エリサの1日
翌日、いつもの様に台車を引きながら漁港の一番端へ向かうエリサ。髪を後ろで束ね上げハンチング帽をかぶり洗い晒したベージュのシャツにズボンを履いている、遠目に見ると華奢な男性のようだ。
今日も初夏の爽やかな風がエリサを包み込むように海から吹いてきている。
「ん〜〜、この潮の香りと波の音!気持ちいい〜〜。………やっと元のラージュが戻ってきたんだなぁ…」ふと立ち止まり海を眺めるエリサ。
「なんだか昨日は慌ただしかったけど…カイさん大丈夫かなぁ?」ふと昨日のカイとルイスのことを思い出すエリサ、カイがタコのようになって床を舐めるように倒れたこと、ルイスが起こそうと頬を叩いていたこと、大きなカイをルイスが軽々と背負ったこと。「……くすっ…」1日経ってしまえばもう笑い話にしかならない。
ただカイがちゃんと漁に出たのか心配しながらもエリサが漁港の一番端まで行くとカイは沢山の魚を用意して待っていてくれていた、今日も大漁だ!。
アンネさんも磯で採ってきた海藻や貝を沢山用意してくれている。
いつもと同じ二人の姿を見てエリサはようやく安心できた。
「おはようございますカイさん、アンネさん!」
「おう嬢ちゃん、昨日はすまなかったなぁ…」カイは照れくさそうに頭をかきながら少し視線を逸らした。恥ずかしいのか猫背になっていてその大きな身体がいつもより小さく見えるところがなんだか可笑しく思える。
「おはようエリサちゃん、昨日は本当にゴメンね、カイのバカが…」アンネさんは昨夜のことをとても気にしているらしく何度も何度も謝っていたが、こうやって漁に出て魚が手に入るのだから何も問題はない。
唯一気になったのがカイさんの顔にいくつかの痣ができていることだ、昨夜ルイスが何度も頬を叩いていたがそれ程強く叩いていなかったはず、だとすると考えられるのはアンネさんだ、いつも穏やかでニコニコしているがやはり気性の荒い漁師の妻…。昨夜ルイス達が送り届けた後の状況が目に浮かぶ。
「何も触れないでおこう…」エリサは苦笑いを浮かべその顔を見ない様にした。
しかもアンネさんは昨日のお詫びという事で魚貝や海藻をいつもより多く譲ってくれた、サービスは嬉しいのだが台車がいつもより重い。
この仕入れが一番重労働でキツイのだ。しかし毎日のことなのでもう慣れている、お陰で意外と筋肉はついてきた、体力には自信があるほうだ。
一旦店に戻り仕入れた魚介類を店に置くと今度は漁港とは反対の方向へと向かう、ここには小さな市場があり野菜や果物、調味料に干し肉などが売られている、もちろん魚なども売っているが今は大きな商人達が根こそぎ買っていってしまうらしくほとんど置いていない、どうやら国中からラージュの魚が欲しいと注文が殺到しているらしい、しかも漁師のカイさんから買う値段の2倍はするのに。
市場での買い物をすませると初夏の風が台車を引くエリサの頬を撫でるように吹き抜けていく。
「気持ちいい…」この時期になると少し汗ばむような陽気だ。時折、海から吹き抜けていく潮の香りがするこの風がとても有難い。
すれ違う人達は皆顔馴染みで、たまに台車を押してくれる人もいる。
いつも港を散歩をしている年配の女性はすれ違うたびに「頑張って」と声を掛けてくれる。それがまた嬉しかったりもする。
仕入れが終わり店に 戻ると太陽が一番高く昇り12時の鐘がなる頃だ。
いつも店に着くとまず軽い食事をする、エリサは朝起きるのが遅いのでこれが1日で最初の食事となる、お腹いっぱいに食べてしまうとこの後の味見が辛くなってしまうのであまり食べないように気をつけている。
毎日ではないが以前は町の東側に森があるのでそこまでハーブや野草を取りに行っていた、春には山菜が採れ、秋になるとキノコや木の実がよく採れるのだ。でも今はエリックとセヴィが交代で採りに行ってくれている、お陰でその分仕込みに集中できるし休憩も出来るようになった。もう二人共この酒場には欠かせない人材といえる。
食事の後は一番奥のテーブル席に座り誰もいなく広い店内を眺めながら昨夜来てくれたお客様の笑顔や楽しそうな笑い声を思い出しながら一息つく、そんな事がエリサにとって毎日のささやかな楽しみになっている。
「今日はどんな人達が来てくれるかな?」自然と一人笑顔になり店の開店が待ち遠しくなる。
少し休むとエリサの楽しみの一つ仕込みの時間が始まる。
まず今朝カイが採ってきた魚をすぐ料理できるように捌いていく、貝は塩水に漬けて砂抜きをする、そのあと野菜を切っておきジャガイモなど硬い野菜は一度茹でておいておくのだ、最後に捌いた魚のアラや野菜の切れ端などで魚の出汁を取る。
この出し汁の味で今日の店の味がほとんど決まる、エリサのとって一番慎重になるところであり、楽しいところでもある。
仕込みが終わる頃になるとエリックとセヴィがやってきて店内をくまなく掃除してくれる、最近は仕込みが終わっていないときは手伝ってもらえるくらい調理も覚えてきている頼もしい相棒達だ。
二人が来てくれると少し余裕ができるのでここで少し休憩を取ることが多い、大抵は店裏に置いてある空の酒樽に腰掛けぼーっと空を見上げて波の音を聞いているだけだがこれがまた心地良い。
