3日目の午後
教会での仕事を終え、昼には家に戻ったエリサは昨日のように午後から庭先でハーブの手入れをしている。この後は昨日の続きでアンネさんにディベスの街を案内してもらうことになっていて、そのまま一緒に市場へ行き夕食の材料の買い出しだ。
今朝は寝坊してしまった…
最悪だ…
それより明日は起きれるのだろうか?長年の習慣?いや、あの枕が最高すぎるのだ…
今夜は枕なしで寝るか…いやあの良い香りのする枕を使わないなんてもったいない!
それは絶対に譲れない!
どうやっておきる?
「う〜〜、起きる自信がない…」ハーブの周りにある雑草を抜きながら落ち込むエリサ。
「とりあえず今夜は早く寝よう…それしか思いつかない……はぁ…」小さく吐息を漏らすものの、頭では今夜の献立も悩んでいる。カルラ叔母さんの家に厄介になってから初めて作る料理なのだ、下手なものは作れない。
しかもアンネさんが「エリサちゃんの料理は最高に美味しいのよ〜」なんてハードルを上げるものだから困ったものだ…
……しかしハーブの手入れというものはとても気持ちが良い。様々な香りに包まれながらする土いじりはエリサにとって新鮮だった、伸びすぎた枝をハサミで切るとたちまちそのハーブの香りが一面に漂う、雑草を抜くために葉を動かすと、また香りが漂う、この香りに包まれるのがとっても楽しいのだ。
しばらくするとアンネさんに呼ばれ昨日の続きでディベスの案内に連れて行ってもらう。
「今日はヘルマン様の屋敷の方へ行ってみましょうか、あそこは丘の上にあるからとっても景色が綺麗なのよ。あそこから見る夕陽が最高なの」
今日もアンネさんは嬉しそうに歩き出した、服は昨日のエリサが着て落ち着かなかった幾重にも重なったワサワサするスカートと締め付けられる感じのするボディスを着ている、エリサとは違い当たり前のように着こなしているので少し悔しい気になる。
でも……
心配そうにアンネを見るエリサ。
どうやら昨日聞かされたラージュの情勢の事は引きずっていないようでエリサは安心した。
「アンネさ〜ん、この坂はどこまで…はぁ…続くんですかぁ〜?」長い坂道にへこたれそうになるエリサを横目にアンネは涼しい顔で歩いていく、しかもあの落ち着かない服で…
「ん〜、まだ半分くらいかしら!」
「うぇ〜?まだ半分ですかぁ…」
「ふふ、もう少しよ!」
今日は昼過ぎになるとかなり陽射しが強く、焼けるように暑い。しかもこのディベスは白い外壁が多いので歩いているとやたら眩しい、今は髪を下ろしているので首のあたりにじんわりと汗が滲むのがわかる。時折吹く強い風が唯一の救いだ。
2人がヘルマン様の屋敷の前に着いた時には流石のアンネも少し息を切らし、額に汗が滲んでいた。
「はぁ…体力には自信があったんですけど、この暑さと坂道はちょっときつかったです…」とエリサ。
「ここが丘の一番上よ、ここはディベスの街が一望できるの」アンネがそう言った先を見下ろすと街全体が見ることができ、一番高い建物の教会だけが目立っている。その先にはどこまでも続く青い海が広がっていて太陽の光が反射してキラキラと輝いていた、丘の上は風が吹き止むことがなく時折エリサの身体を突き抜けるように強く吹き抜けていく。
「ぁ………」言葉にならないくらい綺麗だった、ここから眺めるディベスの街も海も空も全てがラージュとは違って見えた。海や空は同じはずなのになぜだろう、エリサは不思議に思ったがそれよりもこの眺めと風がとても気持ち良かった。
その時アンネが遠くの海に船があることに気がつく「あら?、あそこに船が…」それはエリサにもハッキリと見えた。そして、それがすぐにおかしいと解る。この時間は漁に出る船は無いはずだそもそもあの船はかなり大きそうに見える。明らかに漁船ではない。
その船はディベスの港にまっすぐ向かっているように見え、2人は一瞬、海賊かと思った。
その船が港に近づきその姿がハッキリと確認できると海賊船ではないことがわかる、掲げている旗はディベスの旗だ。
「たぶん…ラージュから戻って来たのかしら?」
「え? でも…一隻だけしか?」
2人はラージュの事を片時も忘れたことなどなかった、それに昨日聞いた話にはヘルマン様の事は出てこなかった。ということはあれから状況は変わっているはずだ。
早く知りたい!
