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シンクロ ― 0.1秒の残像 ―  作者: T.SUDO
Season1|マイル始動編
5/8

第5話 音の遅れ

その土曜日、陸上部は近隣校との合同記録会に出た。


大会というほど大きくはない。


けれど、学校の外で走る以上、言い訳のきかない場所ではある。


朝から空は明るく、風はやや強い。


スタンドはまばらでも、知らないユニフォームが何色も混じるだけで、学校の練習とは空気が変わる。


「嫌な感じする」


真壁がアップをしながら言った。


「何がですか」


瀬川が聞く。


「外の空気。なんか、ちゃんとバレるだろ。今できてないこと全部」


「いつも通りですね」


「お前、そういうとこだぞ」


やりとりは軽い。


けれど真壁の肩は少しだけ硬い。


蓮は隣で、黙ってスパイクのピンを確かめていた。


外のトラックは久しぶりだった。


レース前の、あの独特の乾いた緊張が、身体の奥に少しずつ戻ってくる。


嫌ではない。


でも、楽でもない。


遥は記録用紙を抱えて、神崎の後ろを歩く。


神崎は周囲を見ながらも、余計なことは言わない。


「朝倉」


「はい」


「力むな」


「……はい」


「速さは足りてる」


それだけ言われて、蓮は少しだけ息を吐く。


足りていないと言われるより、足りていると言われる方が怖い。



招集の前、隣の学校の選手たちがこちらを見ていた。


「朝倉って、あれだよな」


「中学のとき四百速かったやつじゃね?」


小さな声だった。


聞こえないふりはできる。


けれど耳には入る。


真壁がその声の方をちらっと見て、舌打ちまではしないまま息を吐いた。


「やっぱ有名じゃん」


「別に、今は関係ないです」


蓮が言うと、真壁は少しだけ眉を上げる。


「関係あるよ。速いって分かってるやつが、途中から入ってきたって話なんだから」


刺さる言い方だった。


でも、今はもう最初の頃みたいな棘だけではない。


「……すみません」


「謝るなって。そういうとこだよ、お前」


そう言ってから、真壁は少しだけ声を落とした。


「だったら今日は、ちゃんと見せろ」


短い言葉だった。


けれど、その中にはもう


「入ってくるな」


だけではないものがあった。



組のスタート位置に並ぶ。


一走は真壁。


二走は瀬川。


三走は蓮。


四走は神崎。


スターターの声。


静まり返る空気。


乾いたピストル音。


真壁が飛び出す。


今日の真壁はいい。


押しすぎず、でも勢いを殺さない。


いつもの爆発力を、外にばらまかずに前へまとめている。


「真壁、いいです」


瀬川が小さく言い、受け位置に入る。


バトンがつながる。


瀬川が流れを受け取り、自分の四百に整える。


蓮は受け位置で、肩越しに一度だけ後ろを見る。


タイミングは合っている。


「朝倉くん!」


声。


掌。


接触。


パシ。


最初の一歩だけ、やはり少し重い。


だが、今日はそこで止まらない。


押し戻す。


二歩目で、三歩目で、自分のリズムへ入る。


第三コーナー。


苦しい。


でも、ここは昔から知っている苦しさだった。


四百は、つらい場所が遅れて来る。


そして一度来たら、そう簡単には去らない。


それでも蓮はペースを落とさない。


第四コーナーに入ってもフォームはくずれない。


スタンドのどこかから、小さなざわめきが上がった気がした。


久しぶりに、他人の目が自分の走りに追いついてくる感じがある。


速い。


その事実だけなら、もう隠しきれない。


問題は、その先だ。


ホームストレート。


神崎が手を開く。


蓮は迷わない。


迷わないようにする。


持ってきたものを、そのまま出す。


そう決めて腕を伸ばす。


そのときだった。


風が横から吹く。


スタンドの音が少しだけ遠のく。


神崎の掌と、自分の呼吸と、踏み出す足の位置が、一瞬だけぴたりと重なる。


バトンが触れるより前に、つながる感覚が先に来た。


——まただ。


パシ、という音が、そのあとを追うみたいに鳴る。


ほんの一拍。


でも確かに、音が遅れた。


神崎が一歩目で前へ出る。


流れが切れない。


むしろ、そこで一本になる。


遥はスタンド下で、思わずタイム表から目を上げた。


瀬川も、走り終えたまま振り返っている。


真壁は肩で息をしながら、神崎のラストを見ていた。


ゴール。


結果は一着ではない。


でも、今までより確実にいいタイムだった。



「今、ありましたよね」


最初に言ったのは瀬川だった。


息が整いきっていないのに、声だけは妙に静かだ。


「何が」


真壁が聞き返す。


「最後です。音が、少し遅れたみたいな」


「お前もそう思った?」


真壁がすぐに返したので、瀬川が少しだけ目を見開く。


蓮は黙ったままだった。


思い込みかもしれない、とまだどこかで思っている。


神崎がタオルを首にかけながら言う。


「タイムは現実だ」


そこで一度言葉を切る。


「でも、現実の中に説明しづらい瞬間が混ざることはある」


真壁が眉を寄せる。


「それ、どういう意味ですか」


「今はまだ、それでいい」


はぐらかしたようでいて、否定もしていない。


神崎はそのまま蓮を見る。


「朝倉、今の最後。自分で分かったか」


蓮は少しだけためらってから答える。


「……はい」


「どうだった」


「うまく言えないですけど」


言葉が追いつかない。


でも、黙るのも違う気がした。


「渡した、より先に、つながった感じがしました」


その一言で、周りが少しだけ静かになる。


西野が小さく


「やっぱり」


と呟いた。


遥は記録用紙の端を親指で押さえたまま、何も言わない。


ただ、その言葉をきちんと受け取った。



帰りのバスの中、窓に額を預けながら蓮は外を見ていた。


流れる景色が少し速い。


それなのに、自分の中だけが妙に静かだった。


隣の席に座った真壁が、不意に言う。


「今日の最後」


「……はい」


「別にまだ、信用したわけじゃないからな」


「はい」


「でも、あれはちょっと反則だろ」


思わず蓮が真壁を見る。


「反則、ですか」


「普通に渡しただけみたいに見えるのに、なんか先に来る感じあるだろ」


言葉が荒いくせに、言っていることは正確だった。


「そういうの出されると、こっちも乗るんだよ」


真壁はそれだけ言って、窓のほうを向く。


照れているのかもしれない、と思ったが、口には出さない。


前の席では瀬川がノートに何か書いている。


たぶん、今日のラップや受け渡しの位置だ。


遥も少し離れた席で、同じようにペンを動かしている。


見えているものは違っても、今は同じものを拾おうとしている気がした。



その夜、遥はノートに書いた。


今日、二回目の


「音の遅れ」


があった。


たぶん偶然じゃない。


バトンが触れる前に、つながる感覚が先に来る。


そのあとで、音が遅れて届く。


さらに一行。


速いだけでは起きない。


四人の流れが切れていないときだけ起きる。


そして最後に、少しだけ迷ってから書き足す。


同じ一秒に入ったとき、世界が少し遅れる。


書いてしまうと、少しだけ恥ずかしい。


でも、そうとしか言えなかった。

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