無限回廊
「どこまで歩けば宜しいんですの?」
どこまでも続く廊下の真ん中で、朱鷺乃は途方に暮れていた。
水泳部員といちゃつくアスキスを見ているのが、なんとなく面白くなかった朱鷺乃は、うたた寝をはじめたものみを置いて、一人図書館へ向かった。
2階の片隅で、不自然な位置になかば開いた扉を見付けたまでは良かった。だが、足を踏み入れるべきではなかった。
朱鷺乃が潜ったとたん扉は背後で勝手に閉まり、慌てて振り返ると、始めからそうであったかのように、どこまでも廊下が続いていた。
動かないほうが良かったかもしれない。
待っていればアスキスとものみが扉を見付けてくれたはずだ。
今になってそう後悔する、どこからか聞こえる獣の息遣いのようなものが、朱鷺乃に足を止めることを許さなかった。
「いったい、どういう仕組みになってるんですの!?」
隠し通路の類ではない。
図書館の2階からこんなに長く直線で傾斜のない廊下を歩けば、今ごろとっくに学園の敷地の外だ。そんなものを隠せるわけがない。
何度か扉を見掛けたが、開けてもそこには同じような廊下が続き、気が付けばまた朱鷺乃は廊下の真ん中で立ち尽くしている。
扉は素材もデザインもまちまちであったが、泥沼に陥りそうな予感に、朱鷺乃はもうそのどれにも触れる気にはなれなかった。
獣の息遣いが徐々に大きくなる。追い詰められた朱鷺乃はせわしなく辺りを見回し、手近の扉のノブに手を掛けた。
「えーい、もうどうにでもなれですわ!!」
「そっちはダメだよ?」
そのとき、少し先にある扉が内側から開くのが見えた。
幼い銀髪の少女が、扉の陰から顔をのぞかせている。
「ちょっと、お待ちなさい!」
くすくすと楽しげな笑い声を残し、少女は扉の奥へと消える。
慌てて朱鷺乃が追い掛け開けた先は、まるでカーテンの海だった。
大きな舞台の裏側のように、重たげな緞帳が幾重にも吊り下げられている。
朱鷺乃はぽかんと口を開け見上げてみたが、緞帳はどこまでも続き、天井は見えなかった。
§
「ようこそ、アビゲイルの弟子。さて、鍵を持ってるのはどっちかな?」
どこまでも続くかと思われた廊下の先。
アスキスが重い両開きの扉を開けた先には、眼帯の女が待ち構えていた。
どうりで簡単に開くはずだ。無限回廊内に作られた部屋へは、主に招かれてさえいれば迷わずに辿り着ける。
逆に拒まれている場合、そこへ辿り着ける確率は奇跡に近い。
力ある魔女や魔術師の中には、無限回廊に専用の工房を持つ者も存在する。この眼帯女もそうか。
「メイスンの裔だな。聞きたいのはこっちだ。あたしの雇い主をどこにやった?」
眼帯の女はあからさまな失望の表情を浮かべ、舌打ちを漏らす。
「なんだ、ハズレか。どうにも今回の仕事は角度が悪い」
幸いなことに、朱鷺乃は眼帯の女に捕われたわけではないらしい。
けれど、一人で無限回廊をさまよっているのなら、なおのこと早く見つけ出さねばならない。
「どうして宗蓮院の娘がここを素通りしたかは分からないけど、バスカヴィルに追わせている。じきに見つかるさ」
奇妙な部屋だ。
広い空間を埋めるのは、回転し続ける様々なサイズの歯車と、成長しては自壊する無数の鉱物結晶の群れ。
「お前らはこのエステル・メイスンのドッグランで、モーディ・ドゥーと遊んでな」
背を向けた眼帯の女が手を振ると、結晶から黒犬が飛び出し、アスキスたちを目掛けて襲い掛かってきた。
「まてよ、逃げんなこのッ!」
アスキスが黒犬の突進を際どくかわす間に、エステルは巨大な結晶の柱に入り姿を消した。
「わーっ!? ゴスロリちゃん、入り口が!!」
