過去と現在(いま)に決別を④
足音が遠くなって聞こえなくなったのを確認した私は、ガタガタと跳び箱の中から顔を出し、そのまま這い出た。そして、狭い所から断然広い倉庫内の空気を思いっきり吸った後、一人ごちる。
「そう間単に操を取られてたまるもんですか。……良かった、バレなくて」
咄嗟の判断でした。逃げ出す事が叶わなかった私は、急遽目に止まった跳び箱の中へ入る事を思いつき、ぎりぎりの所で身を隠す事に成功。それでも見つかるのではないかという不安要素はあり、息を飲み込み、なるべく動かず、彼らに見つからないよう祈っていた。
跳び箱の隙間から、外の様子を伺っていた私。彼らの目に私は映っていなかったみたいだけど、実際には私の目の前に立っていたから、心臓は未だかつてないほど激しく鼓動していた。見つかってもおかしくはない距離。冷や冷やし通しでした。
じわりと滲み出てきた汗が、額、頬、首筋、背中など体中を伝う。張り付いてくる制服が不快に思ったけれど、でも、そんなのには構ってられない。自分に降りかかりそうだったものに比べれば、大した事ではないから。
でも無事、身を隠し通す事が出来た。閉じ込められた場所が、様々な物が置かれている体育倉庫だったのがある意味良かったのかもしれない。また、室内が月光のみで薄暗かったというのも一つの要因。そして、彼らが私の姿が見えない事に対し、慌てたというのもある。本当に、運が良かったとしか思えない。諸々の事柄が、私を救ってくれたんです。
「ふ~~」
私は思わず、深い溜息をつく。本当に危なかったという緊張感と、それが無事、遠ざかっていった狭間でほっとしながら。
今まで味わった事がない危機に、体も若干震えている。もう過ぎ去った事とは言え、心臓がばくばくと鼓動し、頭の芯を揺らすぐらい脈を打っているのが自分でもよく分かった。それを何とか落ち着かせようと、二度ならず三度、四度、深呼吸にも似た溜息を繰り返えした私はようやく、自分を平静に戻すことが出来た。
だけど安心するのはまだ早い……です。ほっとしたのもつかの間、すかさず私は彼らが出て行った体育倉庫の入り口へと急いで駆け寄り、他に誰かいないか慎重に辺りを探る。今のこの状況は、やっと一つの危機を打開したに過ぎないというのが分かっていたから。例え運がよく扉が開いたままになって、体育倉庫から抜け出せる状態になったとしても、私は十二分に理解しているつもりです。私はまだ彼らの手中の手中。最深部にいるといっても過言ではない。だから、ここからが上手く逃げ出せるかどうかの本番と言えば本番。危機的状況から一転し、奇跡的に訪れたチャンスを感じながら、私は意を決する。
「……誰もいなさそう。出口は確か……あっち! よし、行こう!」
以前、この西楠中学校から逃げ出した時に通った道を、私は賢明に記憶の淵から呼び起こす。そして、小声ながらも自分に喝入れ、私は体育倉庫――神澤くんの元から脱出し、秋月の所へ行こうと行動を開始した。この運が、どこまでも続くとは限らないからね。
遅くも早くもなく、出来るだけ足音は最小限に。息を潜め、物陰に隠れての移動はさながら隠密行動。
西楠中学校の校舎内で歩みを進めていた私は、否応なしに自分が鬼ごっこと隠れんぼの両方をしているかのような錯覚に見舞われた。
いや、実際そうなんですけどね。彼らから見つからないように逃げているわけですから。ただ、鬼ごっとや隠れんぼにしては、間違いなく一方的な『遊び』。私を逃がす形となってしまったあの三人は抜きにしても、神澤くんを始めとした彼らが、この状況を楽しんでいる事は度々聞こえてくる彼らの笑い声からして既に明白です。こちらの意思に反して執り行われているものは、決して、彼らが感じているような楽しいものなどではありません。
……そういえば、しっかりと『鬼ごっこ』って言ってた気がする。
なるべく声がしてこない方向へ歩みを進めながら、私はふと道すがら、再び私と秋月の前に現れた時の彼の言葉を思い出した。
確かに彼――神澤くんは、これから鬼ごっこをすると言ってました。同時に、秋月が私と神澤くんを捕まえられたら勝ち、とも言ってたっけ。
本当に今更ながら、あり得ないです。私は自問自答の末、導き出された神澤くんの行動パターンに思わず目を据わらせた。それが意味するのは、神澤くんはこれを『本気』で遊びだと思ってやっているという事。無邪気な笑顔から這い出ている無慈悲さ。そして、他人を顧みず、自分の事ばかり押しつけてくるその我が儘さ。それがこうも顕著に出ているのをまざまざと見せ付けられ、無理矢理体感もさせられている。信じられない。
どんどん腹立たしくなってきました。頬を殴られたり、閉じ込められたり、と自分がされた事は最早彼方。神澤くんに対し怒りがこみ上げてくるのを止める所か、寧ろ、私は湧き上がらせるままにさせた。
だって当然です。携帯端末による私の画像をばらまいた事といい、今回の鬼ごっこもどきといい。理不尽も理不尽。要は、『自分の欲求が満たされたい』。ただそれだけの理由でこんな事をされ、秋月もあんな目に遭わされ、黙って大人しくしてなんかいられるはずがありません。
許さないんだから。絶対に、彼の思い通りになんてさせるものですか! 無事ここから逃げ出した後、多勢に無勢でこんな卑怯極まりない展開ではなく、正々堂々、真っ向から決着を付けてやります!
