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TE-KI

作者: 永井誠一

邪魔な人間はいるのだ、と私は初めて理解した。

ビニール傘にぼたぼた乱れ打つ雨音に、私は一人包まれていた。アスファルトを跳ねる大粒の雨がスーツの裾を濡らすがどうでもいい。私はターゲットを待っている。あの男。池澤。い・け・ざ・わ。その名の響きに、私の体は恐怖、嫌悪感、それから、地の底へ深く続く憎しみで震える。

(大したものだ)

私という人間を獣に変えてしまうあの男は、ある意味で大したものだと、私は頭のどこかで思った。それは己を客観視する冷静な視線であったに違いない。が、彼にとっての不幸はその視線が私のみぞおちに溜まった恨みと、ビニール傘の内側で増幅される雨音に一瞬でかき消されたことだっただろう。

(池澤・・・お前の終わりだ)

そう思った時、私の目はきっと獣のそれになっていたに違いない。だが、私は、それで構わない、そう思った。

来る。もう来る。根拠など無いが私は確信した。獣の感だろう。ガラスドアが、私と池澤の勤務先のビルのガラスドアが、開かれた。池澤だ。

濃紺のスーツ。小柄で少し猫背の男。開かれる黒の安物の傘。私の心は、踊った。奴だ。池澤だ。標的だ。間違いなく、私の心は、踊った。・・・始まる。

彼は、いつもの駐車場に向かう方向に、いつものように静かに歩きだした。

(あの歩き方)

ちっ。私は普段はしたことがない舌打ちをして歩きだした。

(あの歩き方)

みぞおちに沸き立つ憎しみが腹の中で暴れていた。そして、奇妙なことに額の奥、私の体を律する頭脳は凍りつくように冷えきっていた。その冷えた頭脳が雨の闇の向こうの一つの動体を捉えて逃さなかった。

奴が進む。15メートル後ろから私も進む。奴が駐車場に向かって進む。私も進む。15メートル後ろを進む。奴から目を離すことは無い。もうすぐ、始まる。

会社が契約している立体駐車場まで二つ信号がある。そのいずれかが、現場になる。どちらかで必ずひっかかるようになっている。一つ目か二つ目か。一つ目も二つ目も幹線道路が走っていて、閑散とした人気とは逆に車通りが激しい。そこが、現場になる。

傘と 濡れたアスファルトの間、その闇の向こうに、一つ目の信号が見えた。逃さない。奴の姿を、私は逃さない。歩幅を広げ、私はあの男との間隔を縮める。あの背中。あの背中。煮えくり返るみぞおち。あの背中。ざまあみろ。お前が悪い。お前が悪いのだ。消えていなくなるのだ。そうなるのだ。お前はそうなるのだ。お前が悪い。私はその背中を、憎しんだ。あの背中が無くなれば、私はまた、戻れる。私に戻れる。そうでなければ、私は戻れない。私は奴と一緒には居られない。だから、それしかない。私に何の落ち度があろうか。何も無い。何も無いのだ。あの男の部下になった運命を呪っても意味は無い。私はどこにも行けない。行けないのだ。いや、行かなくてもいい。どこにも行く必要が、私には無い。出て行くのは奴だ。奴こそ出て行くべきなのだ。それで平和になる。全てうまくいく。私だけじゃない。きっと、みんなが望んでいる。望んでいるのだ。あの男は、いない方がいい。いなくなるべきなのだ。そして、本当にあの男は、あの背中はいなくなる。そして、その全ての責任はお前にあるのだ。俺は、執行する。

一つ目の信号はスルーだ。青だ。ということは・・二つ目だ。この二つの信号の関係はそうなのだ。そうか、次か。私はその男を凝視しつつ青信号ぎりぎりに渡り、追う。

人通りは無い。すれ違う人間もいなければ、私と彼を追い越す人間もいない。私はただただビニール傘に乱れ打つ雨音に包まれひたひた足を進める。暗闇に激しい雨音が重なる。しかし、私には平和な静寂も感じられた。この世に私とあの男。二人の間には平和な静寂があった。誰も入り込めない、静かで平和な時間だった。この時間、そして、これから起こること。それは神だけが目撃し、神だけが理解するはずだった。当事者はこの二人。もう、それで充分だ。

二つ目の信号が見えた。ひとつ、深く息を吸って、吐いた。ターゲットが、歩速を緩めた。信号の青が点滅したのだ。青の点滅で慌てて横断歩道を駆け抜ける、といようなことをあの男はしない。私は知っている。

ターゲットの足が止まりかけた。その時、街灯の僅かな光で池澤の安物の黒の革靴の甲が光った。ベルファイアの助手席のマットを、妻と子供たちのために買ったベルファイアの助手席の真新しいマットをどろで汚した革靴だ。少しばかり先輩だからといって、生意気にも、年上で貴様なんかよりはるかに頭のできがいいこの俺のベルファイアの助手席で、生意気にも足を組んだせいで助手席側のドアにもコンソールボックスにもどろを付けた革靴だ。その革靴もろとも粉々にしてやる。粉々にしてやる。私は突き進んだ。カメラのズームのように池澤が近づいてくる。池澤・・。私の歩調は冷静で確実だ。静かに、狂うことなく、その時が近づいた。乗用車。乗用車。ダンプ。軽自動車。ダンプ。右へ左へ激しく行き交う鉄の塊。行き交え、行き交え。

横断歩道の手前で、 池澤が両足を広げ気味に、つま先を外側に向けて立っていた。その姿が目に入った。お前は、小さいくせに、弱いくせに、年下のくせに、俺よりも頭のできが悪いくせに、そんなところで、俺の前で、この俺の前で、でかい態度してんじゃねえ!

私は、ぽーん、と自分のビニール傘を後ろに放り、奴の傘の下から覗く、そのの華奢な腰部を、傘を放り空いた両手の平で、腰を入れ、体重を乗せ、力いっぱい押し放った。その男の腰の体温が手のひらに残った。その人間は振り返ることも声を出すこともなくひょいと前に飛んでいき、疾走する数個の鉄の塊の中に、吸い込まれていった。



罪は罪を作る。そして、敵は敵を作る。

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