過去と現在(いま)に決別を③
じわじわと蒸し返す暑さが私の身に纏う。風通しが悪いのか、澱んだ空気が息を吸うたび私に苦しさを与えてった。
でも、それがある意味功を制す。気絶していた私は息苦しさのあまり、意識を取り戻す事が出来たから。全身が気だるく、瞼を開けようにも重くて仕方がなかったけれど。神澤くんに殴られた箇所から痛みが生じ始めたのもあって、そのままこん睡せず。さほど時間をかけずに、私は起き上がった。
「ここは……」
目の前に広がっていたのは、薄暗い室内。畳十二畳分か、もう少しあるかないかの。狭くとも広くとも言えない空間が、私の目に映った。所々、無造作に置かれている物もぼんやりと見える。室内に設けられた小さな窓から零れ落ちる光。その僅かばかりの光源が照らしているのは、マットや跳び箱。ネットに得点板。そして、山積みにされているバレーボールやバスケットボールなど、私にとって、実に見慣れた物たちだった。
でもそれらは決して、『普段』から馴染みのある物たち……という事ではありません。書いてある文字が、違っていたから。
「……西楠……中学校……。え!? ていうか今、何時なの!? 」
自分が何処にいるかよりも、あれからどのくらいの時間が経っているのか急に気になった私。だって、ここは以前、『来た事がある場所』。神澤くんによって秋月の下より連れ去られてしまったけれど、知っている場所なら私にとって、『問題ではない』。それよりも注視すべきは時間の経過。
私が何で自分のいる場所が分かったは前述の通り。室内――以前、哲平くんに連れて来られた西楠中学校の体育倉庫。そこに設けられた小さな窓から零れ落ちる光が、辺りを照らしていたからです。
ただ、外から光が差し込んでいるといってもそれは沈み行く太陽の明かりではなく、煌々と夜空に輝く月の方だったため、私は焦りがどんどんと沸き上がってくるのを感じた。私たちが二人でいた時はまだ、夕暮れに差し掛かっている時間だった。それが、すっかり陽が落ちてしまっている。あれからどのくらい時間が経っているのか……。
「夜になってるなんて……。あ、秋月……どうなったんだろう」
秋月は怪我をしていた。長時間、そのままにしておくにはあまりにもな深手を。
無事なんだろうか。大丈夫なんだろうか。最初に私の胸に去来したのは、彼の事ばかりだった。意識を失う寸前まで瞼の裏に焼き付けられた光景が、まだ私から消えていない。ふとスマホが頭によぎったけれども、それは通学かばんの中。神澤くんに連れ去られた時、その場に置いてきてしまったから、時間を確かめようにも秋月の無事を確かめようにも、ないものは使えません。
一先ず、落ち着かなきゃ。
私は一度、深い深呼吸をした。蒸し暑い空気が肺を圧迫してくるけれども、それには構ってられない。一刻も早く、秋月の下に戻らなきゃ。そのためには……。
未だじわじわと蒸し返る体育倉庫。でも私は深呼吸をしたからなのか、ふと、ある事に気付いた。近くに木があるらしく、外からは夏の風物詩である蝉の声しか聴こえない。他には、何も聴こえてこない。それが意味するのは。
「もしかして……誰もいないの?」
この場にいるのは、どうやら私一人だけらしい。月光と共に、外から入りこんできた虫の声がその事を知らせてくれている。会話は元より、気配もしない。念のため、体育倉庫の扉に耳を押し当て、様子を伺ってみたけれど、物音一つすらしていない。神澤くんを含め、さっきはそれなりの人数が私たちを取り巻いていたのに、それがどうして、誰もいないのか?