既に私の中で膨れあがったこの怒りは留まる所を知らず。どちらかというと、臆して歩みを緩めるどころか、ますます勢いをつけて歩を進ませた。
そんな中、怒りと共に進んでいた私の思考は、ある一つの事を思い出させる。
大体、夏休み中に学校……しかも、卒業した母校で悪さをしようだなんてどんな神経してるの!? 不法侵入だけに飽きたらず、バイクまで乗り回してくるなんて非常識にも程がある! ここがゴールだか何だか知らないけど、勝手に盛り上がるならもっと別の場所で、人様に迷惑駆けないように……って、あれ? どこもかしこも薄暗い廊下でぽつんと突っ立った状態の私は、聞いた事があるけれど意味が分からない一つの言葉があるのにふと、気づいた。
そういえば、ここがゴールってどういう意味なんだろう?
確か、この事を言っていたのは私を襲おうとしていたあの三人。
私がまだ体育倉庫内にいるとは知らず、扉を開けたまま外へ飛び出して行った時に話していたような? 西楠中学校にたむろしている神澤くんと、その仲間たちからなるべく避けるように、回りに回って辿り着いた校舎の片隅に佇んでいた私は、急に気になり出した単語にしばし頭を巡らせていた。
彼らの『遊び』の事なんだから、私にとってはどうでもいいはず。だけど私は元より、その『遊び』に秋月も含まれていると考えると、決して、どうでもよくはないです。本当だったらこんな事はせず、さっさと逃げ出せばいいんだけど……。
どうにも引っかかりを覚えた私は一先ず、近くにあった掃除用具入れへと一旦、身を隠してちゃんと考える事にした。ついさっきまでの経験ではないけれど、もし誰かが来ても、この中ならきっと気づかれないだろうからゆっくり思考を巡らせられるというものです。ちりとりやら箒やら、ごちゃごちゃと中に物がぶら下がってたり詰まってたりしているけど、チビの私にとっては何てことはなし。こういう時ばかりは小さくて本当に良かっ……たなんて口が裂けても言いませんが、隠れる場所にさほど困らないというのは自分で言うのもなんだけど、たった一人きりのこの状況化である意味心強いです。ちょっと臭うし、暑いし、すっかり制服は汚れちゃったけどね。でもそれに代わるものがくる予感がする……。
まぁ、よくよく考えてみれば予感なんて大それた事を言わなくても、すぐに判明しましたが。
「って! そのまんまじゃないの!」
ガタンッとつい、掃除用具の中で物音を出してしまった私はそれに構わず、頭の中で符号していった結果に度肝を抜かされた。慌てふためいたのは言うまでもありません。知らない内に情報を落としていったあの三人の言葉をよくよく思い出してみた私は、彼らが言っていた『ゴール』ともう一つ。『暴れる』という言葉を思い出した途端、あまりにも分かりすぎる一連の全容に、掃除用具入れの中で愕然としてしまったのだから。
こういうのは普通、何て言うの? そちら方面の知識は皆無なので、どう言い表せばいいのか分かりませんが、でも、これだけははっきりと言えます。今まで経験した事がないような騒動がこれから起きる……。至極簡単な連想が、私の頭で展開していった。
神澤くんの目的は、秋月と再び『遊ぶ』ため。勿論その『遊び』は普段私たちが見知っているような可愛いものではなく、彼らにとっては馴染みの殺伐としたもの。そして私は、その餌。
ここまでくればもう答えは見えたようなものです。今、餌である私は神澤くんと共に西楠中学校にいる。それが意味するのは、秋月をここにおびき寄せ、彼と神澤くんが中学時代のように再び対峙するため。
要はこの西楠中学校でこれから、大乱闘が行われるって事ですよね!? やだ! こんな所で閉じこもっている場合じゃあないじゃない! 無事、逃げ出した後で決着つける! なんて言ってる時間はないです。既に、事態はど真ん中。最終局面に立たされているといっても過言ではないので、今、何とかしないと!
