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第55話 深くしない速さ

県大会が終わって最初の全体練習で、瀬川はいつもより早くトラックの中央に立った。


真壁が手を叩く。


「集まれ」


南関東大会が近い、というだけで部の空気はもう軽くない。


真壁、瀬川、蓮、井坂。


倉橋はまだテーピングの残る脚を伸ばして、外側からその輪を見ていた。


瀬川は全員を見渡したあと、視線を蓮に向けた。


「朝倉くん。南関は、県と同じやり方じゃ足りないです」


井坂が眉を上げる。


真壁は腕を組んだまま、その先を待った。


「県では、朝倉くんは個人を走力で通しました。マイルも、朝倉くんが深く入りすぎない形で決勝まで行った。でも南関は、それだけだと押し切れない可能性があります」


真壁が聞く。


「要するに?」


瀬川は蓮から目を外さない。


「朝倉くんだけは、もう半歩深く入る準備をしてください」


静かになった。


“シンクロ”という言葉は、今では外でも使われている。


雑誌にも、SNSにも、もう名前だけは広がっている。


けれど部の中で分かっているのは、それがみんなに起きるものじゃない、ということだった。


深く入れるのは蓮だけだ。


真壁の流れ、井坂や倉橋の思い、瀬川へ渡すまでの線。


それらが一本につながった時だけ、蓮はあの無音の奥へ沈める。


そしてその直後の走者は、その残り流れを受けて、疑似的に“滑るような走り”になることがある。


でも、それは再現できる技術じゃない。


蓮を通った時にだけ残る、現象の尾みたいなものだ。


遥が口を開く。


「また反動が出たら?」


瀬川は答えた。


「出ます」


その一言が、夕方の空気を少しだけ冷たくした。


「だから消すんじゃなくて、戻り方を決めます」


「戻り方?」


高梨が小さく聞き返す。


瀬川はバトンを拾い、蓮に向ける。


「朝倉くん。深く入ったあと、前を見るんじゃなくて、一回後ろの音を拾ってください。世界が追いついてくる音です。スパイクでも歓声でも何でもいい。それを目印に戻る」


蓮は少し考えてから言った。


「……後ろから来る音なら、分かるかもしれないです」


「それです。無音の中に残り続けない。そのまま次へ渡すと、反動が大きくなる」


真壁が苦笑する。


「相変わらず説明がギリギリだな」


「真壁に分かるなら十分です」


「それ褒めてねえだろ」


少しだけ笑いが起きる。


だが、蓮だけは真顔のままだった。


南関で必要なのは、深く沈むことじゃない。


必要な場所でだけ、深く使うこと。


それ以外は、あくまで走力で押す。


その線引きが、今の潮見にとっていちばん難しい。


倉橋が外から言った。


「朝倉先輩」


全員の目がそちらへ向く。


「自分、二走はもう走れないかもしれないですけど……流れは残したいです」


真壁が少しだけ表情を和らげる。


井坂は何も言わず、前を向いた。


蓮は倉橋を見て、短くうなずいた。


「分かった」


その日のマイル通しは、何本もやり直した。


真壁が一走でまとめる。


井坂が離される。


蓮が詰める。


瀬川が残す。


南関の決勝をまだ迎えてもいないのに、先に身体へ叩き込むみたいな練習だった。


蓮は何度も、境界の手前で止まった。


深く入らない。


でも、いつでも入れる位置までは行く。


その繰り返しは、速くなる練習というより、壊れずに速くなる練習だった。

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