02-地下の邂逅Ⅰ
………カツン………カツン………カツン
隙間風が入り込む地下牢の一つで薄い布を巻きつけ身を丸めてできる限りの暖をとりながら部屋の隅でうつらうつらと眠っていた女は、ふと静寂の中、足音が段々と近付いて来るのを聞き、目を覚ました。
………カツン……カツン……カツン
近づく足音を聞きながら女は、これまでのことをぼんやりと思った。
女は小さな村の普通の村娘だった。一年ほど前のある日、遠駆けをしていた公爵の気まぐれで女は攫われてきたのだ。今の乱れきったこの国では貴族に逆らうことは死を意味し、下手をすれば女のいた村ごと葬り去られることもある。家族や村の人々を思えば逆らうこともできず、また村人たちもとめることはできなかった。
女の存在は本当に物珍しさからの気まぐれだったようで連れ去られてきてから何度か公爵の相手をさせられ、一応側女とされていたがほとんど忘れ去られている状態だった。そんな中、女は何の因果か公爵の子を身籠ってしまった。望まぬ相手との子とはいえ自身に芽生えた命には愛おしさを感じ、地位も贅沢もいらない、ただこのまま静かに二人で過ごしたいと、不運にも負けず前向きに生きようとしてきた、のに……
――願ったのは小さな幸せだけだったのに……
ここへ入れられて十日くらいだろうか。
私は、この子はどうなってしまうのだろう。
少ない食事を運んでくる時以外にすることはなかった近づいてくる足音に、ついに恐るべき時が来たのかと心臓を冷たい手で握られたような恐怖と絶望を感じながらも漏れそうになる嗚咽を耐え、女は我が子を護るように自身の大きなお腹に腕を回し丸まった。そして、寝たふりをしながら目をうっすらと開け暗闇からの使者をうかがった。
……カツン……カツン……カツン
……カツン…カツン…カツン
それでも間近に迫ってきた足音の恐怖に負け叫びそうになった、その時……
「あぁ、やはり……」
ビックッ
「……レイア殿ですね?」
「ヒュッ」
攫われてきて以来初めて呼ばれた己の名前に、驚きと恐怖を抑えきれず喉が鳴った。しかし一拍後にその小さな声の幼さに驚いた。目を凝らして声の聞こえてきた方を見やると、そこには小さな影が。
安堵しかけた時、その小さな影の後ろにある大きな影に再び恐怖を呼び起こされ、咄嗟に鉄格子から一番離れた隅へと後ずさった。
「あぁ、どうか騒がないでください。貴女を傷つけるつもりはありません。
この者はわたくしの供の者です」
静かに急いで付け加えられた言葉に再び格子の向こうを恐る恐る覗う。そこには着ていたローブのフードを外した小さな女の子と、少年と青年の中間のような男がおり、女―レイア―は目を見開いた。少女は月光を紡いだような銀髪にどこまでも見通せそうなほど深く澄んだ紫水晶の瞳をし、少し困ったような顔をしていた。男は夜空のような漆黒の瞳と同色の長めの髪を一つに束ね、少女を護るように後ろに立っていた。レイアはこんな時だというのに月とそれを包む夜空のような美しさを感じる二人の姿に見惚れた。
「レイア殿。どうか近くに来てください。あまり時がないのです。どうか落ち付いて聞いてください」
再びかけられた声にはっとし、恐る恐る格子に近づいていく。
二人はほっとしたように小さく息をついた。
「ジン、貴方は準備を頼みます」
「はっ」
ジンと呼ばれた少年は少女の言葉に従い、素早く何かの作業を行っていく。レイアにはよくわからないそれ―魔術だろうか―をちらちらと見ながら少女の前にやってきた。
「レイア殿、よろしいですか?」
「えっ…あっ…あの…はい」
「お体は、お腹の御子は大丈夫ですか?」
「は、はい。何とか」
「よかった…。
早速で申し訳ないのですが、貴女には今宵ここから逃げてもらいたいのです」
「えっ!」
「し~! 静かにしてください」
「あっ!ごめんなさい」
「良いのです。いきなりですみません。ですが、今宵を逃しては次の機があるか…」
