さあ泣け! 泣いてルビーの涙を流すんだ!
次の日、学校から帰ってきた美桜はすぐに机に向かった。
宿題のない今日は、エアブラシのテスト運転にもってこいだ。
「おきなさい、私のカワイイ、エアブラシや」
美桜はエアブラシセットを初めて開けてみた。ずいぶん前に買ったっきり、押入れの中にあったものだ。
ミヤタ250II エアーブラシセット 3500円
美桜は説明書片手に、エアブラシの使用法をチェックした。
透明のねじ口瓶の上に、プラスチック製のペンのようなものが付いている。そのペン先に当たるように、瓶から伸びたチューブが繋がっている。
それだけの簡単な構造だったが、美桜は首をひねることになった。
「このペン先からエアが出る……と、吸い上げたペンキを霧にするんだろうけど……?」
ペン先以外からはエアーが出る構造になっていない。
つまり、塗料の入った瓶には、なんの動力もついてないのだ。
「って、なんで塗料が上がってくるのかしら?」
美桜はコップに入れたストローを想像した。
果たして、水はストローを逆上るだろうか。
可能性を探るべく、美桜は知ってる限りの言葉を思い出した。
「毛細管現象ってやつ?」
細いチューブに水が入り込むのかもしれない。美桜はエアブラシの瓶に水を入れてみた。
「しかし、なにもおきなかった」
チューブに入った水は、水面と同じ高さのまま、動き出す気配はない。
「大気圧で吸うのかな?」
美桜はもう一度、瓶の口を締め直してみたが、やはり結果は変わらない。
空気漏れを疑ったのだが、コップを密閉してもストローから水が溢れることはない。
誰かがストローを吸うしかないのだ。
「レバー一回転?」
意味が分からないまま、美桜はエアブラシとエア缶を繋ぐことにした。
エアギュレーターを缶に取り付けるとき、プシュッと空気の漏れる音がした。
美桜は、これが消耗品であることを再認識した。
恐る恐るエアブラシのボタンを押すと、先から空気が飛び出した。
「それを使うだなんて、とんでもない」
エア残量を惜しんだ美桜は、すぐにボタンから手を離した。
彼女はラスボス前にエリクサーを五十個ぐらい溜め込んでいるタイプだった。
「ん? 出てこない?」
美桜は机の上をさすってみたが、どこも濡れていない。出てきたのは空気だけだった。
「水上がってきてないし、そりゃそうよね……」
瓶に入った水はそのまま。
困惑した美桜は、エアブラシを傾けたり、叩いたりしてみた。
「さあ泣け! 泣いてルビーの涙を流すんだ!」
そのかいなく、水がチューブを登ってくることはなかった。
長い時間をかけた末、美桜が出した結論は以下の通り。
「あなたって、最低の不良品ね!」
エアブラシはゴミ箱へ投げ入れられた。昔買ったものなので、返品するわけにもいかない。
悔しくないわけではないが、美桜は次の手に頭を切り替えた。
「役たたず、ここに眠る」
しかし、捨てられたエアブラシは不良品ではなかった。
瓶の塗料を吸い上げるのは、エア缶から出てくる空気だ。
塗料ノズルに吹きつけられた空気が、塗料を吸い出し、塗料を霧に変える。
そういった簡易的な仕組みなのだ。
美桜がそれに気づかなかった理由としては三つ。
エアノズルと塗料ノズルがズレていると、空気圧が足りずに塗料は吸い上げられないことが一つ。
次に空気を出してもすぐには塗料は出てこないこと。
塗料を吸い上げるのにエアを使い、塗料を吹き付けるのにもエアを使う。
美桜がもう少しボタンを押していれば、早とちりすることもなかったかもしれない。
最後に、説明書にはこの仕組みに関する記述が一切ない。
簡易エアブラシのパッケージには、初心者向けを連想させる言葉が並んではいる。が、その構造には初心者殺しになるポイントが散見される。
結論として、簡易エアブラシとは構造が簡易であるという意味に過ぎない。
使い方は決して簡易ではない。
むしろ難しい。
そのことを美桜が知るのは、ずっと後になってからのことだった。
※ ※ ※
机の上を片付けた美桜は、パソコンに電源を入れた。
簡易エアブラシは使い物にならなかったが、ここで立ち止まる美桜ではない。
「筆は難しいかな?」
筆でグラデーション塗装ができるかどうか、今の美桜には判断がつかなかった。
それに、せっかく部屋を汚す覚悟を決めたのに、今更エアブラシを諦めることはできなかった。
さっそく通販サイトをチェックした美桜だったが、早くも頭を抱えた。
「残念だが、ゴールドが足りないようだ」
エアブラシとコンプレッサーのセットで4万円ほど。
最新ゲームハードも買ってしまった美桜には、とても捻出できる額ではない。
そこでネットオークションで中古品を探すことを思いついた。
「殺してでも……じゃない。 ゆずってくれ、頼む!」
