2分38秒
ドアが開くより早く、僕は走り出した。
転がるように身体を外へ投げ出すと一目散に駆け出した。初めの第一歩で大きな水たまりに思い切り足を突っ込んだ。派手な水しぶきがあがり、近くにいた知らない女性に水をかけてしまった。振り返らず走る。もちろん心の中では謝った。もちろんだ。
身体の表面に無数の水滴がついていくのを感じる。僕はひたすら足を前に前に出した。力いっぱい地面を蹴って、さらにその先へ進む。とにかくできるだけ早く、これをくり返すのだ。
足だけでなく腕も腰も身体全体を余すところなく使って、僕は走った。降りしきる雨が、ついには地肌に到達した。身体に服が張り付いてとても動きにくい。とたんに全身が重く感じた。雨粒一つの重ささえ惜しい。
すり切れそうな僕のすぐ隣を、大きなダンプカーが通り過ぎ、そしてしっかりと水をかぶった。もうずぶ濡れだ。ひとりで着衣泳でもしてきたかのように、この世界で僕だけが必要以上に濡れていた。そんなことはどうでもいい。僕は走らなければならない。それ以外はどうなろうとかまわないんだ。僕は走らなければ。
瞬間、目の前に地面があった。一瞬だった。どうやら僕は転んだらしい。
地面に強くこすりつけられるようなかたちで、僕は停止した。衝撃で全身がぎゅっと圧縮でもされたのだろうか。身体がシャチホコのように反り返り、普段身体の堅い僕では信じられない位置に足があった。かけていた眼鏡のレンズがひび割れ、フレームもねじ曲がり、かろうじて顔に引っ掛っているだけになった。
しかしそのすべてが問題ではなかった。
たとえ身体がへし折れようと、常用している眼鏡が木っ端みじんになろうと、今、この瞬間、僕のこの足が、動いていない、走っていない、そのことのほうが大問題だった。走らなければ。
僕は転んだとわかった瞬間、ほとんど無意識のうちに立ち上がり、これまで以上の早さで走った。遅れを取り戻さなければならない。
…痛い。身体にしみ渡る痛み。ここへきて、時差をもってして全身ににぶい痛みが駆け巡った。水を吸って鉛のように重く、もはや感覚もない、ただ腰からくっついているだけの足が。そういえば靴がない。どこかで落としたのだろうか。そもそも僕は靴を履いていたか。覚えていない。歯を食いしばった口の中にしびれと苦みを感じる。きっと今の僕は他の人から見たら、それはもうひどい有様なのだろうけれど、「走る」ということ以外すべての事項が、僕には邪魔だった。
さっきからまるで機能していない眼鏡の残骸を、ぐしゃぐしゃの顔から引き剥がし、傷だらけのこぶしにぐっと力を込める。
走る。走る。走るのだ。
もっと。もっと早く。
ぼくは、はしらなければ、ならない。
ぼくは、いま、はしらなければ、ならない。