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シンクロ ― 0.1秒の残像 ―  作者: T.SUDO
Season1|マイル始動編
4/7

第4話 見ているだけ

見ているだけの人間にも、分かることがある。


宮坂遥がそれを知ったのは、ずっと前からだった。


たぶん、自分が走るより先に。



放課後、グラウンドの空気は少し湿っていた。


朝から曇っていたぶん、夕方になっても空は低いままで、赤いトラックだけが妙に色濃く見える。


遥はタイマーを首から下げ、ノートを開いた。


神崎に言われたメニューを端に書いて、走順の欄を確認する。


一走 真壁 二走 瀬川 三走 朝倉 四走 神崎


西野は今日も記録補助と給水。


正式に組む四人ではない。


けれど、いないことにもできない。


「宮坂さん、次の本数、二本で合ってますか」


瀬川が近くで聞いてくる。


「はい。神崎先輩、さっきそう言ってました」


「ありがとうございます」


瀬川はそれだけ言って、すぐにトラックへ戻る。


声を荒げることもなく、必要なことだけをきちんと受け取っていく人だ。


真壁はスタート位置で足を鳴らしている。


落ち着きがないのではなく、じっとしていられないのだと分かる。


前へ出るための気持ちが、あの人はいつも先に身体に出る。


神崎は変わらず静かだ。


静かなまま、誰がどこで崩れているかだけを見ている。


そして、蓮。


少し離れた場所で、肩を回している。


話すときは短い。


見ているときはもっと静かだ。


けれど、走り出した瞬間だけ、あの人は別の形になる。


遥はペン先を止めた。


——昔から、そうだった。



中学の頃、蓮の四百はよく目立った。


派手だからではない。


大きく手を振るわけでも、最初から飛ばしすぎるわけでもない。


でも、二百を越えたあたりから急に、同じレースの中に別の流れが入ってくるみたいだった。


第三コーナーに入って、他の選手がきつそうに肩を上げる。


第四コーナーにかけて、みんなのフォームが少しずつ崩れる。


その場所でだけ、蓮は前へ出た。


無理をしているように見えないのに、差がつく。


追い上げるというより、相手の時間を静かに追い越していく感じだった。


だから、あの日も勝つと思っていた。


みんながそう思っていた。


遥も、たぶん蓮自身も。


なのに、止まった。


白線の手前で、ほんの一歩だけ。


あれが疲れや故障じゃないことくらい、見ていた遥には分かった。


あのときから、ずっと考えていた。


どうして止まったのか。


どうして、あんな顔をしたのか。


でも、訊けなかった。


訊いてしまったら、あの日の蓮を本当に見てしまう気がしたからだ。



「宮坂さん」


声をかけられて、遥は現実に戻る。


西野が給水ボトルを持って立っていた。


「これ、並べときます。ここでいいですか」


「うん、ありがとう」


「今日、朝倉くん、ちょっと顔違いません?」


遥はグラウンドを見た。


蓮はちょうど瀬川と受け位置を確認しているところだった。


「違うって?」


「うまく言えないですけど……昨日までより、考えてる顔してるっていうか」


西野は少し困ったように笑う。


「昨日の最後、ちょっと変でしたよね」


「変って」


「いや、すごかったって意味です。なんか、バトンが触れる前に、つながったみたいな」


遥は何も言わなかった。


同じものを見た人間が、自分以外にもいたのだと分かったからだ。


「西野くんも、そう見えたんだ」


「はい。気のせいかもしれないですけど」


「ううん。気のせいって決めなくていいと思う」


そう返してから、遥は自分で少し驚いた。


今までなら、もっと曖昧に濁していたかもしれない。


でも、見てしまったものは、なかったことにはできない。



「いきます」


瀬川の声。


真壁がスタートを切る。


遥はタイマーを押し、目で追う。


真壁の勢いを瀬川が受ける。


瀬川の整ったリズムを蓮が受ける。


その流れは前よりずっとましになっている。


けれど、まだ少し硬い。


蓮は今日も速い。


第三コーナーから第四コーナーにかけて、苦しさで落ちるはずの場所を、落ちずに押し切る。


