過去と現在(いま)に決別を⑥
嘘……でしょう?
私の目は、未だかつてないほど大きく見開く。だって、とても会いたかったけど、絶対ここには来て欲しくなかった人が今、目の前にいるんだもん。
「……はぁ……はぁっ……」
随分長い間あちこちを駆け回っていたらしく、上下に肩を大きく揺らし、乱れた呼吸を整わせている秋月。もう夜のため、月明かりとバイクのライト。そして、校庭に所々設置されている街頭によって照らされていた彼は、各箇所が薄汚れていた。殴られ、蹴られた痕跡。顔にかかった血の痕も、まだ少し残っているのが見える。
だけど意識ははっきりとさせているのか、ナイフのように細められた鋭い眼光が、神澤くんに向けて強く放たれていた。つい先日、彼が一時、姿を消した時みたいな感覚が私の中によぎる。私の元へと駆けつけてくれた秋月と変わりない。でもあの時と今では、取り巻く環境が違う。根本的には同じ状況だけど、そう、全然違う。
一学期の最終日には、にこにこと満面の笑顔携えていた彼だったけど、今ここにいるのは私の知らない秋月。冷たいながらも壮絶な笑みを浮かべている、昔の彼の方。
「あ、秋月」
「誰が汚ねー手で、先輩に触っていいって言った。さっさとその手をどけろ、神澤」
私が呟いた声が耳に届いていないらしく、秋月は通常よりも数段下がったトーン。地の底から這い出てきたような声音で、神澤くんに対し、威圧する。その声を聞き、姿を見た私は、左腕から尚も発し続けている痛みに負けないぐらいの悪寒に襲われた。
そん……な……。完全に、神澤くんの思い通りになってしまっている。普段知っている彼からは到底及ばない、思いつきもしない殺伐とした雰囲気。私はそれを、例え距離があってもひしひしと感じざるを得なかった。だって呟きとはいえ、彼に私の声が届かなかったんだから……。秋月の名前を呼んだのに、彼が真っ直ぐに見据えているのは神澤くんただ一人。鋭い眼光と、低い声音を一心に向けているのは、彼自身が今、『最高に相手をぶちのめしたい』のみ。ただそれだけの思考に包まれているという事。
それは今まで、秋月が一生懸命努力して変えようとしていたものに他なりません。
駄目だよ秋月。折角あんた、変わろうとしていたのに……。
そんな秋月を見て、待ちわびていた光景に嬉しさを覚えているのか、神澤くんから笑いが聞こえてきたのを私は認めた。
「あはっ!」
それに呼応するかのように。秋月の方も更に口角を上げ、相手へ喰らい付き、八つ裂きにしてやると言わんばかりの笑みを増大させている。
「ぶっ殺す」
是が非でも回避したかった場面が、無情にも瞳に飛び込んできて、私は一気に体感温度が下げられたのを感じた。このままにしてはいけない。もし、その先へと進んでしまったら、もう二度と秋月は『こちら』に戻ってこれないかもしれない。
そう思った私は、焦燥感に苛まれながらも無意識の内に、その場の雰囲気を裂く叫び声をあげていた。
「駄目――――――っっ!」
無我夢中でした。例え捕らわれていてもそれには構わず、持てる限りの声を腹の底から搾り出す。何としてでも、秋月には元に戻ってもらいたかったから、彼における自分の役目を必死に果たそうと、全力で叫んだ。
「駄目っ! こんな事しちゃ駄目だよ秋月! これじゃあ変わらない! 何も変われない!」
「……流香……先輩……」
ようやく私の声が彼の耳に届いたのか、秋月の視線を感じた。鋭い目つきは依然そのままだけど、吊り上っていた口角はそれを止め、私の名前を口ずさんでいる。
だけどそれは一瞬の出来事。未だ神澤くんに襟足を掴まれていた私は、彼に後方へと投げ出され地面に倒させられると、痛む左腕を思いっきり踏まれてしまった。
「ちょっとー、水を差さないでくれないおちびちゃん。君は、餌なんだからっさ!」
一度踏んでもそれでは飽き足らず、神澤くんは更にぐりぐりと私の腕を踏みつけてくる。それに耐えられなかった私は、あらんばかりの絶叫をあげる事しか出来なかった。
「……っ!? ぁぁあああぁぁぁあ――っっ!」
「!?」
尋常ではない程痛がる私に、さしもの秋月も、私の体に起きている異常に気付いたみたい。愕然としたらしく、顔面を蒼白にさせると、言葉を失ったかのように立ち尽くしていた。
でも、これもまた一瞬の出来事。刹那。激しく怒り狂う彼の雄叫びが、西楠中学校の校庭に鳴り響く。
「テメー神澤ぁあっっ! 先輩に何しやがったぁああっっ!」
