幸せな気持ち
陽が落ちると空は薄紫色に染まり街並みは一気に薄暗くなる。だが最近はこの時間が待ち遠しい。
…今日は少し遅いかな?
オーダーがひと段落した厨房でエリサは入り口を気にしていた。街はずれということもあり人通りは多くない。何人か店前を素通りしたが、その後いつものようにルイスとバルサがドアを開けた。
「あ、いらっしゃい!ルイス、バルサ」カウンターの中から嬉しそうに二人を迎えるエリサ。
「やぁ、エリサ」軽く笑顔で返し慣れた感じで二人はカウンター席に座る。
最近では二人共カウンターに座るようになり色んな話をするようになった。エリサだけでなくエリックやセヴィとも顔馴染みだ。
「まずは葡萄酒でいい?」そう言いながらすでに酒樽に手をかけるエリサ。
「ああ、頼む。もう喉がカラカラなんだ!」早くしてくれと言わんばかりに前のめりになるルイス。
「はは、こいつこれ(葡萄酒)のために午後から水分を摂ってないんだ!」バルサはからかうように隣で笑っている。そんなに二人を見てエリサも口元が緩む。
「はいどうぞ!バルサはまたお祈りから?」
「ああ、エリサさんはしないのかい?」
「ぁ、ぇ、ええ…家族がいる時は毎日していたけど今は余り…」少し戸惑ったような笑顔で答えるエリサを気にもせずルイスは「いただいます!」と一言だけ言うと嬉しそうに葡萄酒を飲み始めた。
隣ではバルサがまだ自然の恵みへ感謝のお祈りを献げている。
最近は二人が来ると毎日こんなやり取りから始まる、そしてその後、二人と話す会話が楽しみにもなっていた。
まずエリサは、何故毎日決まって陽が落ちた頃になると店に来るのかと思い聞いてみた。実際、聞いてみると単純で毎日海辺へ行き夕陽を眺めているらしい。
夕陽がそんなに珍しいものなのか?と不思議に思ったが海に沈む夕陽を見たのは初めてだという。一瞬当たり前の事なのにと思ったが首都バリエでは山から陽が昇り山に陽が沈むと言うのだ、エリサには想像つかないことだったし考えたこともなかった、ラージュに産まれラージュから出たことの無いエリサにとって、太陽は海から昇り海に沈む所しか見たことがなかったからだ。
さらにルイスは店に来ると他の国や町のことをよく話してくれた。
バリエは各国を繋ぐ交通の要であるため異国の文化や人種で溢れているという、町はとても広くラージュの50倍はあると言うし、肌の黒い人間、黒い瞳に黒髪の人間、背丈が2mはあるであろう大男や子供のように小さな身体の大人、身体に穴を開け貴金属を着飾る者達、昼夜問わず外へ出るときは布で顔を多い隠す女性達もいるらしい。
はるか北の国では雪が人の背丈よりも高く降り積ったり、夜空には虹色に輝く光のカーテンがかかるという。
光のカーテンはエリサの祖父から聞いたことがある話と同じで驚いた、エリサの祖父ははるか北の国の出身だと言っていた、若い頃に海を渡りこのラージュにたどり着き住み着いたと聞いている。その祖父から光のカーテンの話は聞いていたが心の何処かで信じていなかった、ルイスの話を聞いて本当なんだと驚き、改めて祖父のことを思い出した。
ルイスが話してくれる事は全てが初めてで、信じられない内容ばかりだった。聞いているととてもワクワクする。話をしていると時間が経つのも忘れてしまうくらいだった。
エリサはいつの間にか陽が落ちる頃合いが待ち遠しくなり、空がオレンジ色に染まり建物の影が店にかかり始めると入り口を気にしてそわそわしているのだ。
最近は毎日が楽しい、自分の中に産まれてきている感情の意味もわからず、初めて感じているこの楽しい気持ちの意味がなんなのか…。
ある朝、いつものように仕入れのため漁港へ行くエリサ、今日も天気は良く海も穏やかだ。髪を後ろで束ね上げ、帽子を被り洗い晒したシャツとズボンに身を包んでいる。しかしその表情はとてもご機嫌で今にも踊りだしそうなくらい明るい笑顔をしている。
