プール猫と水泳少女
何故、こんな事になってしまったのだろう……。
プールのスタート台の上から隣を見ると、奇怪な生き物がゆらゆらと踊っている。
そう……あれは20分前に遡る。
「それじゃ、今日はここまで」
『お疲れ様でしたーーっ!』
「先生!」
顧問の言葉に部員達は着替えに戻っていく。
そんな中、私は顧問を歩み寄る。
「菊谷か、どうした?」
「もう少し、練習していきたいんですけど……」
「うーん……」
難色を示す顧問に、私は身体を折り曲げるようにして、深々と頭を下げた。
「はぁ……わかったよ」
「ありがとうございます……わぷっ!」
顧問は、仕方ないと言わんばかりにため息を吐いた。
私は一度顔を上げて、それからもう一度頭を下げる。
そんな私に顧問はタオルを投げ渡した。
タオルが顔面を直撃する。
「ちょっと職員室に行ってくるから、しばらく休んでろ」
「はい」
顧問の言葉に軽く頷くと、私はタオルを顔に乗せ横になる。
気怠い疲れが身体を包み込む。
自分が想像していたよりも体力を消費していたようだ。
しかし、すぐに焦燥感が襲ってくる。
こんな感じで、次の大会で良い成績を残せるだろうか……?
また予選落ちするんじゃないか……。
悪いイメージが浮かんでは消える。
そんな時だった。
突然、プールからチャポンという水音が聞こえてくる。
「?」
私は身体を起こし、タオルを顔から除けて、プールへと視線を送る。
何もない。
「気のせい……だったみたいね」
そう呟いた時だ。
またもや、チャポンという水音と共に、何かが水の中に沈み込んだのが見える。
何かいる……。
私は得体の知れない生き物がいる事に、背筋に悪寒が走る。
「……」
私は恐怖からプールを凝視する。
と、次の瞬間、水しぶきを上げて、何かがプールサイドに上がってきた。
「ひっ!」
私は小さく悲鳴をあげて、身体をのけ反らせた。
逃げなきゃ……。
私は必死で身体に命令を出す。
だけど、恐怖からか身体が硬直して、私はギュッと目を瞑る。
「?」
「にゃおーん」
しかし、全然襲われる様子がない。
訳が分からず、ゆっくりと目を開けると
、目の前に変な生き物がいた。
間の抜けた声で鳴いている。
何と言うか……変な猫だ。
「えっと……何?」
「にゃにゃん」
長い胴に細長い腕、水掻きのついた手。そして短い足で立ち、変なリズムで踊る真っ白な猫。
私は先程までの恐怖も忘れ、唖然としてしまう。
しばらく、踊っている変猫を見ていたが、次第に怒りが込み上げてくる。
こんな変猫に怯えていたなんて……。
「こら!変猫!私は練習しないといけないの!」
そう。
こんなヘンテコリンな生き物に構ってられる余裕など私にはないのだ。
「にゃふー」
変猫の鼻から勢い良く息が吹き出す。
こ、こいつ!
今、鼻で笑った!?
腹立つーーーっ!
変猫はプールサイドを踊りながら歩き出した。
辿り着いたのはスタート台。
変猫は私の方へ視線を向ける。
「にゃうん」
挑発的に笑うと、かかって来いと言わんばかりに、変猫は指をチョイチョイと動かした。
カチンときた。
こんな変猫に舐められてたまるか!
「やってやろうじゃないの!」
私は早足でスタート台まで行くと、変猫を睨みつけた。
そうして、私と変猫の勝負が始まった。
「覚悟しなさい。ケチョンケチョンにしてあげるから」
「にゃおー」
ビシィと指を突き付けて言い放つ私の言葉を軽く流すように、間の抜けた声で鳴いてみせる。
まったく、馬鹿にしている。
「よーい…………どん!」
私はゆっくりと間を取ると、声と共に飛び込んだ。
スタートは私が早い。
当然だ。
私がスタートを切ったのだから。
私は一気に引き離しに掛かる。
と、背後から凄い水音が聞こえてくる。
チラリと視線を向けると、変猫が凄い勢いで追い掛けてきていた。
しかもバタフライで。
水音は変猫が、バタフライで水面に出る音だったのだ。
こちらはクロールだというのに、段々差が縮まってくる。
このままでは負けてしまう。
私は焦りから、必死で手足を動かした。
だけど、焦りから手足を動かしたとしても、バランスが崩れて状況は悪化するだけだ。
案の定、私はあっさりと抜き去られてしまった。
負ける……?
