宗蓮院朱鷺乃の依頼
「だから、悪かったって言ってるだろ?」
「それが謝罪する者の態度ですの? とりあえずテーブルから足を下ろしなさい!」
「勘弁してくれよ。今は指一本動かすのだっておっくうなんだから」
時刻は真夜中。邸内の応接室。
屋敷の主の嵐のような非難を眠たげな半目で聞き流していたアスキスは、それでも大人しく足を組みなおし、ソファーに身を沈めた。
目の前には、寝巻きから黒のワンピースに着替えた宗蓮院朱鷺乃がまなじりを釣り上げている。
後ろに控える女執事が、腰を屈め主人に耳打ちした。
「殴りますか、お嬢様」
「おやめなさい灰里」
「そりゃあ殴れないだろうさ」
年若い主従を見やり、アスキスは人の悪そうな笑みを浮かべる。
「気を失っているお前らを、屋敷に担ぎ込んで介抱してやったのは、このあたしなんだからな」
黒犬を倒せはしたが、眼帯の女はその間に目的の品を手に入れてしまったらしい。
余力の残されていないアスキスは、ある意味救われた形だが、出し抜かれたままおめおめと帰れるはずもない。
倒れた二人をそのままにして姿をくらますのは簡単だったが、アスキスは朱鷺乃と取引きする道を選んだ。
育ちの良さゆえの義理堅さなのだろう。幸い朱鷺乃に貸しを作ることには成功している。
うまい具合に情報を引き出し、あの黒犬遣いを追わなければならない。
「それでアスキス、貴女本当は何者ですの?」
「何度も言ってるだろ、魔女だって。あたしみたいな美少女が魔女っ子だって言ってんだ。信じとけよ夢がねぇなあ」
何が不満なのか。主従は無言のままアスキスを見つめ続けている。
冷静に観察する余裕があったなら、風がアスキスに都合よく流れていることや、衝撃を反射させる見えない水晶片の存在を感じ取れたかもしれない。さらに言えば、黒犬が正確には別の生物との混じりものだと気付くことも。
だが、人間は信じたい物を信じるものだ。今夜朱鷺乃たちが目にしたのは二組の不法侵入者。一方はゴシックドレスに身を包んだ金髪ツインテールの少女で、もう一方は黒犬を連れた眼帯の女。少しばかり奇妙な風体ではあるが、それが自分たちの知る理の外に関わる存在だと、理解するのは難しいだろう。
言葉を尽くして説明するのも、いいかげん面倒だ。アスキスは早々に匙を投げた。
「あーもういいよ、それじゃあ美少女怪盗ってことで」
「お嬢様、殴っていいですか?」
耳打ちする執事に、朱鷺乃はため息まじりに首を振って見せた。
「いいでしょう、分かりました。通報は見合わせますわ。貴女はここに不法に侵入したものの、窃盗は未遂に終わったんですから」
「危ない眼帯女も追っ払ってやったしな」
「……あくまで、結果論ですが」
うそぶくアスキスに、朱鷺乃は釘を刺した。
「それで、無くなったのはその“鍵”だけなんだな?」
目的の品について、アスキスは師であるアビゲイルから詳細を教えられてはいない。
探して選び取ることまでを含めて探索のつもりだと思っていたが、あるいはアビゲイル自身、それがどんな形の物なのか知らなかった可能性もある。
紅劾の書斎に荒らされた形跡はなく、眼帯の女はそれ以外に手を付けていない。まず間違いないだろう。
「葬儀の後二三日して、父宛に郵送で届いていた物ですわ。差出人は記されてはいませんでしたけれど、酷く乱れた宛名の文字が印象に残っていますわね」
「不吉だな、おい」
「消印は無名都市とありました、お嬢様」
「有能だな、おい!」
中には古びた鍵が一本入っていたきりで、書状の類は入っていなかった。
父親の古物蒐集癖を知っていたため、朱鷺乃は特に不審に思わず机の上に置いていたのだという。
この書斎で紅劾が死亡したのは一週間前。それなりの名士だから地元紙にも訃報は掲載された。差出人はそれを知ったうえでその鍵を送ってきたのか、それとも運悪く生前に届けることが叶わなかっただけなのか。
「父はそれのせいで殺されたのだと思います?」
真剣な表情で朱鷺乃が問いかける。
死因は心不全。記事によると事件性はなかったはずだが、何の不審も見付けられなかったから、心不全で片付けられただけだともいえる。
娘としては、持病もなく働き盛りの父親の突然の死が受け入れがたいのも理解できる。
魔女の徒弟であるアスキスが、その場に居合わせていれば、何かを見付けたかもしれないが、それもいまさらな話だ。
何よりアスキスは、紅劾の死の原因を調べに来たのではない。
「お父様が亡くなったあの夜、私もここに滞在しておりましたの。なのに、気付いてあげられなくて……」