その表情につられ単純なカイも一緒に上機嫌になっている、しかしアンネはその笑顔の意味に気が付いているみたいだ。
「エリサちゃん、明日の昼頃から少し時間取れないかしら?」
「明日ですか…」アンネが尋ねるとエリサは不思議に思いながら少し考える。
「今ね、沢山の行商人が来ていて街中に露店を出してるのよ!?ちょっとしたお祭りみたいになっていてとっても楽しいの。それに他国からも行商人が来ているから珍しいものが売ってるのよ。どう?この前のカイのお詫びも兼ねて!」アンネが少女のように目を輝かせ誘ってきた、しかし仕入れた魚を捌いたりソースを用意したりといつも午後からは忙しい、しかしこの誘いも捨てがたい、このような時に出歩かないのも勿体無いとも思っていたところだったので悩んでしまう。
エリサはしばらく考えた後エリックとセヴィにお願いしてみようと考えた、少しずつ仕込みを教えていたので、ある程度はできるはずだ、後は遅くならないように店に戻れば大丈夫だろう。
「そうですね…はい、せっかくの機会ですし行きましょう!」エリサは満面の笑みで答える。そして明日の楽しみが増えて今日はいつも以上に頑張ろうと思えた。
次の日エリックとセヴィに仕込みと開店準備を任せ街の中心部に向かうエリサ。久し振りに中心街へ行くのでワンピースを着ることにした、草色で少し地味だが落ち着いた女性に見えると思って選んだ服だ。
上半身はタイトで身体のラインがでるようになっていて、腰のあたりを紐で締めているため身体が細く見える。今日は髪を束ねていないので歩くたびにブロンドの髪が揺れ、時折吹く初夏の風になびいて心地よい気分だ。
歩いていると街の彼方此方に壊れた建物が目につく、つい最近までは海賊が占拠していたのだから当たり前だ。苦しかった思い出がエリサの頭の中をよぎっていた。
いつまで続くのかわからない恐怖と不安に怯える日々。店を辞めようと考えたこともあった。しかし国王軍が来てからの勢いは凄く、わずか2日でこの港町ラージュを取り戻し、そして今は平和になった。
待ち合わせの時計台が見えてくると街中の賑やかな雰囲気が伝わってくる。屋台も出ているようで美味しそうな良い匂いが何処からともなく流れてくる。
「ごくっ…」思わず生唾を飲むエリサ、仕事柄ついつい食べ物に気持ちが持って行かれてしまう。
誘惑に耐えながらも時計台の近くまで行くとアンネさんの姿が見えたので小走りで急いだ。
「アンネさーん!」大きく手を振りながら駆け寄るとエリサに気が付いたアンネは胸の辺りで小さく手を振ってくれた。
「まぁ、見違えたわエリサちゃん普段とはまるで別人ね〜」にこやかに話すアンネ
「へへ、少しは大人になったんです」恥ずかしそうに笑いながら答えるエリサ
想像以上に街の中心部はお祭り騒ぎになっていた、露店だけでも100は超えているだろう、大道芸人達もいて人だかりが幾つもできていた。
「エリサちゃん、まずどんな様子かぐるっと見て回りましょうか?」
「はい!」
少し進むと楽団が陽気な音楽を奏で、それに合わせて街の人達が楽しそうに踊っている。音楽を聴きながらお酒を楽しんでいる人達も多い。
予想以上の賑わいに、この場所に居るだけでエリサは楽しくなってきた、本当に平和な街が戻ってきたんだと実感できる光景が目の前に広がっている。
しかしどうしても食べ物に興味を惹かれてしまいアンネさんに呆れられながらもまず腹ごしらえをすることにした。
「本当に凄いですね〜、モグモグ、いつまで続くんでしょか?モグモグ」広場のベンチに腰掛けると、いい匂いがしていた鴨の串焼きを食べながらエリサが尋ねた。
「たぶん、あと7日。国王軍が首都へ撤退するまでは続くんじゃないかしら!」
あと7日…そうしたらルイス達も帰ってしまうのか、ふとエリサはそんなことを考えてしまった。
「あ、エリサちゃん、ちょっと向こうに戻っても良いかな?さっき良いものがあったの」急に手を引かれ、何やら嬉しそうに歩き出すアンネ。