その言葉を皮切りに……と言った方がいいのかもしれない。臨界点を遥かに超え、一気に怒りを爆発させた秋月が、猛然と神澤くんの方に駆け出し始めた。蹴りだされた地面から舞い上がる土埃だけをその場に残し、体はそれよりも前面へ。眉間に寄ったしわは深く皮膚へと刻み込まれ、怒りの度合いを推し量るのに、そう時間をかけることもない。ナイフのように細められた目は更に鋭くなり、あたかもそれだけで何もかもを切り裂いてしまいそうな程。彼の中で、これまでの自分は全て消し飛んでしまったかのような雰囲気を、感じざるを得なかった。
そんな秋月をまるで合図としたかのように、彼に向かって周囲に点在していた人影もまた、動き出す。素手で行く人もいれば、神澤くんみたいに凶器を手に持っている人。不意打ちを狙っているのか、背後に回ろうとしている人もいる。三者三様。それぞれが、怨みを抱いている秋月の下へと攻撃を開始だした。多勢に無勢の中、お互いが発する罵声と怒号が、あたかも周囲へと覆いつくさんばかりに広がり、激突する。
「あははっ! もうさいっこー!」
最早耳障りになってきた神澤くんの無邪気な声が、私の耳に届く。待ちわびていた光景が目の前で繰り広げられているためか、表情も恍惚と輝いているような雰囲気でさえ感じ取れる。
最悪の事態です。私は絶望という名の元に、自分の体ががくがくと震えだしたのを既に止める事が出来なかった。恐れていた神澤くんの企み。一方的に押し付けられ、展開されていった遊び。暴力という、非社会的な行為によってもたらされる……遊び。
それが今、彼らの母校である中学校を舞台にし、遂に、勃発してしまったのだから。
「やめてやめて秋月……。お願っ、きゃあああっ!」、
「君は本当にいい餌―。心からお礼を言うよ。ありがとーねー。秋月くんを、完全に釣ってくれてー」
次から次へと殴りかかってくる相手を返り討ちにしながら、ひたすら神澤くんに向かって前進する秋月を認めた私。例え体が震えていても、それでも何とか止めようと、必死に声をかける。
だけど当の神澤くんにより、それは再び腕を踏みつけられる事で阻まれ、更に秋月を煽る材料とされてしまった。
「ぶっ殺す! テメーだけはぜってーぶっ殺してやる! 神澤ぁぁあああっ!」
「散々あちこち走りまわせたのに、まだそんな体力残ってるんだー? さっすが秋月くん。安心したー。さぁ、もっと楽しもーよー!」
ますますいきり立つ秋月。私で煽られた彼は、自分がもう『何者』であるか判らず、『何を目指して』いたのか見境がついてないようにも思えた。
それは私にも言える事。事実として、私は今となっては秋月を止める側ではなく、過去の彼を呼び起こす起爆剤と成り果てているんだから。
……こんなのってない。左腕から帯びる痛みとは別の理由で、私の目には涙が溢れ出してきた。哲平くんに頼まれたのは、こんな事じゃない。側にいるよう願われたのは、こんな結果を呼び起こすためじゃない。ありふれた日々だけど、本当の意味で、秋月が笑って過ごせるためのものであったはず。これからも、私たちが一緒にいられる……そんな日々を……。
このまま、神澤くんの思い通りにさせていいの?
いいわけないでしょ。
私はもう、形振りかまってなどいられなかった。
「だから駄目――――――――っっ!」
捕らえられ、傷を負わされた私がまだ、秋月に出来る事。それは、『声』を出す事。私は左腕から伝わる激痛を逆に利用し、悲鳴から渾身の叫びへと転じさせた。そしてそのまま、神澤くんの目前まで迫ってきた秋月に向かって駆け出し始める。
「……な」
散々痛みを与えられ、弱っていた私からは想像もつかない声が出た事に意表を突かれたらしい神澤くんは、一瞬、動きが止まる。「嘘でしょ?」と、本人の口から声を漏れ聞いたような気がした。まさか自分の所から、私が逃げ出そうとするなんて思いもしなかったみたいだから。
けどそれには構わず、私はその隙をついて、自分の『声』を秋月の元へと届けに行った。幾人もの相手をなぎ払い、猛然とこちらに向かって来ている秋月。その懐へと、飛び込みながら。
「駄目! やめて秋月!」
獣の如く、まるで唸り声をあげていそうな程怒り狂う秋月が、彼に抱きつく私を邪魔だと言わんばかりに押しのけようとする。でもそれにはひるまず、秋月がこれ以上、『前に』進ませないようにするその一心で私は未だ痛みを発し続けている左腕と共に、両腕で、彼の背中に手を回し、必死にしがみついた。
「お願いだから……やめて……っ!」
神澤くんの思い通りになんて、させるもんですか。あんたは今まで、何を目指していたの? 何を、望んでいたの?
「昔に、戻らないで……っ!」
ただ普通に、これからを過ごしたいんじゃあなかったの? 昔の自分を、変えたかったんじゃあなかったの? 私たちが一緒にいるために……。そうでしょ!? 私の声が届くのなら。どうか一言だけでも聞いて、秋月!