今のところその理由について何も考えが及ばないけど、これだけは私にも分かった。
逃げ出せるかも……。
そう思い立った私はすかさず立ち上がり、辺りを物色していく。がたがたと体育倉庫内にあった物たちを動かし、逃げられる手段となりえる物がないか確認するために。さっき、体育倉庫の扉に耳を当てたついでに開くかどうかも確認してみたけれど、外側からつっかえ棒か何かで閉じられているみたいだったから、それを外せる物。
「隙間……を通せるやつはないかな?」
例え連れ去られても、私は自分でも驚く程冷静に物事を考える事が出来た。それというのもやっぱり、一度こういう状況を経験しているのが大きいからだと思う。勿論、緊張感は私の鼓動を激しく打たせている。秋月の安否は当然の事ながら、自分の周囲が今、どんな状況になっているのかもさっぱり分かっていないので。
だけど以前、哲平くんによって色々と試されたから変な話、免疫はあります。これを見越しての行動だったのかは流石に何とも言えないけど、彼のおかげで、パニックにはならないで済んだ。そして、自分がこれからどうするべきかの判断力も培われた。
騒ぎ立てず、こっそり逃げ出すのが無難。
それが、私の脳裏に浮かんだ回答だった。神澤くんは哲平くんが言ってた通り、その思考と行動が本当に予測つかない。ずきずきと、頬が腫れているのが自分でも分かる。青くなっているのか赤くなっているのか。鏡がないから自分で確かめる事は出来ないけど、それ相応の状態になっていそうなのは確かです。神澤くんによって、躊躇されることなくされた仕打ち。秋月に対して行った事といい、その凶行は計り知れず。下手に騒いで彼を刺激すると、今度はどんな目に遭わされるか想像も出来ない。
そう思った私が、無難な選択肢を選んだのは言うまでもありません。一人でどうこう出来る相手じゃない。しかも、その相手は複数となれば尚の事。ここは上手くやり過ごさなきゃ。
「あ、窓はどうだろう」
ぴょんと、唯一室内に設けられた窓に備え付けられている鉄格子に掴まった私は、それが外せるかどうか試してみた。押してみたり引っ張ってみたり。ねじって取り外せるかもやってみる。だけど、頑丈に取り付けられた鉄格子はびくともしない。
私の力じゃ駄目だ。最初に思いついた通り、扉のつっかえ棒の方を何とかして外した方がよさそうです。私は逃げるための体力を考慮し、その場は潔く諦め、窓から離れると再び体育倉庫の扉へと足を向けた。一瞬、体育倉庫には普通、つっかえ棒なんて簡単な施錠ではなく、鍵の方が使われるんじゃないかと思ったけれど、窓から見えた校舎の様子を伺うに元々壊されていて、使えないのかもしれない。
どれだけこの中学校は荒れてたんだろう、と思わず考えてしまいましたが、ある意味、私にとってそれは好条件なので深く突っ込まないようにした。
「あれ?」
ふと、扉の前についた私は立ち止まる。離れた窓から、蝉の声とは別の音を聞きとった気がしたから。どぅるるると、空中に排気ガスを出しているとおぼしきエンジン音。西楠中学校に近付いてきたらしいその音を、今度はしっかりと聞いた私はすぐに窓の方へと戻った。
「…………? ……!」
「……っ、……! …………っ! はははっ!」
??? この窓からじゃあ全く見えない。建物の構造的に、私のいる場所は、外の様子をあまり伺えない位置にあるから仕方がないんだけれど。
でも、聞こえてきた音から、ある程度推察する事は出来た。どうやら私は、ここに押し込められた後、そのまま放置されてたみたいです。
車……じゃない。どちらかというとこの音は、普通二輪車か原動機付自転車のエンジン音。それに伴い、テンション高めで、笑い混じりの会話が否応無しに私の耳に聞こえてくる。
ほとほと、私は自分に対する扱いを思い知らされた。彼らにとって、本当に私はただ秋月をおびき寄せるためだけの餌なんだ。私をここに置いていった後、彼らが何処に行って、何をしていたのか知らない。
ただ一つ、神澤くんを含め、私を秋月の下から連れ去った人たちが西楠中学校に戻ってきた様子と共に、自分の扱われ方をまざまざと知る事だけは出来た。
でもそれも私からしてみれば、ある意味好都合。考えようによっては、このまま放置されてた方が個人的に動けるというものだから。
だけど彼らが戻ってきて、状況を確認出来たという事は同時に、見つからないようこっそり逃げ出すのも困難になってきた、という事も暗示している。もっと早めに目覚めていれば良かったかもしれない。体育倉庫の扉にあるつっかえ棒を何とかすれば、って思っていたけれど、物音一つでこちらの動きが彼らに感づかれてしまう恐れがあるので。
どうしようかな……。
私はしばらく、思案にふけていた。無事、ここから抜け出し、秋月の下に行く他の方法を思いつこうと必死に頭を動かす。きっと、こう何か奇抜的な考えでも思いつけば、不利になってしまったこの状況でも何とか打開出来るのではないかと思ったから。でも、その時間はどうやらあまりないみたい。
窓の下にうずくまり、思考真っ只中の私に数人の話し声が聞こえてきた。
「何か神澤の奴、あの子の事ほったらかしにしてるし、別にいいよな?」
ん? 何の話をしてるんだろう? あの子って、私の事かな?
