第4話 見ているだけ
見ているだけの人間にも、分かることがある。
宮坂遥がそれを知ったのは、ずっと前からだった。
たぶん、自分が走るより先に。
◆
放課後、グラウンドの空気は少し湿っていた。
朝から曇っていたぶん、夕方になっても空は低いままで、赤いトラックだけが妙に色濃く見える。
遥はタイマーを首から下げ、ノートを開いた。
神崎に言われたメニューを端に書いて、走順の欄を確認する。
一走 真壁 二走 瀬川 三走 朝倉 四走 神崎
西野は今日も記録補助と給水。
正式に組む四人ではない。
けれど、いないことにもできない。
「宮坂さん、次の本数、二本で合ってますか」
瀬川が近くで聞いてくる。
「はい。神崎先輩、さっきそう言ってました」
「ありがとうございます」
瀬川はそれだけ言って、すぐにトラックへ戻る。
声を荒げることもなく、必要なことだけをきちんと受け取っていく人だ。
真壁はスタート位置で足を鳴らしている。
落ち着きがないのではなく、じっとしていられないのだと分かる。
前へ出るための気持ちが、あの人はいつも先に身体に出る。
神崎は変わらず静かだ。
静かなまま、誰がどこで崩れているかだけを見ている。
そして、蓮。
少し離れた場所で、肩を回している。
話すときは短い。
見ているときはもっと静かだ。
けれど、走り出した瞬間だけ、あの人は別の形になる。
遥はペン先を止めた。
——昔から、そうだった。
◆
中学の頃、蓮の四百はよく目立った。
派手だからではない。
大きく手を振るわけでも、最初から飛ばしすぎるわけでもない。
でも、二百を越えたあたりから急に、同じレースの中に別の流れが入ってくるみたいだった。
第三コーナーに入って、他の選手がきつそうに肩を上げる。
第四コーナーにかけて、みんなのフォームが少しずつ崩れる。
その場所でだけ、蓮は前へ出た。
無理をしているように見えないのに、差がつく。
追い上げるというより、相手の時間を静かに追い越していく感じだった。
だから、あの日も勝つと思っていた。
みんながそう思っていた。
遥も、たぶん蓮自身も。
なのに、止まった。
白線の手前で、ほんの一歩だけ。
あれが疲れや故障じゃないことくらい、見ていた遥には分かった。
あのときから、ずっと考えていた。
どうして止まったのか。
どうして、あんな顔をしたのか。
でも、訊けなかった。
訊いてしまったら、あの日の蓮を本当に見てしまう気がしたからだ。
◆
「宮坂さん」
声をかけられて、遥は現実に戻る。
西野が給水ボトルを持って立っていた。
「これ、並べときます。ここでいいですか」
「うん、ありがとう」
「今日、朝倉くん、ちょっと顔違いません?」
遥はグラウンドを見た。
蓮はちょうど瀬川と受け位置を確認しているところだった。
「違うって?」
「うまく言えないですけど……昨日までより、考えてる顔してるっていうか」
西野は少し困ったように笑う。
「昨日の最後、ちょっと変でしたよね」
「変って」
「いや、すごかったって意味です。なんか、バトンが触れる前に、つながったみたいな」
遥は何も言わなかった。
同じものを見た人間が、自分以外にもいたのだと分かったからだ。
「西野くんも、そう見えたんだ」
「はい。気のせいかもしれないですけど」
「ううん。気のせいって決めなくていいと思う」
そう返してから、遥は自分で少し驚いた。
今までなら、もっと曖昧に濁していたかもしれない。
でも、見てしまったものは、なかったことにはできない。
◆
「いきます」
瀬川の声。
真壁がスタートを切る。
遥はタイマーを押し、目で追う。
真壁の勢いを瀬川が受ける。
瀬川の整ったリズムを蓮が受ける。
その流れは前よりずっとましになっている。
けれど、まだ少し硬い。
蓮は今日も速い。
第三コーナーから第四コーナーにかけて、苦しさで落ちるはずの場所を、落ちずに押し切る。