もし、あの怪我の状態で秋月が誘われるままにこの場所へ来てしまったりなんてしたらと思うと……。背筋が凍りつくどころの話ではありません。思い立つより先に、私の体は再び動きだす。一刻も早く、秋月をここへ来させないよう、私自身が彼の元へ戻らないといけないって、はっきりとしたから。
だけどそう上手く事が進むなんていくわけでもなく、これまで良かった私の運は、どうやらこの事に気付いた時点ですっかり元に戻ってしまったようです。
「…………あ」
「え?」
勢いよく掃除用具から飛び出した私の耳に飛び込んできたのは、私以外の人物の声。しかも、その声は聞き覚えがあるものでした。恐る恐る声がした方へ振り向いてみると、そこにはつい先ほど、私が体育倉庫から逃げ出すきっかけを作ったあの三人組のうち、一人が呆然と立っている。そういえばつい、音を出してしまったっけ。いきなり掃除用具から物音がして不審に思ったらしい彼は、中を確かめるために近付いている最中だったらしい。ゆっくりと歩み寄ってきたと思える体勢のまま硬直しているのは、自分たちが探していた張本人が飛び出してきたのに驚いたみたいだからです。素っ頓狂な声がお互いの口から零れ落ちる。予想だにしない遭遇にしばしの間、呆然とさせられてしまった。
でも、それもすぐに終了。
「こ、こんな所にいやがった!」
「きゃあああ~~~~!」
い、いつの間にいたの!?
見つかってはいけない人物に見つけられてしまい、私は即座に、絶叫をあげながら逃げ出す。
しまった! 掃除用具の中に入っていれば誰にも見つからないと思っていたけど、それは私にも当てはまる事でした。視界は通常よりも一気に狭まられ、逆に私の方からも周りがよく見えないんだ!
そう気付いたものの、もう後の祭りです。必死で足を動かして逃げ出した私に、相手も猛然と追いかけてくる。私が体育倉庫から逃げ出したのを神澤くんに知られたら、彼らの身も危ないらしいので、その形相は凄まじい。鬼気迫るという言葉が今の状況に物凄く当てはまります。彼の顔がとてつもなく怖い。そんな相手に逃げている私は、鬼に迫られているような感覚に襲われていた。まさに、リアル鬼ごっこです。
って! そんな事言っている場合じゃないでしょ私!
突如として勃発した本格的な鬼ごっこに私は何とか捕まらないよう、身長の低さから小回りを利かして、校舎内を逃げに逃げ回った。今度捕まったらそれこそ、ただじゃすまされないと察していたから。
だけどあまり知らない場所は私にとって、絶対的に不利であるのは拭えない事実。逃げたはいいものの、遂には行き当たりに出くわし、私は追い込まれてしまった。
「どうやって逃げ出したんだてめーは!」
「いや! 離して!」
腕を掴まれ、そのまま床にひれ伏せられた私。そして、抗おうにも抗えない体勢へと無理矢理変えさせられる。仰向けの状態で馬乗りされ、体を動かす事はおろか、両腕も、たった一本の腕に押さえつけられてしまったからどうにも出来ません。私を捕らえた男子は、空いている方の手でスマホを取り出すと、先ほど一緒につるんでいた他の二人に直ぐ様連絡を取る。自分たちが捜している私を捕まえられたから、それを知らせているらしかった。
さ、最悪。さっき一緒にいた人たちをまさか呼んでいるの? 一時は上手く難を逃れられたと思ったのもつかの間。また、逆戻りの状態。
いえ。どちらかと言うと、もっと悪い方向です。私は再び訪れた危機に、顔面が蒼白になった。だって、今度は回避出来る所ではない状況に陥ってしまったから。完全に見つかり、そして、捕まっちゃったんだもん。
否応なしの焦燥感が私の身に訪れる。断固とした意志があっけなくも遮られ、散り、追い込まれる形と共に。無条件で私は心の中で、声にならない声をあげた。
時間がない。どうして私はここぞという時、裏目に出てしまうの!? 神澤くんが企んでいる事を阻止しなきゃいけないのに。秋月を……ここに来させないようにしなきゃならないのに!
何とかしようと思って行動しても、結局は空回りしてしまった自分に酷くやるせなさがつのる。
私一人じゃあどうにもならないの? 神澤くんの思惑に、歯向かう事すら出来ないというの!? このまま、人質の状態でいいわけ!?
まぁでもこの場合、『餌』以外の用途が私にはあったみたいですが。




