第6話 欠けたまま
神崎が走れない、と聞いたとき、最初に黙ったのは真壁だった。
怒るより先に、言葉がなくなったのだと分かった。
◆
月曜の放課後、神崎はトラックの外にいた。
左脚にテーピングが巻かれている。
「大したことない。張っただけだ」
本人はそう言った。
でも、走順のところに立たずに外から見ている時点で、それが軽くないことは全員分かっている。
「今日と明日は外す」
神崎がそう告げると、真壁がすぐに聞いた。
「……代わり、どうするんすか」
「西野に入ってもらう」
西野が目を丸くする。
「え、俺ですか」
「今日はそれで形を見る」
西野は一瞬だけ戸惑って、それからすぐに頭を下げた。
「はい。やります」
その返事の素直さが、かえってこの状況の重さを見せる。
西野はまだ、急に本番仕様の一枠へ入る準備ができているわけじゃない。
でも、いないなら入るしかない。
「一走、真壁。二走、瀬川。三走、朝倉。四走、西野」
神崎はホワイトボードにそう書いた。
「走順は今日だけこの並びでいく」
真壁が眉を寄せる。
「……欠けたままやるってことですね」
「そうだ」
神崎は否定しなかった。
「欠けたままでも、何が欠けるかは見える」
◆
一本目から、難しかった。
真壁はいいスタートを切る。
瀬川も悪くない。
蓮も受けて、区間を押し切るところまではいつも通り走れる。
でも最後、西野の手へ渡す瞬間に、空気が変わる。
西野が悪いわけじゃない。
むしろ必死で合わせている。
蓮もいつもより慎重に入れている。
だからこそ、流れが細くなる。
神崎へ渡すときに一瞬でつながっていたものが、今日は丁寧に手渡しされるだけで終わる。
切れてはいない。
でも一本にはならない。
「すみません!」
西野が受け取ったあと、すぐに頭を下げる。
「謝るな」
真壁が先に言った。
「今のはお前だけのせいじゃない」
蓮は何も言えなかった。
自分でも分かる。
神崎がいないだけで、自分の中の怖さの向きが変わっている。
神崎には、流れごと渡しても受け止めてもらえる気がした。
でも西野には、壊さないように渡そうとしてしまう。
その“壊さないように”が、いちばん流れを壊す。
◆
二本目のあと、神崎がフェンス越しに言った。
「朝倉」
「はい」
「守りすぎだ」
すぐに返す言葉がない。
「西野が相手だと、余計にそうなるんでしょうね」
瀬川が静かに言う。
「朝倉くん、丁寧にやろうとして、逆に切ってます」
西野が申し訳なさそうに肩をすくめる。
「俺がまだ遅いから」
「違う」
真壁が珍しく強く言った。
「お前が遅いとかそういう話じゃない」
それは真壁なりの庇い方だった。
荒いけれど、まっすぐだ。
「神崎先輩のときは、朝倉も最後ちょっと雑になれるんだよ。いい意味で」
その言葉に、蓮が顔を上げる。
「雑」
「丁寧に壊すくらいなら、少し雑でも流れ切らない方がマシってこと」
言い方は乱暴でも、言っていることは合っていた。
神崎がフェンスに寄りかかったまま続ける。
「四人揃っても欠けることはある。 三人で走れば、もっと分かりやすく欠ける」
「……はい」
「今日見てるのはそこだ」
◆
三本目。
蓮は意識して速さを上げた。
自分が押し切れば、少しは楽になるかもしれない。
自分の区間で貯金を作れば、最後の受け渡しも救えるかもしれない。
そう思った。
でも、そういうときほどリレーは個人走になる。
第三コーナーから第四コーナーへ。
蓮の走りは速い。
速いけれど、前の真壁と瀬川の呼吸を少し置いていってしまう。
ホームストレート。
西野が見える。
渡す。
パシ。
つながる。
しかし、細い。
西野は受けてから前へ出るのに一拍かかった。
責められない。
まだ慣れていないのだから当然だ。
けれど、その当然が、今日はひどく遠く感じる。
「……だめですね」
蓮が小さく言うと、神崎が首を振る。
「だめ、で終わるな」
「でも」
「今見えたものを持ち帰れ」
フェンスの向こうにいるのに、神崎の声は近かった。
「誰か一人を責めるな。 揃わないときは、四人とも少しずつ揃ってない」
西野が俯いていた顔を、少しだけ上げる。
瀬川は黙って頷いた。
真壁だけが、苛立ちを消しきれないままトラックを見ている。
◆
練習のあと、蓮は一人でスタンド下に座っていた。
今日はシンクロが一度も来なかった。
来るはずもない、と思ってしまった自分もいた。
それが、少し嫌だった。
「蓮」
遥が缶のスポドリを差し出してくる。
「ありがと」
「今日、全然違ったね」
「……見て分かるんだろ」
「見てたから」
遥は隣に座る。
「神崎先輩がいないだけで、あんなに変わるんだね」
「うん」
「神崎先輩だから、っていうのもあるんだろうけど」
そこで遥は少しだけ言葉を選んだ。
「蓮が、誰に渡すかで変わってる感じもした」
図星だった。
でも、否定する気にもならない。
「西野に悪いと思った」
蓮はぼそっと言う。
「失敗したら、余計に背負わせるから」
「それで守った」
「……たぶん」
「守った結果、流れ切れた」
やさしい言い方ではなかった。
でも、責めているわけでもない。
「うん」
「難しいね」
遥はそう言って缶を開ける。
プルタブの音が、小さく響いた。
「誰かにやさしくしようとして、ちゃんとつながらなくなるの」
その言葉だけが、長く残った。
◆
その夜、遥はノートに書いた。
神崎先輩がいないと、ただ一人減るんじゃない。
流れの出口がなくなる。
西野が悪いわけじゃない。
蓮も悪くない。
でも、誰も悪くなくても揃わない日はある。
そして、その下にもう一行。
欠けるって、人数のことじゃない。
同じ秒に入るための、受け止める場所が足りないこと。
ノートを閉じたあとも、その言葉だけがしばらく手の中に残っていた。