いつの間にかぽろぽろと、私の頬に涙が伝っている。秋月は思いっきり私を自分から引き剥がそうとした。完全に我を失っている証拠。でも、そんな彼から決して離れないようにするために、懸命に食い下がりながらも出てきた涙。それは秋月が何を考え、どういう思いを抱えていたのか知っていたのにも関わらず、彼が望まない舞台へと、無理矢理あげさせてしまった事への謝罪からくるものだった。
私の考えが甘かったから、起こってしまった出来事。私が至らなかったから、招いてしまった最悪の事態。
本当だったら彼の中に未だ存在している『昔』を、押しとどめなくてはならなかったのに、チビで無力な私は、それすらも出来なかった。
唯一出来る事は、演劇部で鍛え上げた声を張り上げる事。彼に対する思いを乗せて、届ける事。
枯れるまで。
喉が耐えられず切り裂き、例え血が出ても。
この声が枯れるまで、叫び続ける事なら私でも出来るから。
「秋月は秋月……でしょう?」
いつの間にか秋月の動きが止まり、そっと背に手を添えてくれてるのを気付かなかった私は、とめどなく溢れる涙をただ流していた。その間も、ずっと秋月を呼ぶ。
「先輩……」
遥か頭上より投げ掛けられた優しい声音をようやく認めたのは、私の涙を拭う手の気配を感じたから。ふと顔を上げてみれば、そこには眉尻を下げ、大きな瞳を揺らしている秋月がいた。
「情けねー。また先輩に助けられた」
「あ」
さっきまでの地の底を這うような声音は消え失せ、いつものよく通る秋月の声が辺りに響く。それを聞いた私は、思わず間抜けな声を出してしまったけれど、同時に安堵した。秋月……元に戻ってくれたんだ。
「何やってんだよ……俺。どうしようもねーじゃん」
自分を責める言い方をした秋月は、だけどそれとは全く違う動きをする。まだ彼にしがみついていた私を覆うように、優しく、抱き締めてきた。そして耳元で、ぽそっと呟く。
「ありがとう」
私は今度、嬉しくて涙を抑えられずにはいられなかった。なりふり構わず、ただ秋月の下に届けられたらと思っていた声がちゃんと、彼に伝わったのだから。首を横に振りながら、私は秋月の腕の中で否定をする。お礼を言われるような事をしていないと自負していたので。
全ては、秋月自身が自分で成し遂げた事。私の声が彼に届いたのも、秋月が聞いてくれたからこそのもの。
「流香先輩、傷は平気……じゃねーな。早く病院に行こう。おい神澤」
だけどまだ終わっていない。秋月は私に声をかけた後、そのまま神澤くんの方へと視線を向けた。そして恐らく、この状況下で自分が出来る最善を提示しだす。
「俺はどうなってもいい。煮るなり焼くなり、テメーの好きにしろ。けど、先輩だけはもう解放しろ」
な……。
顔の輪郭沿いに、一筋の滴が零れたのを感じた。そして、聞き間違えたんじゃあないのかと私は自分で自分の耳を疑う。でも聞き間違えてなどいなかった。さっきまではナイフのように細められた鋭い眼光を、神澤くんに向けていた秋月。それが今は、強い意志を帯びた光を灯す目で彼を見ている。その様子に気付いた時、私は空耳のように感じられた秋月の発言が、本気で言ってるのだと理解した。
何を言ってるの。そんなの、駄目に決まっているじゃない。煮るなり焼くなりってあんた、この人たちはまともな考えなんて持ち合わせていないんだよ!? 人の痛みが分からず、いとも簡単に暴力をふるう。ただで済むわけがありません。
驚愕した私は、すぐさま秋月の発言を撤回させるために、再び声を張り上げようとした。だけど言うのが遅いか、私よりも先に神澤くんが口を開いた。
「何で……? どうして、そうなるのー?」
眉毛が中央に寄り、眉間に皺が刻まれている。目は小さくすぼめられ、あたかも目がよく見えていないような素振りをする神澤くん。でも最も表現したかった行動は、耳をそばだてる事らしい。彼にとって秋月より提案されたものはそれだけ、信じ難い発言だったみたいだから。それまで見せていた無邪気な顔から一転し、初めて見せる彼の困惑した顔。というより、どちらかというと困惑の中に含まれる、不満の要素の方が大きいかも。
「殴り合い、しないってゆーのー?」
明らかに神澤くんは、新しく動き始めた事が信じられない様子みたいだった。引き続き出された声が小さく呟かれたように感じたのも、それを顕著に現していると思う。他の人たちもそうなのか、動揺を隠せないみたいで、振り上げていた自分たちの拳を下げ、すっかり止まっている。
『あの秋月が動きを止めた』という事実が彼らにそうさせているらしく、ざわざわとした声も出し始めていた。この人たちの中で、秋月の素行がどんな形で植え付けられているのか知らないけど、ざわめく声たちへ更に覆いかぶさるかのように、私は『今』の秋月を告げた。
「秋月は、昔の彼とは違うの。お願い。もうそっとしといてあげて……」
心からそう思い、願う言葉を口にした私。そしてそのまま秋月の前へと、自らを乗り出させた。秋月を、庇うために。
そういえば今週末からGWですね。
えぇ、仕事ですがなにか⁉
(子どもはおばあちゃんがみてくれるので助かります(´;ω;`))