夕暮れ時になると街中がオレンジ色に染まり店の中にも夕陽が差し込んできてとても明るくなる。エリサは日が沈むまでのこの短い時間がとても好きだった。昼間とは違い暖かく柔らかな雰囲気、どこか懐かしい気持ちにさせてくれる。そして少しずつ『エリサの酒場』には人が集まり賑わい始める時間でもある。
開店早々カウンターにはカイとアンネが来ておりエリサの料理とお酒を楽しんでいた。今日のアンネさんは監視役といったところだろう、おかげでエリサも安心して仕事に集中できる。
海に日が沈みオレンジ色の空が少しずつ消えていく頃、約束通りルイスとバルサも店にやってきた。
ルイスはエリサに向かって胸のあたりで軽く手を振る、するとその手前のカウンターにカイとアンネがいることに気がつき近寄っていった。
「お、漁師のおっさん無事に漁に出れたかい?…ん?なんだこの痣だらけな顔は」ルイスが近寄り話かける、痣のことを聞かれてカイは戸惑うが、昨夜は酔っ払っていたので二人のことを覚えていないようで不思議そうな顔をした。
「昨夜はうちのバカ亭主がご迷惑をおかけしまして、ありがとうございます」アンネが立ち上がり深々とお辞儀をする。
そのアンネを見てカイが状況を理解したらしく改めてお礼を言う「あ、あんた達か?俺っちを運んでくれたってのは⁉︎…いや、本当にすまなかった」カイはかなり恥ずかしそうに頭を掻きながら礼をする。
「俺たちはまたこの店で美味い料理を食べたかっただけだ、気にしないでくれ」ルイスはそう言うと隣のカウンターに座った。
「おかげで今日は大漁だったぜ!期待してくれ」カイが葡萄酒を飲みながら話す
「本当か?」『大漁』と言う言葉を聞いてルイスとバルサが同時に眼を輝かせカイの方に身を乗り出した。料理のことになると本当に子供のようだ。
二人揃って同時に乗り出してきたためカイとアンネがビックリしてお酒をこぼしそうになる。
「くすっ…」昨日と同じような二人の反応にエリサは奥で笑っていた。
早速何を食べようか壁の黒板に書かれているメニューを見て悩む二人。
「昨日食べていない料理を出しましょうか?」そこにエリサが出てきて二人に話しかけてきた。
「頼む!!」二人は振り返り即答した、まるで双子の兄弟のように息が合っている。
「はい、じゃぁまずはこれね!」そう言ってエリサは二人に葡萄酒を出した。
「お、ありがとう!」ルイスが葡萄酒に手を伸ばしたときバルサは何かを呟いている。
「おい、ここではいいだろう?」ルイスが呆れたように言った。
「いえ、これも大地の恵み、食事の前にはまず祈りを!です」バルサはルイスを諭すかのように論じた。
「はぁ相変わらず堅いなぁ。いいか!! 酒は注いでくれた人、料理は作ってくれた人に感謝と礼を告げるものだ。その方がお互いに気持ち良くなるだろう!」ルイスはそう言うと改めてエリサに礼を言い葡萄酒に口をつけた。
「ルイス…もう少し信仰心を持ってくれよ…」バルサは残念そうにうな垂れながら葡萄酒に手を伸ばした。
「……じゃぁ料理を作ってきますね」エリサはそんなことを言うルイスを思わず見てしまったが、何やら嬉しそうに奥の厨房へと向かった。
まだ昨日初めて会ったばかりだというのにエリサはとても親近感を感じる会話だった、二人の噓偽りのない素直な態度、何より自分の料理をとても美味しそうに食べてくれる。まぁ少し変わっていると言えば変わっているのだが…。
そして、いつの間にか自然と二人に視線が向くようになっていた。
アンネはその視線に気が付き早々とカイを連れて帰る事にした。
「明日も美味しいお魚を採って来させますのでよろしくお願いしますね」アンネはルイスとバルサに挨拶をして、まだ呑み足りそうなカイの襟を掴んで外へ引きずり出して行った。
今日出てきたのは「舌ヒラメの唐揚げ」と「具沢山の煮込料理」だ。煮込み料理は舌ヒラメ、エビ、ムール貝、あさりなどの魚貝類とジャガイモや玉ねぎなどの野菜を白ワインとトマトで煮込んだもので、これはエリサの店の看板メニューだ。魚貝の出汁がスープに溶け出し最高のソースになる、これをパンに浸して食べるのが絶品だ。二人はあっという間に平らげ同じ物とさらにスズキのカルパッチョを追加した。
二人がラージュに来て衝撃を受けたのは海魚を生で食べたことだ、首都バリエにいたら絶対に食べることはできない。今のうちに何度も食べておこう、そう思っていたのだ。
酒も進み二人は椅子にもたれ掛かり満足そうに天井を見上げている。
「うまかったなぁバルサ」
「そうですね〜」
聞こえてくる二人の会話はうまかったということばかり、さらに明日は何を食べようか話していることも聞こえてきた。
今日もエリサの店は大繁盛だった、せっかく二人がカウンターに座っていたので少し話をしたかったが忙しくてそれどころではない、陽が落ちてからは注文がひっきりなしに入ってくるのだ。仕入れた魚も少なくなりだんだん作れる料理が無くなってきた頃、店はようやく落ち着きはじめていた。
………………
ふとカウンターに眼を向けると誰もいなくなっていた。
「そっか、気がつかないうちに帰ったんだ…」
ふと、少し残念に思った自分に気が付いたが別に良いじゃないかと気をとり直した。
「今日は無事に終わりそうだ」
満足気に頰を緩め店内を見回すと、そろそろ店じまいにすることにした。