そこだけ見れば、やっぱり中学の頃と変わらない。


変わっているのは、最後だった。


神崎が手を開く。


蓮の肩が、ほんの少しだけ固くなる。


パシ。


つながった。


けれど、昨日みたいな妙なずれは起きない。


音は普通に鳴って、流れも普通に続く。


良くなってはいる。


でも、まだ届かない。


神崎が戻ってくる。


「今のは悪くない」


短い言葉だった。


真壁が肩で息をしながら言う。


「悪くない、で止まってる感じなんだよな」


「そうですね」


瀬川が頷く。


「崩れてはいないです。でも、揃いきってないです」


蓮は何も言わない。


息を整えながら、さっきの手の感触だけを確かめるみたいに右手を見ている。


遥はノートに書く。


崩れない。


でも揃わない。


そして、その下にもう一行。


揃うときだけ、音の順番が変わる。


書いてから、少しだけためらう。


変なことを書いている自覚はある。


けれど、それ以外の言葉が見つからない。



練習の合間、神崎が一人でトラックの線を見ていた。


遥は少し迷ってから、その近くまで行く。


「神崎先輩」


「何だ」


「昨日の最後のやつ、先輩も気づいてましたか」


神崎はすぐには答えなかった。


少しだけ視線を落としてから、静かに言う。


「気づいてる」


「何なんですか、あれ」


「まだ分からない」


神崎はそう言って、すぐに続けた。


「でも、技術だけじゃないのは確かだ」


その答えは、遥が思っていたよりずっと正直だった。


「四人の流れが、一瞬だけきれいに重なったんだと思う」


「重なった」


「狙ってやれるものじゃない。今のところは」


神崎はそこで、トラックの向こうにいる蓮を見る。


「朝倉はまだ、自分一人で走る癖が抜けきってない。 でも、昨日の最後だけは違った」


遥は神崎の横顔を見た。


この人は、分からないまま分からないと言えるのだと思った。


だからこそ信じられる。


「宮坂」


「はい」


「見ててくれ」


その一言に、遥は少しだけ目を見開く。


「お前が拾えるものもある」


それだけ言って、神崎はまた全員を集めに行った。


見ているだけ。


その言葉はずっと、遥の中で少し苦かった。


何もしていないみたいで。


走れない側の言い訳みたいで。


でも今、少しだけ意味が変わる。


見ているから拾えるものがある。


言葉にならないずれを、見ている側だけが先に知ることもある。



練習の終わり際、蓮がトラックの外で一人、靴紐をほどいていた。


遥はその隣にしゃがむ。


「今日、昨日のやつ来なかったね」


蓮は少しだけ顔を上げる。


「……お前、それ見て分かるのか」


「見てるから」


「便利だな」


「便利じゃないよ。分かっても、走れないし」


その返しに、蓮は一瞬だけ黙った。


「でも、今日の蓮は昨日よりちゃんと渡せてた」


「ちゃんと、ってほどじゃない」


「昨日の最後みたいなのを毎回出せるわけじゃないでしょ」


「……まあ」


「なら、今日は今日でいいんじゃない」


蓮は靴紐を見たまま言う。


「中途半端だろ」


「中途半端で進んでる日もあるよ」


その言葉に、蓮は少しだけ苦そうに笑った。


笑ったというより、困ったみたいに息を吐いただけかもしれない。


「お前、たまにそれっぽいこと言うな」


「たまにしか言わないから」


立ち上がって先に歩きながら、遥は振り返らずに言った。


「見てるだけの人間、なめないでよ」


その背中に、蓮は返事をしなかった。


でも追いかけてきた足音が、少しだけ近かった。



夜、遥はノートを開いた。


朝倉蓮 走りは戻っている。


最後だけ固くなる。


昨日の最後の感覚は、今日は来ない。


少し考えて、続きを書く。


でも、来なかったから無意味じゃない。


来ない日を見ていると、来る条件が少しだけ分かる。


さらに一行。


見ているだけでも、拾える秒がある。


書き終えてから、遥はペンを置いた。


窓の外はもう暗い。


同じ一秒に入る、ということ。


それがただの比喩じゃないのかもしれないと、遥はまだ誰にも言わずにいた。

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