声は外から聞こえてきたみたいだった。体育倉庫に程近い、校舎の周りを縫うようにある道から数人の足音も聞こえてくる。どうやらその人たちは、ここに戻ってきた後、神澤くんに黙って別行動をし始めたらしい。こちらに近付いてきているとおぼしきその声は、更に言葉を繋げる。
私は情報を得ようと耳を傾けた。だけどそれは、心の底から冷えわたってくるような内容だなんて、思いもしなかったけど。
「俺さぁ、実は童顔萌えなんだ~。前に東楠の知り合いがやらしてくれるって言ってたの、駄目になったからたまってんだよ」
一人の男子が他の人物に向かってそう告げている。それを、その男子の連れと思われる二人が返していた。
「ははっ! 知ってる! いいんじゃねぇ? どうでもいい感じみたいだし、お前がこっそりしてもさ」
「見た目パッとしねーけど、意外に胸は結構あったからお前でもいけっぞ」
「マジか!? じゃあ俺も~」
思わず自分の耳を疑ってしまう。いくら鈍感な私でも、この内容を聞けば分かってしまった。彼らがこれから私に、何をしようとしているのかを。
私はあの時の悪夢が再び甦ってきたのを感じた。過去、秋月ファンの子たちに空き教室に閉じ込められ、暴行を受けた時の光景が、私の頭にフラッシュバックされる。一人の女子生徒がおもむろにスマホを取り出し、私を襲うよう依頼していた場面が。
もしかして……その依頼相手が神澤くんとも知り合いで、ここにいるというの!? 連れ去られ。殴られ。放置されてたのみならず。まさか、今になってあの時の恐怖が再び訪れるなんて、夢にも思わなかった。しかも話の内容的には、他の人も……。
じょ、冗談じゃあない!
一気に顔面蒼白になった私は、急いでここから抜け出せる場所を求めた。早くしないとあの人たちが来る。彼らに捕まってしまったら、絶望的である事は最早明確です。ただでさえ、私は秋月ファンの子たちに抵抗しても敵わなかったのに、男子三人を相手になんて到底、勝てるわけないもん!
助けを求めたくても求められない絶体絶命な状況の中、私は必死に、体育倉庫から脱出する方法を探した。楽しそうに話す声が、校舎内を響かせているのが感じ取れる。もう、彼らは外から中に入って来たんだ。建物内に反響している音が、その事を私に教えてくれた。
もう時間がない。距離からして、後どのくらい時間があるかなんて例え分かったとしても、それはきっと微々たるもの。どんどんと近付いてくる足音と声。それを聞きながら、私は未だかつてないほど頭をフル回転させる。
ここから逃げるために、今の私が出来る事は……。
でも必死に考えても、タイムリミットは私に容赦なく訪れる。体育倉庫から逃げ出せないまま。私の眼前にある体育倉庫の扉は、ぎこちない音と共に開かれてしまった。
「あれ? 誰もいねーぞ?」
倉庫の扉に備え付けられていたつっかえ棒を外し、一人がにやにやと厭らしい顔を浮かべながら体育倉庫内に首を突っ込んできた。だけど、すぐにその表情は崩れ出す。目的である私がいないのを、中の様子を見て気付いたみたいだから。同時に、一緒に連れ添ってやって来た別の男子も怪訝な表情を浮かべ、倉庫内を見渡している。
「っかしーな……。確かにちゃんと閉めてあったのに。あの子、何処行った?」
間一髪。私の姿は、彼らに見られていないようです。きょろきょろと少し暗い体育倉庫の中を見て回る三人。それを、私は必死に息を凝らしつつ、密かに様子を伺っていた。そんな事とは知らず、彼らは話を続けている。
「最初からいなかったっけか?」
「いや、確かにここへ神澤が放り込んだの見たぞ? ゴールはここだし」
「だよな~。最終的にここで暴れるっつってたしな。……ってゆーか不味くね? 逃げられたんじゃねーの? もしかして」
「おい、だったらヤバイぞ。神澤に八つ当たりでぶっ殺される! 早く探すぞ!」
最初は疑問系だったものの、私がいなくなったという事態に慌てふためいたらしい三人は、すぐさま体育倉庫より飛び出していった。扉は開けたまま、ばたばたと廊下を駆け抜けていく音が聞こえる。
まさか、私がまだ体育倉庫にいるとは知らずに。