「アンネさん、港に行きましょう!」
「ええ、そうね」
2人は登ってきた丘を急いで下った。何があったのか知りたい、今は暑さも汗も気にならなかった。
早く港に!
早くラージュの事を知りたい。
ルイスのことを知りたい。
歩く速さはだんだんと早くなり港に近づくにつれいつの間にか駆け足になっていった。
「はぁはぁ…」港に着いた時には2人共息を切らして、身体中から汗が噴き出していた。
船が帰ってきたことを知り、港には人が集まってきている。
人混みの後ろからかろうじて見える船からは、戻ってきた兵士たちが次々と降りてきている。しかし誰もどうなったのか話す気配はない。
気がかりなのはそこにはヘルマン様の姿が見えないことだ。
「アンネさんどうしましょう…」
「そうねぇ、何か話してくれると助かるんだけど…」
どうしていいかわからず2人は様子を見ている。最後に船から指揮官らしき人物が降りてきた、その男は集まった住民の方を向き大きな声で話した「ラージュの反乱はヘルマン様のお力により無事におさまった、皆は安心して過ごされるがいい!」そう言うと先に降りた兵の方へ向かっていった。
「おさまったって、どっちが勝ったんでしょう…?」
「わからないわ、勝ち負けではなく和解したということも考えられるわ…」
あれだけの説明ではわからない、他の人達もざわついている。
皆がざわついているせいか兵士たちがこちらを気にしている。
「聞きに行きましょう!」アンネが人混みをかき分け急に歩き始めた。
「え?ウソ?ちょっとアンネさん!」エリサは慌てて追いかけた。
歩き始めたアンネを見て後ろの方が、一段とざわついているのがわかる、しかも兵士たちがこちらを見ている。エリサは生きた心地がしない。
アンネが指揮官と思われる男の近くに行くと兵士たちが警戒し始めた、するとアンネは立ち止まり聞こえるように少し大きな声で話し始めた。エリサはアンネの影に隠れるように後ろについている。
「お疲れのところ失礼いたします、私達はラージュから避難してきた者です、どうかラージュのことを教えて頂けないでしょうか」そう言うとそのまま頭を下げたのでエリサも慌てて頭を下げた。
「ほう、あなた方は避難してきた方々ですな」指揮官らしき男はゆっくりと2人に近づいてきた。後ろには2人の護衛がついていて威圧感が半端ない。
「はい、昨日商人の男から街が、港が燃えていたと聞かされています、その後どうなったのかを教えて頂けないでしょうか」アンネは頭を下げたままハッキリとした口調でお願いした。
「まず頭を上げなさい」男は優しい口調でそういった。
2人は恐る恐る頭を上げると、男は神妙な趣で2人を見ている「街と港が燃えたことは聞いたのですな?」
「はい、ただどれくらいの規模で燃えたのかはわかりません」
「なるほど、いずれ知ることになるのだ隠すつもりは無い、ただ…心の準備はできているかい?」
心の準備と言われて嫌な予感しかしなかった、アンネがエリサの目を見て頷いた、エリサもすぐに決心し頷いて返した。
「はい大丈夫です、どうか、お願いします」2人は改めて頭を下げた。
「では、まず幸いにも住民の死亡者は0だ、これは奇跡としか言いようがない。しかし港は半分以上が全焼、他にも崩れたり壊された建物も多くほとんど使い物にならんだろう、港は壊滅状態だ。次に街の中心街、時計台から北側にかけてほぼ全焼した、他にも街のあちこちでクラウスが火をはなったため燃えてしまったところが多い。最終的にはクラウスは反逆の罪で捕らえられ今は牢に入れられている。
後はルイス殿下が指名された新しい領主様とヘルマン様が今後について話し合いをしているところだ、私たちはそこまでしか知らない、そこでディベスへ戻るよう命じられたのだ」
「よ、よかった…」エリサは思わず声に出てしまった。
よかった、という言葉に男は不思議な顔をした「街が燃えてよかったのか?」そう聞かれるとエリサは慌てて説明した「あ、いえ、すいません、ルイス殿下がご無事で、それが一番嬉しいのです」
指揮官の男はさらに不思議そうな顔をしていたが町娘が王子様に憧れているだけだろうと思い気にしなかった。
「数日のうちにヘルマン様もディベスに戻る、その頃にはラージュの再興について何か決まっておろう」そう言うと、兵士達の集まっている持ち場に戻っていった。
ラージュの町が燃えた、港が燃えた、壊滅状態、昨日の商人が言っていた事は本当だった。どこか半信半疑なところがあった、もしかしたら勘違いで大袈裟に言っているだけなんじゃないかとも思った。
でも…本当だった…。
いや想像していたよりひどい状態だ。
エリサとアンネは夕食の買い出しのために市場へ向かっていたがアンネの足取りは重く、無口になっていた。
それでも…ルイスが生きている、良かった!
