古今夢想 4
橋の真ん中で足を止めて、欄干の間から川を覗いてみる。橋から川まではおよそ三十メートル程だろうか、彼女の目に映るのは暗闇だけで、高さまでは分からない。ただそこに闇黒が存在し、波の返る音しか聴こえてこない。地獄からゴミ山に捨てられて闇の中を彷徨い、また暗闇に逝こうとしている……。そう思うと、彼女は自嘲した。冷たい風が彼女に寒さを知らせて、闇の中でも煌めく、黄金の髪を揺らした。自身が光を放っていることも知らずに彼女は思う。
――あの闇に飛び込めば、いまある心にたゆたっているものが無くなる。辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、痛いこと、淋しいこと、切ないこと。そういったものをあの闇の中に溶かしてしまおう。
冷えきった欄干におもむろに手を伸ばし、身を乗り出そうとしたその瞬間、どこからともなく声が聞こえた。その声は明らかに彼女に向けられたもので、それは老人の声だった。その声を知らぬふりをすることができなくなったのか、彼女は体の動きを止めた。なぜならば、いままで聴いたこともない、あまりに優しい声だったからだ。欄干の上に乗り出した体を地面に戻して振り向くと、そこには赤いハンチング帽を被り、首には灰色のマフラー、赤いワイシャツの上に青のオーバーオールを着て、さらにはおおきな袋を背負った、白い犬耳に白く長いあごひげを生やした老人がこちらを見つめていた。その老人が優しい口調で、まるで自分の家に遊びに来た子供を出迎えるようにして挨拶した。
「こんばんは」
「こ、こんばんは」
「わしはドンカスターじゃ。お嬢ちゃん、お名前は?」
「ロンシャン」
「素敵な名前じゃのう。おいくつかな?」
「わからない」
「そうか、ご両親はおるかの?」
そうドンカスターが尋ねると、ロンシャンは顔を横に振った。
「お家はどこかな?」
「捨てられた」
「捨てられて、ここに来たんかの?」
「うん」
「いま、なにをしてたんかの?」
「死のうとしてた」
「そうか、死のうとしてたんか……」
「うん」
そう返事をすると、ロンシャンが空腹を知らせる音をさせた。
「おなか、空いとるのかの?」
こくりとロンシャンがうなずいてみせる。
「わしの家でご飯食べんか? どうせ死ぬなら、お腹いっぱいになってからのがええじゃろ、の?」
そう言ってドンカスターが手を差し出すと、ロンシャンは人差し指だけ掴んだ。その手はしわくちゃで節くれだっていて、見るからに枯木のように思えたが、握ると非常に柔らかくて、暖かいものだった。
どうせ死ぬのだから、最期だけはいい思いをしたい。道すがら、そんな風にロンシャンは考えていた。それと同時に老人の呼びかけは暗闇に灯る松明のようにも感じていた。希望と絶望が、この小さな彼女の中で交錯していたのである。そうこうしているうちに二人は立ち止まった。そこはダウンタウンの片隅にある、安い木賃宿である。鍵を開け、中に入って眠っていた管理人を起こしにいく。
「すまんの、ちと風呂と台所借りるぞい」
寝ぼけ眼を指でこすりつつ管理人が少女を見て言う。
「その子は?」
「捨てられてたらしい、わしが拾ってきた」
「困りますよ、ドンカスターさん」
「一番困ってるのはこの子のはずじゃ」
管理人は深くため息をつき、
「わかりました、ガス栓はちゃんと締めるようお願いしますよ」
と、仕方なさそうに言った。ドンカスターは礼を言い、ロンシャンを伴って風呂場に向かった。
「ところで、風呂は一人で入れるかの?」
「うん、入れる」
「偉いの、このスイッチを押すとお湯が出て、これをこっちにひねると温かくなるからの。
だいじょぶかの?」
「うん、わかった」
「着替えとタオルはここに置いとくからの」




