オークション
外は30度を越える気温だったがオークション会場は空調の爽やかな空気が満ちていて、快適だった。
「次の作品です。牧原静香の風景画『時元の旅』七万二千からです」
司会が告げると額装された10号の油絵がテーブルの上に置かれた。ねじれた球体が画面の半分で明暗が反転している絵だった。
古田宏樹は手元のオークションカタログの図版と見比べて、番号札をあげた。
「はい、七万二千」
別の参加者が番号札をあげる。
「はい、七万三千、」
四千、五千と上がっていき、値が八万になったとき、古田宏樹はもう一度番号札をあげた。
「はい、八万です。いらっしゃいませんか、八万で落札です!」
会場のカウンターで古田宏樹は金を払い、絵は宅配便で送ってもらう手続きをおこなった。
会場のビルを出て、日本橋の通りを歩くと、宏樹は歩道に面したチェーン店のカフェへ入った。店から牧原静香の携帯へ電話をした。数回、呼び出し音が鳴ったあと相手がでた。
「……もしもし」
「牧原さんでいらっしゃいますか? わたし、先日お電話さしあげた古田と申します。 実は牧原さんの絵のことでお目にかかってお話をうかがいたいのですが」
「そのことでしたら、前も申しましたとおり私、取材はお断りしております」
牧原静香は新進の画家だった。と言っても公募展の入選を重ねて著名になった作家ではなく、自らのブログでの発言の異色さから一部で話題になっていた女性だった。
その発言というのは、自分は月世界を探訪したことがあるという、常識家なら一笑に付してしまう言葉だった。その体験が絵画制作のインスピレーションになっている、と語っている。
「短い時間で結構なんです。ぜひお会いしたいのです。あなたがブログで語った内容について批判や嘲笑の反応があることは承知しております。ですから、なおさら牧原さんの直接の声をおおやけにすることは、必要だと思うのですが」
古田が言うと、相手はしばらく沈黙したあと、
「……わかりました」
と、応えた。
古田宏樹は、牧原静香のマンションを訪ねた。応対した牧原静香は二重瞼の涼しげな印象で、細い顎をもった女性だった。室内には制作途中のキャンバスが未使用のものと立て掛けてあった。
古田は話を切り出した。
「牧原さんのおっしゃる月世界を訪れたという発言は比喩的な意味ととらえればよろしいのでしょうか?」
牧原静香は表情を変えることなく、
「比喩ではありません。月を訪れたことは真実です。」
「どうやって月を訪れたのですか? その手段ですが」
「テレポーテーションです」
「……瞬間移動ですか」
古田は牧原静香の顔を直視し、
「あなたは能力者なのですか?」
「自分で言うのもなんですが、昔から霊感は強い方でした」
この内容では一ページを埋めるのが精一杯だろう、と古田は思った。記事の売り込み先の雑誌社のデスクの不機嫌な顔が予想できる。
古田は続けた。
「月面探査は再び有人飛行の話題で世界では盛り上がっています。そのニュースの陰であなたのような異色な存在は、こう言っては失礼だけれど、面白い記事になると思ったのです。わたしは、画廊とオークションで何枚かあなたの絵を入手いたしました。これから価値がでると思ったのです。……投資のつもりでね」
古田がそう言うと、牧原静香は表情を硬くして、
「信じないのですね」
「わたしは、立場上、中立の位置で記事を書きたいだけなのです」
古田がそう言うと、牧原静香は古田の両手を握り、
「テレポーテーションは遠隔地に転移するとき、三次元の世界から四次元空間を経由して目的場所に移動するのです。四次元空間から俯瞰すれば、三次元や二次元の平面世界は実に他愛のない裏庭にすぎません」
目の前の牧原静香に手を握られながら、古田は強い眠気におそわれていた。身体が浮遊するような不思議な感覚を体験していた。遠いところから心を突き刺すように牧原静香の声が語りかける。
「四次元世界から干渉すれば三次元の生命を平面の二次元に転写することもできるんですよ」
ーーすでに古田宏樹はそこには存在していなかった。
日本橋のビルのなかのオークション会場では、今日も多数の落札者で盛況だった。
司会が作品を紹介する。
「次の作品です。牧原静香の作品、『静寂の空間』二万七千からです」
台の上のキャンバスには眠っているように見える男の姿が立体感のある筆致であらわされていた。
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