第5話 音の遅れ
その土曜日、陸上部は近隣校との合同記録会に出た。
大会というほど大きくはない。
けれど、学校の外で走る以上、言い訳のきかない場所ではある。
朝から空は明るく、風はやや強い。
スタンドはまばらでも、知らないユニフォームが何色も混じるだけで、学校の練習とは空気が変わる。
「嫌な感じする」
真壁がアップをしながら言った。
「何がですか」
瀬川が聞く。
「外の空気。なんか、ちゃんとバレるだろ。今できてないこと全部」
「いつも通りですね」
「お前、そういうとこだぞ」
やりとりは軽い。
けれど真壁の肩は少しだけ硬い。
蓮は隣で、黙ってスパイクのピンを確かめていた。
外のトラックは久しぶりだった。
レース前の、あの独特の乾いた緊張が、身体の奥に少しずつ戻ってくる。
嫌ではない。
でも、楽でもない。
遥は記録用紙を抱えて、神崎の後ろを歩く。
神崎は周囲を見ながらも、余計なことは言わない。
「朝倉」
「はい」
「力むな」
「……はい」
「速さは足りてる」
それだけ言われて、蓮は少しだけ息を吐く。
足りていないと言われるより、足りていると言われる方が怖い。
◆
招集の前、隣の学校の選手たちがこちらを見ていた。
「朝倉って、あれだよな」
「中学のとき四百速かったやつじゃね?」
小さな声だった。
聞こえないふりはできる。
けれど耳には入る。
真壁がその声の方をちらっと見て、舌打ちまではしないまま息を吐いた。
「やっぱ有名じゃん」
「別に、今は関係ないです」
蓮が言うと、真壁は少しだけ眉を上げる。
「関係あるよ。速いって分かってるやつが、途中から入ってきたって話なんだから」
刺さる言い方だった。
でも、今はもう最初の頃みたいな棘だけではない。
「……すみません」
「謝るなって。そういうとこだよ、お前」
そう言ってから、真壁は少しだけ声を落とした。
「だったら今日は、ちゃんと見せろ」
短い言葉だった。
けれど、その中にはもう
「入ってくるな」
だけではないものがあった。
◆
組のスタート位置に並ぶ。
一走は真壁。
二走は瀬川。
三走は蓮。
四走は神崎。
スターターの声。
静まり返る空気。
乾いたピストル音。
真壁が飛び出す。
今日の真壁はいい。
押しすぎず、でも勢いを殺さない。
いつもの爆発力を、外にばらまかずに前へまとめている。
「真壁、いいです」
瀬川が小さく言い、受け位置に入る。
バトンがつながる。
瀬川が流れを受け取り、自分の四百に整える。
蓮は受け位置で、肩越しに一度だけ後ろを見る。
タイミングは合っている。
「朝倉くん!」
声。
掌。
接触。
パシ。
最初の一歩だけ、やはり少し重い。
だが、今日はそこで止まらない。
押し戻す。
二歩目で、三歩目で、自分のリズムへ入る。
第三コーナー。
苦しい。
でも、ここは昔から知っている苦しさだった。
四百は、つらい場所が遅れて来る。
そして一度来たら、そう簡単には去らない。
それでも蓮はペースを落とさない。
第四コーナーに入ってもフォームはくずれない。
スタンドのどこかから、小さなざわめきが上がった気がした。
久しぶりに、他人の目が自分の走りに追いついてくる感じがある。
速い。
その事実だけなら、もう隠しきれない。
問題は、その先だ。
ホームストレート。
神崎が手を開く。
蓮は迷わない。
迷わないようにする。
持ってきたものを、そのまま出す。
そう決めて腕を伸ばす。
そのときだった。
風が横から吹く。
スタンドの音が少しだけ遠のく。
神崎の掌と、自分の呼吸と、踏み出す足の位置が、一瞬だけぴたりと重なる。
バトンが触れるより前に、つながる感覚が先に来た。
——まただ。
パシ、という音が、そのあとを追うみたいに鳴る。
ほんの一拍。
でも確かに、音が遅れた。
神崎が一歩目で前へ出る。
流れが切れない。
むしろ、そこで一本になる。
遥はスタンド下で、思わずタイム表から目を上げた。
瀬川も、走り終えたまま振り返っている。
真壁は肩で息をしながら、神崎のラストを見ていた。
ゴール。
結果は一着ではない。
でも、今までより確実にいいタイムだった。
◆
「今、ありましたよね」
最初に言ったのは瀬川だった。
息が整いきっていないのに、声だけは妙に静かだ。
「何が」
真壁が聞き返す。
「最後です。音が、少し遅れたみたいな」
「お前もそう思った?」
真壁がすぐに返したので、瀬川が少しだけ目を見開く。
蓮は黙ったままだった。
思い込みかもしれない、とまだどこかで思っている。
神崎がタオルを首にかけながら言う。
「タイムは現実だ」
そこで一度言葉を切る。
「でも、現実の中に説明しづらい瞬間が混ざることはある」
真壁が眉を寄せる。
「それ、どういう意味ですか」
「今はまだ、それでいい」
はぐらかしたようでいて、否定もしていない。
神崎はそのまま蓮を見る。
「朝倉、今の最後。自分で分かったか」
蓮は少しだけためらってから答える。
「……はい」
「どうだった」
「うまく言えないですけど」
言葉が追いつかない。
でも、黙るのも違う気がした。
「渡した、より先に、つながった感じがしました」
その一言で、周りが少しだけ静かになる。
西野が小さく
「やっぱり」
と呟いた。
遥は記録用紙の端を親指で押さえたまま、何も言わない。
ただ、その言葉をきちんと受け取った。
◆
帰りのバスの中、窓に額を預けながら蓮は外を見ていた。
流れる景色が少し速い。
それなのに、自分の中だけが妙に静かだった。
隣の席に座った真壁が、不意に言う。
「今日の最後」
「……はい」
「別にまだ、信用したわけじゃないからな」
「はい」
「でも、あれはちょっと反則だろ」
思わず蓮が真壁を見る。
「反則、ですか」
「普通に渡しただけみたいに見えるのに、なんか先に来る感じあるだろ」
言葉が荒いくせに、言っていることは正確だった。
「そういうの出されると、こっちも乗るんだよ」
真壁はそれだけ言って、窓のほうを向く。
照れているのかもしれない、と思ったが、口には出さない。
前の席では瀬川がノートに何か書いている。
たぶん、今日のラップや受け渡しの位置だ。
遥も少し離れた席で、同じようにペンを動かしている。
見えているものは違っても、今は同じものを拾おうとしている気がした。
◆
その夜、遥はノートに書いた。
今日、二回目の
「音の遅れ」
があった。
たぶん偶然じゃない。
バトンが触れる前に、つながる感覚が先に来る。
そのあとで、音が遅れて届く。
さらに一行。
速いだけでは起きない。
四人の流れが切れていないときだけ起きる。
そして最後に、少しだけ迷ってから書き足す。
同じ一秒に入ったとき、世界が少し遅れる。
書いてしまうと、少しだけ恥ずかしい。
でも、そうとしか言えなかった。