そういうと少女は急に顔を伏せた。そして一呼吸後再び顔を上げると、幼子に似合わぬ成熟した大人のような瞳でレイアをすっと見据え、重々しく言った。
「レイア殿。できうることならばこのようなことは言いたくはありません。御子をやどしておられる身なればなおのこと。ですが貴女には過酷であろうとも現状をきちんと理解していただがなければ、貴女と貴女の御子を守ることはできないでしょう。故にはっきりと申します。いいですか?」
「………はい」
「貴女をここへ閉じ込めたのは公爵の正妃、つまり公爵夫人です。かの方は非常に権威欲が強く、また貴族主義の塊の様な方なのです。そんな夫人にとって夫、公爵の情というものは自身の地位を脅かすほどのものでなくば重要ではなく、ひどい言い様になってしまうでしょうが、貴女のように地位もなく格別の情を与えられておるわけではない存在は本来なら捨て置かれたでしょう。ですが、幸か不幸か貴女は御子を宿された。その夫人の地位を脅かす可能性のある御子の存在はかの方にとって捨て置けぬものとなってしまいました」
そこまで話すと一度話を切り、少女はレイアの様子を窺いながら、再び話し始めた。
「レイア殿はこのグラッドストーン公爵家の構成をご存じでしょうか?」
「あっ…えぇと、大まかにしか…。
確か正式なお妃様は公爵夫人お一人で、お子様はそのお二人の間に生まれた姫が三人じゃなかったかな…」
チラチラと上目づかいで少女を窺いながら自信なさげに答えると、彼女が頷いた。
「そうです。公爵夫妻の間にどのような取り決めがあったかまでは窺い知ることはできませんが、多数の側女がいても正式な妃は夫人のみ。子は上から一四のレザーリア、一三のマグリータ、そして六歳のシィレン…わたくしの三名です」
その言葉にハッとする。
目の前にいる少女は、公爵にも、一度だけ見かけた夫人にも似ているようには思えなかったが、六歳という年齢に似つかわぬ瞳の強さと内から溢れ出る高貴さは、むしろなぜ今まで気づかなかったのかと思わせるものが確かにあった。
新たに気付かされた事実にどうしていいのわからず少女―シィレン―を窺うと、先ほどまでの強い瞳はそこにはなく、どこか悲しげであり、苦しそうでもある不安そうな瞳と出合った。
「あっ…」
「……貴女を苦境に陥れた者の血族として、決して許されることではないとわかってはいますが、まずは一言謝罪させてください。本当に申し訳ありませんでした。
わたくしのようの者の言葉を信じるのは難しいでしょうが……」
「いえ!」
思わず彼女の手を格子越しに取り、否定の言葉を紡いでいた。
彼女は瞳を見開き、初めて年相応のあどけない顔をさらした。その顔に改めて自分の顔に自然と笑みが浮かぶのを感じながら再び言葉を紡いだ。
「いいえ、あなたは何も悪くないわ。あなたが謝ることはないのよ。でもありがとう。決して誰かを恨むことなんてしまいと思っていたけど、なんだかあなたのその一言で救われた気がしたわ。ここへと来るのもきっと大変だったのでしょう?でも来てくれた。この地へ連れてこられてから誰も呼んではくれなくなった私の名前を知っていてくれた。呼んでくれた。失いかけていた自分を取り戻せたような気がしたわ。とてもうれしかったの。そんなあなたをどうして疑うというの?」
そこまで一息に言い、一度目を閉じてから再び目を開くと決意を込めて言った。
「あなたのようにまだ幼い子にこんなこと言う私はひどい大人よね、きっと。でも私にはあなたしか頼れる人がいないから……改めて言わせて。
どうか、私たちを、お腹のこの子助けてください」
身勝手を言う私の言葉をじっと聞いていた彼女は、瞬間、泣きそうに顔を歪めてから、握っていた私の手を額に頂き、
「ありがとうございます」
と言った。
驚き慌てる私にシィレンは顔を上げ、見つめ合って一拍おいてから同時にクスリと二人で笑った。
――そういえば笑ったのなんてここに来てからはじめてかも
一時、二人の間に穏やかな空気が流れた。