しかしそれは嬉しい気持ちと、どこかもどかしい感情の入り混じった胸が締め付けられるような思いだった。
エリサの頭の中はルイスが無事だということだけでいっぱいだ、食材を買いに来てもどこか上の空で材料を選んでいる。
アンネはラージュの惨状を聞かされて少し落ち込んでいる。
ルイスが無事だ。その報告はエリサの胸の奥にある熱い思いを刺激している。
弓で射られた腕の傷は良くなっただろうか?
今回の争いで他にも怪我をしていないだろうか?
………
あいたい
いや、会ってどうする?
私が顔を出したところで迷惑をかけるだけだ、それに私はディベスにいるのだ。この無事だったという事実だけで十分なはずだ。
そう願ったのに…
私は欲張りなのかな…
わたし、何がしたいんだろう…
とりあえず食材を買い、家に戻ったがエリサはどこか上の空で料理を作っている。
出来上がったのは野菜たっぷりでサラダ風にしたスズキのカルパッチョとスズキのグリル、それと昨日教会で作った貝のスープだ。
カルパッチョには庭にたくさんあるハーブの中からセルフィーユとパセリ、エストラゴンを選んだ、スズキのグリルにはローズマリーをタップリ使いタイムとディルをほんの少しだけ香りのアクセントに使ってみた。
庭にハーブが沢山あるというのはとても嬉しい、でも何故だろう、今夜作った料理はどれも味気なく感じるのはおかしい…。
しかし、カルラ叔母さんとカイさんは大絶賛してくれた。
「わたしのハーブ達がこんなに美味しい料理になるなんて嬉しいねぇ」とキレイに残さず食べてくれた。すでにエリサの次の料理当番の日を楽しみにしている。
カイさんは港で聞いた話しをそのまま伝えたら「なぁになるようにしかならねぇ、燃えちまったもんはしょうがねぇさ!」と相変わらず陽気な性格なままだ。
その陽気な性格のおかげでアンネさんもいつも通りニコニコと美味しそうに食べている。
そう、私もわかっている、燃えてしまったものはしょうがない、そして今はディベスにいてここから新しく始めるしか道はないのだ。
それでも心の奥にあるモヤモヤした感情は抑えきれない、これも自分でわかっている。
港でルイスが無事だとわかってから会いたくて仕方ないのだ、思い出すのは酒場で美味しそうに料理を食べていた姿、楽しそうに異国の話しをしてくれたその笑顔、そして街でネックレスを買ってくれた時のこと…
思い出すたびに胸が苦しくて切なくてどうしようもない…
一目だけでも、遠くからでもいい、無事なその姿を見てみたい…
食事が終わり1人で洗い物をしているとついつい余計なことを考えてしまう、気がつくとエリサの目に涙が流れている。
「あ、あれ? おかしいな…」
バレないように急いで涙を拭い、早く寝ることに決めた。
「あ、あのアンネさん、明日の朝、起きれていなかったら起こしてもらっても良いですか?」
とりあえず明日の朝も早い、しかもこんなに気持ちではちゃんと起きれるのか心配なので申し訳なさそうにアンネにお願いをした。
アンネは「ええ、良いわよ」と笑顔で受けてくれたのでひとまず安心だ。
「なぁ、嬢ちゃんちょっと元気無いんじゃないか?」カイが心配そうに言う。
「そうねぇ、やっぱりラージュのことがショックだったのかしら…でも何か違う気がしするのよね…」アンネも心配そうにエリサの後ろ姿を見ていた。