美桜はネットオークションを利用したことがなかったが、個人売買なら安く上がるかもしれない。
しかし、検索結果は美桜の想像とは違った。
「新品ばかりじゃん」
美桜の想像とは違い、ネットオークションに出品されているのは海外製品ばかりだった。
ド派手な広告が並ぶページレイアウトにウンザリしながら、美桜は商品情報をクリックした。
「うわ、安っ! これ大丈夫かしら?」
5千円前後から、コンプレッサー付きの商品が並んでいる。
あまりの値段の差に美桜は、疑いの目を向けた。
出品者情報をクリックすると、数多くの取引実績のある業者ばかりだった。オークション未経験の美桜は少し安心した。
「でも、今度はちゃんと動くかな?」
ニッパーに続き、エアブラシでも安物を買って失敗。向こう見ずの美桜といえど、少しは躊躇してしまう。
しかし、美桜のお小遣いは残り少ない。
「分の悪い賭けは嫌いじゃない」
そう自分に言い聞かせ、購入ボタンを押すしかなかった。
それでも最安値を買う勇気は出ず 二番目に安いセット商品を選ぶことにした。
※ ※ ※
数日後、美桜の部屋に荷物が届いた。
ズシリと重たい手応えが頼もしい。
「ねんがんのコンプレッサーを手に入れたぞ!」
これからはエア缶の残量を気にすることはない。使い放題である。
さっそく開けてみた美桜だったが、少し不満そうに人差し指をくわえた。
気に入らなかったのは、ダンボールのデザインだ。原色むき出しで、どことなく安物っぽい。
そしてコンプレッサー自体も、外国製らしい真っ黄色だった。
「そ、そう? 関係ないね」
しばし絶句した美桜だが、デザインのことは割り切った。
気を取り直し、コンプレッサーに電源を入れてみる。
「おはようございます。塗装行動を開始します」
コンプレッサーはうるさいとは聞いていたが、特に不満は感じなかった。
「きっと机に乗らないぐらい大きい奴のことね」
そこまでプロ仕様でなくても構わない。
どちらかというと、美桜が気にしていたのは、エアブラシの方だ。
透明のケースに入ったエアブラシには、上にカップがついていた。
「もうカップが下にあるのは買わない」
重力で塗料が降りてくる仕組みである。
これなら塗料が出ない心配はなさそうだ。
銀色にキラっと光るカップに、笑みを浮かべた美桜の顔が縦長に映った。
それに気をよくした美桜は、ケースの表記を確認した。
「ダブルアクション……よし、間違いない」
ボタン一つでエア量と塗料量の両方を操作するダブルアクション。
塗料量は最初に設定し、ボタン操作はエア量の調整のみを行うシングルアクション。
エアブラシにはこの二種類があり、それぞれ機能性や操作性に差がある。
美桜が選んだのは、機能性の高いダブルアクションモデルだ。
「もう、初心者向けとか、オートガードとか選ぶもんか」
今までの失敗から、美桜はパッケージを信じる心を失いつつあった。
「とりあえず、トレーニングモードでコマンド確認よ!」
美桜はエアブラシをコンプレッサーにつないだ。
ボタンを押すとエアーが吹き出し、引っ張るとノズル先の針が引っ込んだ。
「よし、多分大丈夫」
動作に問題はない。
続いて美桜は、カップに水を注いだ。
「お、お~。出る出る出る! ついに出る!」
美桜がボタンを引くと、ノズルから水が吹き出した。
それだけのことだったが、美桜ははしゃいだ声を上げた。
注文してから届くまで、ずっと心配していたのだから仕方がない。
そのままのテンションで美桜はテスト運転を続けた。
「押す…と、空気が出る」
彼女が持ったティッシュがたなびいた。
ボタンを緩めると、風は弱まる。
「引くと、水が出る」
そのままボタンを引いてやると、風に霧が混ざった。
引く強弱で出てくる水の量も変わった。
面白くなってきた美桜は、絵でも描いてみたくなってきた。
「新聞なら描けるかな」
白いティッシュでは、水で描いたものは見えづらい。美桜は新聞紙をもらってこようと立ち上がろうとした。
「ややっ? 置き場がない……」
エアブラシを手にした美桜は、スタンドがないことに気づいた。
このまま机に置けば、カップに入った水がこぼれてしまう。
「新手のお買い物をしなくてはッ!」
美桜の買い物リストに、エアブラシのスタンドが追加された。
エアブラシが作動したことで、塗料を買うことをためらう必要はなくなった。
「あー、お買い物、お買い物! 楽しみになってきた!」
美桜はエアブラシを手にしたまま立ち上がった。
浮き立つ表情が抑えられない。
今のテンションの前には、貯金の切り崩しなど、些細な問題に過ぎなかった。
模型をはじめる上で、誰もがビビってしまうエアブラシの購入についてのお話です。まあ、こんなのは動けばいんです。そう、動いれくれればですけど。