
だけど動揺が未だに治まっていないのも相まって、私は何も口に出す事が出来ないでいた。
どこから説明すればいいのかというものじゃなく、何を説明すればいいのか分からなかったので。
秋月が私から離れるために……とでも言えばいいの?
でもそれは違う気がする。
事実そうだけど、そんな簡単じゃない。
彼について話せば、必然的に私の感情も込み上げてくる。
秋月に対する私の思いは、そう容易く説明出来るものじゃないんです。
そんな私に対し、部長はやおら悟りを開いたような面持ちで、私から視線をそらした。
「すっかり面影はないな。見上げたものだ」
はい?
こちらからは何も言葉を返していないのに……いえ。返さなかったからこそ、部長は私の回答を待たずして口を広げたんだと理解した。
淡々と静かに紡がれる部長の言葉。
それを聞いた私は、私の知らない所で繰り広げられていた秋月の心境を、ようやくここで知る事になる。
「前は辞めさせられるのではないかとビクビクしていたなぁ。お前から離れるのが何よりも恐れていた節もあった。それが自らとは……成長したのだな」
「え? 部長……それってどういう意味……」
途中意味が分からなかった私は、つい横槍をいれてしまった。
でもそれには構わない様子で、部長は私に、とある日の経緯を教えてくれる。
それは私が集団暴行を受けて病院に向かった時、部長と秋月の間で取り交わされたものだった。
「もう少し考えると。今までの自分のやり方ではなく、これからもお前と過ごすために己を変えるとあいつは言っていた」
部長曰く。私に対する嫌がらせを止めるために行った秋月の行動は、生徒指導に呼ばれる程のものだったらしい。
本来の彼にしてみれば、それは至って普通の行い。
だけど予想に反し、仇となって私に返ってきた事で、秋月はこの頃から自分を責めていたとの事だった。
「切実な顔をしていたな。それだけ、お前のそばにいたかったわけだが……いやはや、見事な成長ぶりだ」
最後は感慨深げに嘆息した部長は、スッと静かに立ち上がると、その高い身長から私を見下ろす。
そして、すっかり自分自身の中で自己完結したらしく、私にこう告げる。
「つまりは、だ。『それだけの事がお前たちに起きた』と解釈するぞ。この退部届けも、奴の意思を尊重して預かっておく事にする」
「ま、待って下さい! 部長……!」
言うのが遅いか。私は手に持っていた秋月の退部届けを、部長に取り返されてしまった。
途端、一気に全身から嫌な汗が流れ落ちる。
ここで更にすっぱりと、秋月との関わりを絶たれたような気がしてならなかったから。
部長が受け取った時点で、秋月の退部届けは既に承認されてしまったのだと、頭では分かっているつもりです。
だけど、実際にこうもはっきりと現実を突きつけられたら、そんなの認めるわけにはいかないのもまた心理。
この場は無様にも足掻く事しか出来ない私は、秋月の退部届けを何とか思い留めて貰おうと、部長に向かって必死に懇願した。
「お願いです部長、それだけは……! 秋月を、演劇部から退部させないで下さい。彼は何も悪くないんです。辞める必要ないんです」
私の声が段々と大きくなってきたからなのか、それまでは多少気にかけながらも、なるべくこちらを見ないようにしていた他の部員たちが一斉に見てきたのを気配で察した。
だけど、そんな事を気にしていられない程追い込まれていた私は、尚も部長にすがりつく。
「お願いです。どうか秋月を辞めさせないで下さい。もしかしたらまた戻って来て……」
でも、これまでの流れで一切乱れる事がなく、淡々と動いていた部長の口から発せられたものは、私にとって無情にも響き渡ってくるものでした。
「ちゃんと聞いておけ真山。俺は、『預かる』と言った」