「え?あ、ちょっと、まだ串が…」
アンネに連れてこられた露店には沢山の櫛が並べてあった。貝で装飾されたもの、色とりどりの模様が描かれているものなど見ているだけでも楽しい。
「これこれ、さっき良いなって思ったの。ねぇエリサちゃん、どれか1つ選んでくれないかしら?」
眼を輝かせながら商品を眺めるエリサを見てアンネがお願いをした
「えぇ? 私がですか?…」
「そう、エリサちゃんだったらどんなものを選ぶかな?」
唐突なお願いだった。アンネさんが一つ選んで欲しいというので悩んでしまう。
「アンネさんの髪は細くて赤茶色の綺麗な髪をしてますからね〜」しばらく吟味したのち、装飾は無いがシンプルで色艶がよく使いやすそうな櫛を選んだ、これはベッコウというものでできているらしく遥か東の国で作られた珍しいものらしい。
「じゃぁこれをお願いします」
「へ!?…ぇえっ?」
するとアンネが躊躇いもなくそれを買おうとするのでエリサは驚きすぐに止めようとした。しかしそんなことを気にもせずアンネは迷わず買ってしまった。
呆然としているエリサの前でアンネはその櫛を手に取り満足そうにしている。すると今度はその櫛でエリサの髪をとかし始めたのだ。
「うん、良い感じね」
「え?…」
「これはエリサちゃんにプレゼントよ」そう言うとその櫛を手渡し手を優しく握ってきた。
「せっかくこんなにも綺麗な髪をしているんだもの自分が女性だということを忘れちゃダメよ。それにエリサちゃんは私達にとって娘みたいなものなの、どうか受け取って欲しいわ」
驚いて声も出なかった、4年前漁師だった両親を海の事故でなくしてからというもの、ただ毎日を生きることで精一杯だった。そんなエリサを支えてくれたのが両親と親しかったカイさんとアンネさんだ。
8年前まで祖父が経営していた酒場を再開させようと提案してくれたのもアンネさんだ、特にアンネさんは料理を教えてもらった料理の師匠でもある、それだけでも感謝しきれないというのにこんなにも優しくしてくれる。
エリサは渡された櫛とアンネの手を握り返した。何も言葉に出せず泣くのを我慢するだけで精一杯だ。そのまま無言に時が流れる……。
「ぁ、ぁりがとう…ございます……アンネさん…」
今、本当に幸せだ…。エリサは心からそう感じることができていた。
二人の歳は一回り違うくらいなので端から見たら親子というより姉妹だろう、その後もエリサとアンネは仲良く街中を見て回った、見たこのない服や帽子、可愛い人形、宝石がちりばめられている豪華なネックレスや髪飾り、そうかと思うと鍋や食器など日用品も多く売っている、何処の露店にも珍しいものが並んでいて二人はいつまで見ていても飽きなかった。
「あれ?アンネさんじゃないですか?」ふとアンネを呼ぶ声が後ろから聞こえてきたので振り返るとルイスとバルサが声をかけてきたのである。
二人はいつもの町人のような服装でなかった、白いブーツに装飾の施された上着と帽子それに国王軍の紋章の入った手袋、鮮やかな青いマント、腰には剣を下げている、声をかけられなければ気がつかなかっただろう。
その姿にエリサとアンネは口を半開きのまま見入ってしまった。
そんな事は気にしていないようでルイスはいつものように普通に話しかけてきた。
「今日は妹さんと買い物ですか?」ルイスが笑顔でアンネに尋ねる。しかも隣にいるのがエリサだと気がついていないようで返答に困ってしまう。
「え?…いや…この子は……」アンネが困ったようにエリサの方を伺うと何やら複雑な顔をしていた。
何故こんなにも目の前の男に苛立つのだろうか?自分の中の抑えられない気持ちの意味が解らずエリサは睨むようにルイスを見つめると、大きく息を吸って力強く答えた「初めまして!エリサ・エル・アイーダと申します!」
気がついてもらえないことがそんなにも悔しかったのだろうか?