軽口を叩きかけたアスキスは、沈痛な朱鷺乃の表情に口をつぐんだ。
夫婦仲が悪く、紅劾は最近この別宅に寝泊りしていたというのは事前調査どおり。遺体の第一発見者は朱鷺乃だったということか。
自責の念に駆られているのか。
「鍵を奪うのが目的で、あの女が犯人という可能性はありませんの?」
朱鷺乃は黙り込むアスキスに畳みかけた。
「いや、それは違うな。奴が殺しもためらわない類の相手なら、いまごろあたしらは生きちゃあいない。もっと簡潔に冷徹に済ませてるはずだ」
くやしいが、手加減され見逃された事実は認めざるを得ない。
本物の魔女を前にしては、アスキスはまだまだ半人前の見習いでしかない。
何のための物であるかも分からない鍵の詳細。
魔女を動かしてまでそれを求める依頼人の心当たりを、アビゲイルに問い質したい衝動に駆られる。
だが、それは師であるアビゲイルに探索の失敗を報告することになる。
わざわざ自身の無能を証明するような物じゃないか。
「こんな物にうつつを抜かして、喧嘩ばかり」
朱鷺乃の声が沈んだものになる。
壁に飾られているのは南洋の面にネイティブアメリカンの羽根飾り。
棚に置かれているのは水晶玉に栄光の手――これはさすがにレプリカか。
素人民俗学者というより、猟奇趣味の持ち主だったのだろう。
「お母様の言うように、まとめて処分していれば……」
「そう思うんなら、なんであんたは、わざわざここに泊まりに来ていた?」
学生には夏休みの期間。
朱鷺乃は喪中に母親の意に逆らってまで、この別宅に泊まり込みに来ている。
それなり以上に思い入れと大事な思い出があるのは、容易に推察できた。
おかげでアスキスは仕事をしくじる羽目になったのだが。
「実業家には験を担ぐタイプは珍しくないぜ? それに、物を見る目はそれなりに確かだったようだ」
アスキスは先ほど庭で拾っておいたものを取り出し、テーブルに置いた。
「これは?」
割れた青い石の欠片。効果を失くした護符の残骸。
「黒犬からあんたを守った品だ。」
「………………」
これのおかげでアスキスも命拾いしたとは言わないでおく。
借りは返したつもりだが、貸しがないのを教えてやる義理はない。
朱鷺乃は握りしめた石を胸にぎゅっと目をつむった。
泣き出してしまうんじゃないかとひやひやしたが、しばしの沈黙の後、朱鷺乃は毅然とした表情で口を開いた。
「分かりました。それでは私、貴女を雇い入れますわ!」
「うん、なんだ? なんの話だそりゃ?」
戸惑うアスキスに構わず、朱鷺乃は続ける。
「依頼内容は奪われた鍵の回収」
「おい」
「回収後、鍵は貴女に売却します」
「ん……筋は通っているのか」
思わず声をあげたアスキスだったが、依頼料をそのまま“鍵”の代金にあてれば収支が釣り合うと気が付いた。
徒弟とはいえ本物の魔女を雇うんだ。なんなら必要経費と少し多めの報酬を請求してやればいい。
「付帯条件は私の同行ですわ!」
「まてまてまて、今さっき危ない目に合ったばかりだろ?!」
「あら、通報で済ませるほうが宜しかったかしら?」
朱鷺乃は執事が差し出す電話に手を伸ばして見せた。
冗談じゃない。素人同伴では、まともに探索をこなせるはずがない。難易度が倍に跳ね上がる。
「脅しか!? さっき通報しないって言ったばかりだろ?!」
「必要経費は全て用意しますわ。物わかりの良いクライアントがいたほうが、貴女もいろいろやりやすいんじゃなくって?」
「ぐぬぬ……」
何が物わかりの良いクライアントだ。
朱鷺乃は鍵をダシに、アスキスに父親の死の真相を探る手助けをさせるつもりらしい。
だが、眼帯の女に出し抜かれ、追う立場となった今では、資金面での援助はアスキスの探索 に必要不可欠であることも間違いない。
「……オーケー分かった。あんたがボスだ」
にっこり笑顔で差し出された朱鷺乃の右手。
握り返すアスキスの表情は、敗北者のそれに近かったかもしれない。
§
彼女はいつも楽しいことを探していた。
遊び相手がいない時は窓から外を眺め、来客があれば必ず確認に走る。
その夜はずいぶん騒がしく、部屋に入ってきた客人は見たことのない顔だった。
出て行った彼女の友達を待つでもなく、一人でなにかごそごそやっている。
遊んでもらえる相手なのか。ちょっかい出してみようかしら。
彼女が考え込むうちに、すぐに部屋を出てしまう。
奇妙なやつだ。ドアからじゃなく、部屋の角から出て行った。
後には透明な石のようなものが浮かんでいる。
ふわふわとたよりなく揺れ、好奇心をかきたてる。
消えかかりながら誘いかけるそれに、彼女は我慢しきれず飛びついた。