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シンクロ ― 0.1秒の残像 ―  作者: T.SUDO
Season1|マイル始動編
3/7

第3話 渡せない

うまく受け取れないんじゃない。


うまく渡せないのだと、朝倉蓮がはっきり思い知ったのは、その週の三日目の練習だった。


放課後のグラウンドは、昨日より風が強かった。


校舎の影が長く伸びて、トラックの半分がもう薄く暗い。


白線だけが静かに残っていて、誰かが今日もそこを走るのだと、何も言わずに示している。


蓮はバッグを足元に置き、スパイクの紐を引いた。


指先が少しだけ固い。


緊張しているのだと気づいて、余計に腹が立つ。


ほんの数日前まで、自分はここに入るつもりなんかなかった。


走るつもりも、戻るつもりもなかった。


それなのに今は、教室にいるより、このグラウンドのほうが少しだけ呼吸しやすい。


「朝倉くん、今日は流しのあと、すぐ合わせるみたいです」


瀬川がタイム表を片手に声をかけてきた。


相変わらず、静かなのによく通る声だった。


「はい。分かりました」


「昨日より一本多くやると思います。たぶん、神崎先輩がそういう顔をしてるので」


言われて蓮が顔を上げると、たしかに神崎はホワイトボードの前で腕を組み、何かを考えていた。


その少し離れたところで、真壁があからさまに不満そうな顔をしている。


「顔で分かるんですか」


「分かります。真壁も分かりやすいですけど」


ちょうどその真壁がこちらを見て、眉をひそめた。


「聞こえてるからな」


「すみません」


「謝るなら最初から言うなよ」


瀬川は少しだけ笑って、それ以上は返さなかった。


「今日はたぶん、朝倉くんの後ろを長く見ることになると思います」


「後ろ、ですか」


「はい。受ける方じゃなくて、渡す方です」


その言葉で、蓮の腹の奥がわずかに重くなる。


昨日から、何度も考えていた。


自分は受け取ることはできる。


瀬川から来る流れを受けて、自分の区間へ入るところまでは、まだ何とかなる。


けれど、そこから先だ。


自分の四百を走り切ったあと、神崎へ渡す直前になると、身体のどこかが微妙に止まる。


慎重になるのか、怖くなるのか、自分でも分からない。


ただ、そこで流れが濁る。


昨日の最後に起きた、あの妙な静けさ。


音より先に、つながった気がしたあの一瞬は、まだ一度も来ていなかった。



「今日はフルで回す」


神崎が全員を集めて言った。


「一走、真壁。二走、瀬川。三走、朝倉。四走、俺。走順は変えない」


真壁がすぐに口を開く。


「まだ固定なんすか」


「そうだ」


「朝倉、昨日も最後のとこ詰まってたじゃないですか」


「知ってる」


「知っててやるんすか」


神崎はすぐには答えず、少しだけ蓮を見た。


「知ってるからやる」


短く、それだけだった。


真壁は納得していない顔をしたが、それ以上は言わなかった。


言ったところで変わらないと分かっているのだろうし、何より、競技の話をしている以上は、最後は走りで示すしかないと思っているのだろう。


そのあたりは、蓮にも少し分かる。


「西野、今日は記録と給水を頼む」


「はい!」


グラウンドの端から西野の声が返る。


制服の上から部のウィンドブレーカーだけを羽織っていて、まだ完全にこちら側に入っていない感じが、逆に今の立場をよく表していた。


遥は少し離れた場所でノートを開いている。


首にはタイマー。


目だけが、いつもより少し静かだった。



一本目。


真壁のスタートは相変わらず鋭い。


爆発するように前へ出て、その勢いのままレーンを押し切ってくる。


瀬川が受ける。


真壁の荒い勢いを、自分の区間にきちんと馴染ませる。


大きく見せないのに、流れの整理がうまい。


そして蓮の番が来る。


「朝倉くん!」


瀬川の声が飛ぶ。


蓮は受け位置で半身になり、肩越しに一度だけ距離を確かめた。


掌を開く。


近づいてくる足音と、呼吸と、タイミング。


パシ。


受ける。


そこまでは悪くない。


最初の一歩だけ、やはり少し重い。


それでも二歩目、三歩目で押し戻し、第三コーナーへ入る。


苦しい。


脚の内側に熱がたまる。


四百のいちばん嫌なところが、ちょうどこのあたりから始まる。


それでも蓮はペースを落とさない。


第四コーナーへ入ってもフォームはくずれなかった。


速い。


自分でもそう思う。


久しぶりでも、ブランクがあっても、走りそのものはまだ死んでいない。


むしろ、走っている間だけは変に静かになれる。


問題は、そのあとだった。


第4コーナーを抜け、ホームストレートがまっすぐ開ける。


前には神崎がいる。


神崎が一度だけ後ろを確認し、手を開く。


そこへ合わせる。


合わせようとする。