ものみの叫びに振り向くと、扉のあった場所が成長する結晶に埋め尽くされている。
どうすることもできぬ間に、エステルが門に使った結晶は育ち切り、アスキスの目の前で砕け散った。
まずい。
ものみは身軽にかわしているが、直線を走り続ける黒犬の突進は徐々に速さを増している。
前回と同じで、黒犬には目隠しと口輪が嵌めらている。
殺す気までは無いようだが、エステルが朱鷺乃を確保すれば、今度こそアスキスの敗北が確定する。
反撃しようにも、黒犬が反射に使う歯車と結晶は刻々と角度を変え、出現位置の予測さえままならない。
アスキスは避けるのに精一杯で、決定打を撃てぬまま無為に時間を浪費するばかり。
「掴まれ! 荒っぽく行くぞ!!」
跳びまわるものみを捕まえ抱き寄せると、アスキスは黒曜石をばら撒きながら踊るようにターン。
「吹っ飛べワン公!!」
どこから来ようが同じこと。
アスキスを中心に吹き荒れる風は、確かに黒犬を吹き飛ばした。
だがその威力は、アスキスの予想を遙かに上回っていた。
荒れ狂う風ははるか高くにある天井を吹き飛ばし、結晶ごと床を抉る。
力ある魔女であるエステルが、無限回廊の中、己の領域と定めた境界をも。
「あ、ちょ、これまずい!!!??」
「にゃああああああ!!!!???」
ヒロイン補正が効いてない!
普通こういうのは、化け物のほうが落ちるんじゃないのか?
悲鳴だけを残し、無限回廊の奥深く。
どことも知れぬ場所へと、アスキスたちは落ちてゆく。
§
アスキスを足止めし、罠を素通りした朱鷺乃を確保に向かったエステルは、使い魔である黒犬を前に困惑していた。
「おかしい。バスカヴィルが撒かれている」
重い緞帳の垂れ下がる迷宮のような部屋の中で。
対象の存在自体を嗅ぎ当てる猟犬が、目標の匂いを捉えられず、ただぐるぐると歩き回っている。
「なに? あの半人前がわたしより尖った策を講じたっていうの?」
先ほどのアスキスの反応から推すと、それは考え難い。
だとしたら朱鷺乃自身が意図せぬ理由で、無限回廊の深みへ紛れ込んでしまったのか。
人間の制御し切れないヨグ=ソトースの腹の中。エステルでさえ理解不能な事態も起こりうる。
「可哀想に。魔女でもないのに無事でいられるかな?」
エステルが半ば仕事を諦めかけた時、無限回廊での連絡用の特別製の端末に、依頼人から連絡が入った。
「あー、悪い。ちょっと手間がかかりそうで。ん? いやいや、まだ失敗してねーし!?」
増援を申し出る依頼人に、エステルは狼狽した。いまさら後だしで手柄をさらわれては適わない。
状況が変わったという依頼人は、追加の条件を提示した。
「アビゲイルの弟子の身柄も確保? そんなの先に言ってよ、めんどくさい!」
舌打ちと共に通話を終えたエステルだったが、すぐに優先順位を入れ替えた。
万が一宗蓮院の娘を見付けられなかった場合、ただ働きに終わらないよう、先にアスキスを確保しておくべきだ。
結晶で門を開き、罠を仕掛けた部屋 に戻ったエステルは、その惨状に絶句した。
「なにやってんの?! 馬鹿なの? 死ぬの?」
床に開けられた大穴を覗き込み悪態をつく。見下ろす先には、エッシャーの描く騙し絵の世界が広がっている。
幾ら半人前でも、いや半人前ならばこそ、無限回廊で比較的安全に歩けるのは、人間の意識で形成した、ごく一部の領域だと教え込まれているはず。人間が観察し、意志を投影することにより、初めて人間の扱える床や壁が造られるのだ。
「本当、面倒なことになったよね?」
2頭の黒犬を撫でながら、眼帯の魔女は溜息を漏らした。