わからない…
でもそんな細かい理屈はどうでも良かった。ただただ目の前のルイスという男に対して無性に腹が立ったことは事実だ。
エリサの声はもっとちゃんと自分を見てくれと自己主張するようでもあった。
「「……………な、なにっーーーー!!」」
少しの間をおいてルイスとバルサは声を上げた。そして同時に一歩後ろに下がり改めてエリサをよく見た。
似ているといえば似ている、背丈は同じくらい、だが料理を作っている時の真剣な表情とはまるで別人だ、しかしどう見ても同一人物には見えない。
「本当にエリサかい?」まだ信じられないようでルイスがもう一度尋ねるとエリサは少しムッとしてルイスの顔を見た。
「いや〜ごめんごめん、今日のエリサさんはとても綺麗なので見間違えてしまいました」慌ててバルサのフォローが入り、なんとか収めようとしてくれている。さらにここぞとばかりにルイスに目配せをした。
「ルイス!ここは一つ、何かお詫びを…」
「……あっ、いや本当にすまない」バルサの視線を理解したルイスは少し慌てながら近くの露店へ走ると暫く悩み、また走って戻ってきた。顔を真っ赤にしたルイスはやや動揺気味で騎士服が似合わないほど人間臭い表情と仕草であった。人にぶつかりそうになったり、小石に躓いたり、さっきの苛立ちも忘れてしまうほど滑稽な姿だ。
戻ってくると彼の手にはネックレスを握られていた。何故か代金を払っていなかったらしく店主が追いかけてきたのでバルサが慌てて払いに行った。
「こ、これを貰ってくれ!君の髪と同じ色のものを選んだ…」ルイスの手にはエリサの髪と同じようなブロンド色をした石が3個つながっている綺麗なものだった。
「これはお詫びをというか…その…お礼だ!」ルイスは視線を少し横に反らしてぶっきらぼうに言った。
「…あ、でも……」
余りにも高価な贈り物なので受け取ることはできなかった、それに料理だって仕事で作っているのだし、ちゃんと代金を頂いている、エリサが不思議そうな顔をすると「いつもの美味い料理を食べさせてもらっているお礼だ」そう言い、ルイスは恥ずかしそうにエリサの前に差し出した。
どうやら、あとこの町に滞在する残り7日間もお願いするという意味も含まれているらしい。
だが、プレゼントなんて貰えないと戸惑っていると後ろからアンネが優しく背中を押してくれた。
「貰っちゃいなさいな」
思わず一歩前へ出たが下を向いたまま赤くなっているエリサ。
「さぁ折角ですから付けて差し上げたらどうかしら?」
アンネはすかさずエリサの髪を後ろに束ね持ちあげると今度は優しい口調で言った。なにやら楽しんでいるようにも感じる。
「いや、それは…」ルイスも顔を赤くして戸惑っていたが今度はバルサに無言で強く背中を押されエリサの目の前に押し出された。
「ぁ、ああ!」ルイスは軽く深呼吸をし、ゆっくりとエリサの首の後ろへ手を伸ばす。
ルイスの上着の袖がエリサの頬に当たるとなんとなくルイスの体温も伝わってきそうな感覚だった。男性の腕がこんなに顔の近くにあるのは生まれて初めてだ、しかも顔も近づいてきて今にもルイスの息づかいが聴こえてきそうだ、エリサの鼓動は高鳴り早くなるのを感じていた。
エリサは恥ずかしいのと嬉しいのとで顔は真っ赤になっている、耳まで赤くして下を向いたまま固まってしまった。
ネックレスをかけてもらいアンネがエリサの髪をおろしてもエリサは下を向いたままだ。
「ふふ、ありがとうございます」少し照れ臭そうにしているルイスをみてアンネはエリサの代わりにお礼をいった。
「あ、ああ、その…まぁ…ほんの気持ちだ…」ルイスも本当に恥ずかしそうだ。後ろではバルサがニヤけている。