ミートパイ毒殺未遂事件
方向性とは
「そうか。ならば––––」
☆☆☆☆
「『あの事件』も覚えていないということかな?」
低い声音が、狭い診察室に響く。
「あの事件」。
その言葉に、私はすでに嫌な予感がしていた。
何か、普通でないことがシエラの身に起こっているのは明白だ。だが、それに「事件」という言葉までついてしまうと、重みを持って彼女の身にのしかかるようで。
我事でないのに恐ろしい。
何より。途方もない不安と共に、私の中に一つまみの好奇心が生まれてしまったことが怖かった。
「二年前、ヴェルータ伯爵家とロゼッタ侯爵家の結婚式で起こった––––」
「ちょっ、ちょっと待てよ!」
そのまま話し始めた主治医を慌てて制す。
何も考えてないのかこいつ。
「は……話す気か?しかも彼女の前で……」
私は話して欲しいなどとは一言も言っていない。
振り返った先のシエラはベッドの上で虚空を見つめ、ぼーっとしている。まるで魂が抜かれたかのようだ。
こちらの話は聴こえていないようだった。もしくは、聴こえていても耳に入っていないか……。
私は医者の耳に口を寄せ、小声で囁いた。
「……私達は今さっき、ロゼッタ邸に行ってきたんだ」
医者はほんの少し、目を瞠った。
「彼女の傷もロゼッタ邸の奴にやられたものなんだよ」
だから彼女の前でロゼッタの話は止してくれ。少なくとも今は––––と、言わなくてもそこは察してくれたらしい。
医者は私に、後で話をすると言った。今はシエラが起きているから、彼女が眠った後に。
・・・
シエラを半ば無理やり寝付かせた後、私と医者は向かい合って話をする。
彼は自らをヒュースと名乗った。二十六歳。
驚いたことに私と同い年だった。
「貴女は彼女とはどういう関係なんだ?」
「私は––––」
私はすべてを話した。
一ヶ月前。雨が降る寒い夜に、私が営むカフェに着の身着のまま、ボロボロの姿の彼女が現れたこと。
彼女は全ての記憶を失っていて、いつの間にか山の中に放り出されていた、と私に話してくれたこと。
彼女の最後の記憶が姉の結婚式で料理を作っていた時で、実家に戻ることは然程苦ではなかったが戻っても誰も受け入れてくれなかったこと。
そして、一ヶ月経った今、再度実家に赴いたら冷たい態度を取られた上、刺されまでしたこと。
ヒュースはその全てを、ただ諾々と聞いていた。
衝撃的なはずのその内容にもほとんどなんの反応も示さなかったが、ただ一度だけ、山の中に放り出された所だけ「おかしいな……」と呟く。
「おかしい?」
「ああいや。こっちの話だよ。それにしても……カフェの店主とはね。皮肉な話だ」
「……どういうこと」
思わず喧嘩腰になってしまいそうなのを抑える。
ヒュースは私の返答を聞いて一度天井を仰いだ後、額を押さえた。
その年齢不相応な動作の後、困ったような声で問われる。
「……カフェというからにはもちろん、食べ物も出すのだろう?」
「そりゃあ……」
それが本業だ。
もちろん、シエラにも厨房に立ってもらっている。それを話すと、ヒュースはううん、と唸った。
何かを言いあぐねているような様子。
「その……これはお節介だとは承知の上だがね……彼女の起こした事件というのは料理に関するものだから、気をつけた方が良い」
「……というと」
聞き返すと彼は、やはり言いづらそうな様子で「言いにくいのだがね」と前置きして。
「……ミートパイ毒殺未遂事件」
「ど––––」
毒殺!?
また物騒な話だ。
ヒュースは……推測だが、彼は言いたかったのかもしれない……流暢に話し出す。
「二年前……ヴェルータ伯爵家とロゼッタ侯爵家の結婚式の最中だった。宴席に出されたミートパイを食べた者が揃って体調不良を訴え、十六人がロゼッタ邸から一番近い病院……この病院に搬送された」
そんな話は初耳だ。
「あの時のことはよく覚えているよ。あの日はてんやわんやの大騒ぎだった。当時僕は非番だったが緊急で駆り出され、それでもまだ人手が足りないくらいだった」
「何の話だ!?いったい……」
「シエラ・ロゼッタがその犯人だとされている」
頭が真っ白になった。
そんな馬鹿な、と言おうとした私を先制するように一言。
「自分でそう言ったんだ」
「自分で……」
それはなによりも言い逃れできない証左である。
「ミートパイに混入した毒物の瓶がね……厨房で見つかったんだけど、誰のものかまではわからなかった。けれど彼女が、自分がやったと告白したんだよ」
「そ––––」
私は二の句が告げなかった。
そんなことが、あったなんて。
「ま……待って。私はそんな事件は知らない。そんな大規模な事件なら話題になってるはずだ。第一、逮捕されてなきゃおかしいだろ」
「……ロゼッタ侯爵は身内の行いを隠したがったのさ。地元の名士とはいえ、小さな領地しか持たない貴族だからね」
「……」
小さな領地しか持たない貴族だから。
だから、不祥事があると容易に潰されてしまう。
そういうものなのか。社交界というのは。
「それに相手方の伯爵家の意向もあったようだよ。そもそもの原因は、伯爵家の息子の不義理にあったと聞いている」
その不義理の内容もヒュースは赤裸々に話した。
新郎のデニス・ヴェルータ伯爵は、なんと結婚式の前日までシエラと婚約していたそうだ。それなのに結婚式前夜、突然それを翻し、姉のリリアと結婚すると宣言したという。
なんという不義理。それで結婚を押し通そうとした両家も両家だが、隠したがるのも仕方ない不貞行為だ。……まあ、このヒュースが知っている時点ですでに隠せていないのだが。
だが、動機としては十分すぎるほど十分なものだった。
「本当にもうこの街には戻って来ない方が良さそうだな……」
姉の結婚式で毒殺未遂を起こしたのなら、ロゼッタ邸の人間の反応も納得がいく。
魔女だのなんだの、言い過ぎだと思うくらい罵ったことも。
「ありがとう先生。色々と合点がいったよ」
「いや……マリーさん」
だがヒュースはまだ何か言う気だ。
「……貴女の話を聞いて、少し不可解なことが出てきた」
「?」