たかだか、水掻きの付いただけの猫に私は負けてしまう。
悔しさから、ジワリと涙が滲み出てくる。
私は諦めて、徐々に手足を動かすのを止める。
そして、どんどん先に行く変猫を、ただただ見送った。
「……」
それにしても、何てのびのびと泳ぐんだろう。
きっと、あの変猫は泳ぐ事を楽しんでいるんだろう。
そういえば、私も昔は何も考えず、がむしゃらに泳いでいた。
いつからタイムにこだわり始めたんだっけ……?
前を泳ぐ変猫を見て、私は昔の事を思い出していた。
私はイルカのようにクルリと身体を回転させる。
そして、ゆったりとした動作で、もう一度泳ぎ始めた。
そうだ。
私は水泳が……泳ぐ事が大好きだったんだ。
「……ッ!」
私が自分の水泳への気持ちを思い出した時だった。
足に激痛が走る。
いきなり足が攣ってしまったのだ。
パニックになってしまい、水を飲み込んでしまう。
まずい……。
このままでは溺れてしまう。
少しずつ遠のいていく意識……。
と、沈み込んでいく身体が突然浮上し始める。
「……ぷはぁっ!……けほっ!けほっ!」
プールサイドに掴まり、何とか上がる。
水を飲んでいたせいで、私は涙目になりながら咳込んだ。
そして、自分に何が起きたのか確かめる為に振り返った。
「変猫、あんたが助けてくれたの?」
「にゃおーん」
そこには変猫が大きな二つの目で見つめていた。
返事のつもりなのか、変猫は嬉しそうに一声鳴いてみせる。
「ありがと」
「にゃん」
私は柔らかく笑顔を作り、変猫に礼を述べて、水から上がるように手を差し延べた。
それに答えるように、変猫は私の手を掴み短く鳴いた。
しかし、水から上がる訳ではなく、そのまま手を離した。
離した手の中に違和感を感じる。
ゆったりと開くと、手の中には青く輝く石が握られていた。
「これは……?」
尋ねようと、顔を上げると、変猫の姿はなかった。
「変猫?」
私は立ち上がり、辺りを見回す。
しかし、変猫の姿は何処にも見当たらない。
「変猫、何処に行ったのよ」
「何してんるだ?」
「きゃっ!」
変猫の姿を探してキョロキョロしていると、突然背後から声を掛けられて、私は小さく悲鳴をあげて、身体をビクッと震わせた。
「ど、どうしたんだ?」
「何だ、先生か」
「何だ、とは何だ」
私の反応に戸惑ったのか、顧問は驚いたように吃る。
私は声を掛けてきたのが顧問だとわかり、胸を撫で下ろす。
その態度を不満に思ったのか、顧問は手を腰に当て嘆息する。
「先生!さっき、ここに猫がいたんですよ!」
「猫なんて珍しくないだろう」
「違うんですよ!何て言うか……変な猫なんですよ」
「変な猫……?」
先程の変猫の事を必死で説明する私に、顧問は訳が分からないのか疑問符を浮かべている。
「こう、胴が長くて、手に水掻きがあって、変なリズムで踊ってる……」
「そりゃ、プール猫だな」
「プール猫?」
私の説明を聞いていた顧問が、あっさりと言い放った。
聞いた事がない名前に、私は首を傾げる。
顧問は楽しそうに説明を始める。
「ああ。子供がたくさん泳いでるプールにいる……妖精みたいなもんだ」
「あれが妖精ぇ?」
私は顧問の言葉に、訝しげに返した。
どう見ても、あの変猫が妖精とは思えなかった。
というか、私って子供だと思われてたのっ!?
「無理してるお前が心配だったんじゃないか?」
確かに、最近の私はちょっと無理し過ぎていたかもしれない。
それにしても、妖精って……。
「まったく、おせっかいな変猫」
私はポツリと呟くと、クスリと笑う。
まあいいか。
貴重な経験したみたいだし。
「で、今日の練習はどうする?」
「止めにしときます。また、あんな変猫が出て来ても困りますから」
「そうだな」
私は顧問に一礼して更衣室へ向かう。
顧問は苦笑しながらプールを後にする。
「ありがとね、おせっかいな変猫」
背後からチャポンと水音が聞こえた気がした。