そこだけ見れば、やっぱり中学の頃と変わらない。
変わっているのは、最後だった。
神崎が手を開く。
蓮の肩が、ほんの少しだけ固くなる。
パシ。
つながった。
けれど、昨日みたいな妙なずれは起きない。
音は普通に鳴って、流れも普通に続く。
良くなってはいる。
でも、まだ届かない。
神崎が戻ってくる。
「今のは悪くない」
短い言葉だった。
真壁が肩で息をしながら言う。
「悪くない、で止まってる感じなんだよな」
「そうですね」
瀬川が頷く。
「崩れてはいないです。でも、揃いきってないです」
蓮は何も言わない。
息を整えながら、さっきの手の感触だけを確かめるみたいに右手を見ている。
遥はノートに書く。
崩れない。
でも揃わない。
そして、その下にもう一行。
揃うときだけ、音の順番が変わる。
書いてから、少しだけためらう。
変なことを書いている自覚はある。
けれど、それ以外の言葉が見つからない。
◆
練習の合間、神崎が一人でトラックの線を見ていた。
遥は少し迷ってから、その近くまで行く。
「神崎先輩」
「何だ」
「昨日の最後のやつ、先輩も気づいてましたか」
神崎はすぐには答えなかった。
少しだけ視線を落としてから、静かに言う。
「気づいてる」
「何なんですか、あれ」
「まだ分からない」
神崎はそう言って、すぐに続けた。
「でも、技術だけじゃないのは確かだ」
その答えは、遥が思っていたよりずっと正直だった。
「四人の流れが、一瞬だけきれいに重なったんだと思う」
「重なった」
「狙ってやれるものじゃない。今のところは」
神崎はそこで、トラックの向こうにいる蓮を見る。
「朝倉はまだ、自分一人で走る癖が抜けきってない。 でも、昨日の最後だけは違った」
遥は神崎の横顔を見た。
この人は、分からないまま分からないと言えるのだと思った。
だからこそ信じられる。
「宮坂」
「はい」
「見ててくれ」
その一言に、遥は少しだけ目を見開く。
「お前が拾えるものもある」
それだけ言って、神崎はまた全員を集めに行った。
見ているだけ。
その言葉はずっと、遥の中で少し苦かった。
何もしていないみたいで。
走れない側の言い訳みたいで。
でも今、少しだけ意味が変わる。
見ているから拾えるものがある。
言葉にならないずれを、見ている側だけが先に知ることもある。
◆
練習の終わり際、蓮がトラックの外で一人、靴紐をほどいていた。
遥はその隣にしゃがむ。
「今日、昨日のやつ来なかったね」
蓮は少しだけ顔を上げる。
「……お前、それ見て分かるのか」
「見てるから」
「便利だな」
「便利じゃないよ。分かっても、走れないし」
その返しに、蓮は一瞬だけ黙った。
「でも、今日の蓮は昨日よりちゃんと渡せてた」
「ちゃんと、ってほどじゃない」
「昨日の最後みたいなのを毎回出せるわけじゃないでしょ」
「……まあ」
「なら、今日は今日でいいんじゃない」
蓮は靴紐を見たまま言う。
「中途半端だろ」
「中途半端で進んでる日もあるよ」
その言葉に、蓮は少しだけ苦そうに笑った。
笑ったというより、困ったみたいに息を吐いただけかもしれない。
「お前、たまにそれっぽいこと言うな」
「たまにしか言わないから」
立ち上がって先に歩きながら、遥は振り返らずに言った。
「見てるだけの人間、なめないでよ」
その背中に、蓮は返事をしなかった。
でも追いかけてきた足音が、少しだけ近かった。
◆
夜、遥はノートを開いた。
朝倉蓮 走りは戻っている。
最後だけ固くなる。
昨日の最後の感覚は、今日は来ない。
少し考えて、続きを書く。
でも、来なかったから無意味じゃない。
来ない日を見ていると、来る条件が少しだけ分かる。
さらに一行。
見ているだけでも、拾える秒がある。
書き終えてから、遥はペンを置いた。
窓の外はもう暗い。
同じ一秒に入る、ということ。
それがただの比喩じゃないのかもしれないと、遥はまだ誰にも言わずにいた。




