戸惑う心に忍びよる影⑧
堪らず私は秋月とあっくんから駆け出し、急いで距離を取ろうとした。というよりも、逃げ出しました。
限界です! これ以上は、私の頭と心臓が持ちません!
野球部が部活をしているグラウンドをひたすら突き抜ける私。
どうすればいいの、これ~。考えが全く思いつかないので、残された道はただ一つ。電光石火。逃げるが勝ち。疾風の如く! 緊急退避。退避退避~!
「ちょっ、先輩!?」
「え? る、流香!?」
そんな私に、慌てて秋月とあっくんが追いかけてくる。って、えぇ!? 何で秋月のみならず、あっくんまで追いかけて来るの!? いやあぁぁ――――――っっっ! 二人が一セットで来られた日には……もう……。恥ずかしくて、死んでしまいます。耐えられない! 追って来ないで、二人共っ!
全速力で、校舎内に向かう私。そして、動揺してて忘れていた。私は今、一人になってはいけない事を。このあと起きた事柄によって、思い起こされた。
――ヒュッ
「っ!? 先輩っ!」
「あっ! 流香っ!」
俊足の二人があっという間に私に追い付き、そのまま覆い被さってくる。それが意味するところをまだ判断出来てなかった私は、間抜けな声を出す。
「え?」
秋月とあっくん。一辺に抱き着かれて私は心臓が止まるかと思ったけど、そんな反応をしている場合ではないことにようやくながらも気付いた。私を押し倒しながら庇う秋月とあっくんの背後に、何かが落ちて来たのを見たからです。
――ゴトォッッ!
瞬きも出来ない程の一瞬。それまで私がいた場所には、何か重たい物が落ちていた。校舎へ私が入って来るタイミングを見計らって、上空から落ちて来たと思われる物。それが、無惨にもこなごなになって砕けている。
「な……な……」
私の背筋が一気に凍りついた。だって、もし、もしそれが私に当たっていたら、無事では済まされない物がそこにあったからです。
「レンガ?」
「いや、違う。ブロック塀だ」
何かを確かめるように秋月が聞き、それをあっくんが返した。
そう、私へとめがけて落とされた物。それは、住宅の周りを取り囲むのに使われたり、学校にもあちこち無造作にある……ブロック塀だった。
こんな重たい物、人体へ直撃でもしていたら、確実に生きてはいられない。
ぞっと、私は一気に顔を蒼白させているのに気付いた。秋月とあっくんが庇ってくれたから助かったものの、もし、私一人だけだったら……?
呆然とする私たち三人。嫌がらせなんてレベルじゃあない。明らかに、私への殺意を持ってされた行為。しばらくして、あっくんが口を開く。
「冗談キツすぎるだろ……。下手したら…………死ぬぞ」
冷や汗を垂らしながら言うあっくん。その言葉と共に、秋月がバッと立ち上がり、上空を睨みつけた。私とあっくんもつられ、上を見る。
「……っち、逃げやがったか。屋上から?」
校舎のどの窓も閉められていたため、秋月はブロックを落として来た場所を屋上からだと特定する。そして、ギリッと奥歯を噛み絞めると、大きな瞳をナイフのように鋭く細めた。
「っの野郎、殺す」
私たちには聞こえないぐらいの小さな声。その声で、見えない相手に低くどすを効かす秋月。
私はあっくんに立つのを手伝ってもらいながら、そんな彼を見ていた。
秋月、相当怒っている……。
それはまるで、私が暴行を受けた時に初めて見たあの、ぶちギレた秋月に近い雰囲気。
「あ、秋月……?」
恐る恐る私は声をかけてみたけれど気付かなかったのか、秋月はずっと屋上を睨みつけている。
「流香、怪我は?」
そんな私にあっくんは気遣ってくれたけど、私は自分のことより、秋月の方が気になって仕方が無かった。ブロック塀をきっかけに、秋月が、私の知らない秋月になってしまったような気がして。
だって、もうそこにニコニコと私に向かって笑ういつもの秋月がいなかったから。
「どうした? 秋月」
「なんもねー」
ようやく演劇部の部室にやって来た私と秋月を見て、部長が眉をひそめる。秋月のただならぬ雰囲気に、部長が彼に直接尋ねたりしたけれど、そっけない返事をされてしまったからです。
「また何かあったのか真山」
即、秋月に追求するのを辞めた部長が今度は私に聞いてくる。
「えっと……」と、私はおろおろとしながらも、出来るだけさっきあったことを部長に説明した。
