第7話 足りない
神崎が戻ってきたのに、うまくいかなかった。
だから全員、少しだけ困った。
欠けていたからできないのだと思っていたものが、揃ってもまだ足りないと分かったからだ。
◆
「大丈夫なんですか」
蓮が聞くと、神崎は軽く脚を叩いた。
「走れる。無理はしない」
その言い方で、無理は少しするのだと分かる。
真壁も瀬川も何も言わない。
止めても聞かないと分かっているのだろう。
「今日は確認する」
神崎が全員を見る。
「今の四人で、何が足りないか」
「速さじゃないのは分かってるんですけどね」
真壁が言う。
「朝倉も速いし、神崎先輩も戻ってきたし」
「受け渡しだけでもないです」
瀬川が続ける。
「形は前より悪くないので」
「じゃあ何だよ」
真壁の言葉に、誰もすぐには答えなかった。
◆
一本目。
真壁は抑えすぎずに入る。
瀬川はきれいに受ける。
蓮も自分の区間を押し切る。
神崎への最後も、前よりずっと自然だ。
けれど、来ない。
あの、一瞬だけ世界が遅れるような感覚。
音より先に、つながる感じ。
悪くない。
でも、足りない。
戻ってきた神崎が短く言う。
「今のは整ってる」
そこで一度止める。
「でも、揃ってない」
真壁が頭をかく。
「分かるけど腹立つ言い方だな、それ」
蓮も同じことを思った。
でも、たしかにその通りだった。
整っている。
技術としては前より良くなっている。
なのに、四人の時間が一本になりきらない。
◆
少し休憩を入れたあと、神崎が珍しく全員をトラックの内側に座らせた。
「言え」
「何をですか」
「足りないと思うものを」
真壁が先に息を吐く。
「踏み切り」
即答だった。
「朝倉、まだ踏み切れてない。 神崎先輩に対してじゃなくて、たぶん全員に」
蓮が少しだけ目を伏せる。
言い返せない。
「壊したくないって顔してるときあるし。 それで逆に変になる」
次に瀬川が言う。
「呼吸の位置、だと思います」
「位置」
「はい。四人ともそれぞれ苦しくなる場所が少し違うです。 真壁は最初に強いですけど後半で荒れやすい。僕はまとめる方ですけど、まとめすぎると平坦になる。
朝倉くんは後半に伸びますけど、最後で止まりやすい。神崎先輩は受け止められますけど、今は脚をかばって少しだけ待ってます」
神崎が小さく頷く。
「合ってる」
「だから、形はあるのに、苦しさの波がぴたりと重なってないです」
西野が少し遠慮がちに手を挙げるみたいに言った。
「俺、見てるだけですけど」
「言っていい」
神崎が促す。
「なんか、四人ともちゃんとやろうとしすぎてる気がします」
全員が西野を見る。
西野は少しだけ縮こまったが、続けた。
「前みたいに変なのが出るときって、もうちょっと自然だったっていうか…… ちゃんとしようとしてないって意味じゃないんですけど、考えすぎてない感じでした」
真壁が苦笑する。
「一年のくせに、わりといいこと言うな」
「すみません」
「謝るなって」
その空気のゆるみだけが、少し救いだった。
「朝倉」
神崎が最後に言う。
「お前はどうだ」
問いが来ると分かっていたのに、蓮はすぐに答えられない。
足りないもの。
踏み切り。
呼吸の位置。
考えすぎ。
どれも違うとは言えない。
でも、もっと内側に何かがある気がしていた。
「……分かりません」
やっと出た言葉は、それだった。
真壁が少しだけ苛立った顔をした。
けれど、今回は何も言わなかった。
神崎も責めなかった。
「じゃあ、まだそこだ」
◆
日が沈みかけた頃、もう一本だけ走った。
今まででいちばん形は良かった。
真壁の勢いを瀬川が受け、瀬川の整えたリズムを蓮が持ち上げる。
第三コーナーから第四コーナーにかけて、蓮の走りは今日も強い。
最後の神崎への受け渡しも、ほとんど崩れない。
それなのに。
あの感覚だけが、来ない。
音は普通に鳴る。
つながりはする。
でも、世界が遅れない。
走り終えたあと、全員が少しだけ同じ顔をした。
失敗じゃない。
でも、成功でもない。
「……これで来ないんだな」
真壁が呟く。
「はい」
瀬川も静かに答える。
「だから、技術だけじゃないです」
蓮は何も言えなかった。
自分だけがまだ、いちばん大事なところを言葉にできていない気がしたからだ。
◆
帰り際、遥がトラックの第三コーナーを見ていた。
蓮がそこを走るときだけ、昔の顔に少し似る。
前へ出ることを怖がっていない走り。
でもそのまま最後まで行けない顔。
「宮坂さん」
瀬川が隣に来た。
「はい」
「たぶん、朝倉くんの中の理由、まだ出てないです」
遥は少し驚いて、瀬川を見る。
「瀬川先輩もそう思いますか」
「はい。技術の話なら、もう少しで揃います。 でも、揃わないなら別のものがある」
それだけ言って、瀬川は一礼して去っていった。
遥は第三コーナーを見続ける。
あの日、蓮が止まった理由。
ずっと考えていた。
でも考えているだけで、もう届かないところまで来ている気もした。
見ているだけでは足りない。
そう思ったのは、たぶん初めてだった。