「……………………ふむ」
顎に手を添え、何やら考えている部長。そしておもむろに、ぽんぽんと私の頭を撫でながら、部長はコソッと耳打ちをしてくる。
「真山。秋月を『止められる』のはお前だけだ。まだ間に合う」
「え?」
私は部長が何を言っているのか分からなかった。でも、やけに真剣な表情の部長にそのまま耳を傾ける。
「そして、『変えられる』のもお前だけだ。いいか? 秋月の面倒を、先輩のお前がしっかり見るんだぞ? 分かったな?」
何で部長にそう言われたのかまだ理解出来ていなかった私だけど、とりあえず頷いた。部活が始まってもなお眼光を鋭くさせている秋月に、他の部員も動揺しているし。そして何よりも、私と一切目を合わして来なくなった、秋月が心配だから。
帰り道、私の隣を歩く秋月へチラッと横目で見てみる。未だ険しい表情の秋月。一言も言葉を発しない彼に、私は少なからず戸惑いを覚えていました。
あれから、部活中でも秋月は何も喋らなかった。一度も口を開かなかった。部員数人が心配そうに声をかけてみるけれど、それを全部無視し、部室の片隅で窓から外を睨み続けていた。
そして、誰とも目を合わさなかった。彼の中で、周りは映っていないみたいでした。
それは私も例外ではありません。秋月は私にすら目を合わしてくれなかった。声をかけてみても、私もみんなと同じように無視された。
まだあっくんといた時に声をかけて気付かれなかったのは、偶然ではないと分かってしまった。彼の耳に私の声も届いていなかったんです。
こんなこと、秋月に出会ってから初めてだった。声をかけても返事がない。彼を見つめていても、視線が合わない。
とぼとぼと学校から自宅へ歩いていく私。いつもは帰りにケラケラと笑って私をからかってきたり、抱き着いてきたりしてくる秋月が、何もして来ない。ただ真っ直ぐ、眼光だけを前に向けている。
それでも私を家まで送ってくれる。そんな彼に、私はとても不安な気持ちになった。
本当にいつもの秋月じゃない。知らない秋月のような気がしてくる。
隣にいるのは間違いなく彼なのに。中身は、全く違う人物のような錯覚さえ覚える。
私と秋月。二人だけになってもう何分もたったのに、無言の空気が私たちの周りを取り巻く。陽の傾きが長くなってまだ辺りは明るいのに、私たちだけ夜の闇に包まれたような。そんな感じ。
堪らず私は口を開いた。
「あ、秋月」
呼んでも私の方を見てこない秋月。途端に、私の不安は更に膨れあがる。
秋月が私を見ない。見つめ返してくれない。
いつも真っ直ぐに私へと向けられたあの眼差しは、ここには無かった。
これは何……?
部長へしたように、秋月から素っ気ない態度をとられた私は「ズンッ」と体が重くなったような気がした。
何……これ……? この感覚……。
頭から爪先へ重しを押し付けられたような、そんな感覚が私を襲った。同時に、心が空っぽになる。風が通り抜けたあと、冷たい喪失感が私の全身に絡みつく。それはまるで、秋月が私から遠い場所にいるとさえ思わせる喪失感。
何でそんなに遠くへいるの? 何で近くに来てくれないの?
ずっとそばに。一緒にいてくれるって、言ってたじゃない……。
嫌だ……。
私ははっきりと、今自分が思っていることを認めた。
嫌だ……。嫌だよ……秋月……。隣にいるのに……。そんなに遠くへ……行かないで!
――ギュウッ
思わず私は彼の片手を握った。私の手より、遥かに大きな秋月の手を両手でしっかりと握り締めながら、心の中で懇願する。
嫌……嫌だよ……。行かないで……。
「秋月……こっち、見てよ……」
声を振るわせながら私は秋月を見た。必死に彼を見た。彼を呼んだ。私はここにいるのに。遠くへ行かないでと、彼を呼んだ。
「先輩……?」
私の異変を察したらしい秋月は、ようやく私に視線を向けてくれる。そして目を大きく見開き、驚いていた。いつの間にか流れ出していた私の涙に、気付いたみたいだからです。
秋月の手を握る自分の両手へ、更に力を込める私。
「見て……こっちを見てよ……秋月……」
ぽろぽろと目から落ちてくる涙に構わず私は言った。いつものように私をからかってきてよ、ニヤッと不敵に笑ってきてよ。いつもみたいに……私を見て……笑ってよ……。そう、願いを込めて。