その瞬間に、蓮の中で何かが詰まる。


速すぎるかもしれない。


近すぎるかもしれない。


雑に入れたら、流れが壊れるかもしれない。


そう考えたわけじゃない。


でも身体は、一拍だけ慎重になった。


その一拍で十分だった。


神崎の手に届く直前で、流れが死ぬ。


「……すみません!」


渡せないわけじゃない。


落としたわけでもない。


けれど、つながっていない。


神崎は走り切ったあと、振り返りもせずに言う。


「もう一本」


その声は怒っていなかった。


だから余計に、蓮にはきつかった。



二本目。


三本目。


結果は似た。


瀬川から受けるところまでは大きく崩れない。


自分の区間も走れる。


第三コーナーから第四コーナーにかけての伸びも悪くない。


けれど最後だけがだめだった。


神崎の手が見える。


そこへ出せばいい。


分かっているのに、渡す直前でほんの少し、自分の走りを守ってしまう。


ぶつけないように。


乱さないように。


失敗しないように。


その全部が、結局は流れを切る。


四本目が終わったところで、真壁がとうとう堪えきれなくなった。


「だから言ったじゃん」


苛立ちを押し殺しきれない声だった。


「速いのは分かるよ。走れるのも分かる。けど、それでリレー入って、最後つながんないなら意味ないだろ」


誰もすぐには返さなかった。


夕方の風だけが吹いて、白線の上を静かに抜ける。


真壁は続けた。


「こっちは遊びでやってるわけじゃないんだよ。朝倉が悪いっていうより、こんな中途半端なまま入れるのが――」


「真壁」


瀬川が珍しく、少しだけ強い声を出した。


「言いたいことは分かります。でも、朝倉くんも分かってると思います」


「分かっててこれなんだろ」


その一言は、まっすぐ蓮に刺さった。


分かっている。


自分がつなげていないことくらい、誰より自分が分かっている。


だから何も言い返せない。


黙ったままの蓮を見て、真壁がさらに苛立ったように顔をしかめる。


「何か言えよ」


「……すみません」


「そういうことじゃない」


真壁はそこで言葉を止めた。


本当は怒鳴りたいわけじゃないのだろう。


ただ、この空気の重さを、誰かにちゃんと引き受けてほしいだけだ。


神崎がタオルを肩にかけたまま、蓮を見る。


「朝倉」


「はい」


「お前、最後で何を止めてる」


問いは短いのに、逃げ場がなかった。


「……分かりません」


「分からないまま走るな」


静かな声だった。


「受けるときは入れてる。区間も走れてる。 なのに最後だけ、自分の足を一回守る」


図星だった。


蓮は口の中が乾いていくのを感じる。


「守ってるつもりは、ないです」


「つもりの話はしてない」


神崎は怒らない。


責めるでもない。


ただ、事実だけを置いてくる。


「渡す直前だけ、お前は自分の走りに戻る」


その言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。


だが、身体のどこかはもう理解していた。


自分の走りに戻る。


それはたぶん、ずっと蓮がやってきたことだ。


一人で走る。


一人で前へ出る。


一人で終わらせる。


けれどリレーは、その逆を求めてくる。


「休憩入れる」


神崎がそう言って全員を散らした。



給水タンクの横で、蓮は紙コップをつぶしかけた。


「朝倉くん」


瀬川が隣に来る。


「……すみません」


「謝らなくていいです。真壁も言い方は強いですけど、言ってること自体は間違ってないので」


「はい」


「でも、たぶん技術だけじゃないです」


瀬川はグラウンドを見たまま言った。


「朝倉くん、渡す直前だけ一回、呼吸が変わります」


「呼吸、ですか」


「はい。受けてから第三コーナーまでは、まだ同じ流れの中にいます。 でも神崎先輩が見えて、渡す段になると、一人でまとめようとします」


一人でまとめようとする。


それは神崎の言葉と、ほとんど同じだった。


「そんなつもり、ないんですけど」


「分かってます」


瀬川は即答した。


「だから難しいんだと思います」


その声音は責めるものではなかった。


分析に見えて、その実、かなり優しい。


「つなぐときって、自分の区間をちゃんと走った上で、最後に手放さないといけないじゃないですか」


「……はい」


「大事なものほど、ちゃんと持とうとしてしまうので」


そこで瀬川は少し言葉を探すみたいに黙ったあと、静かに続けた。


「でも、ちゃんと持とうとしすぎると、今度は渡せなくなります」


蓮は紙コップを見た。


へこませないように持っていたはずなのに、いつのまにか指先に力が入りすぎている。


たぶん、そういうことなのだ。



少し離れた場所で、真壁が一人でスタブロの位置を蹴っていた。


乱暴というより、やり場のない苛立ちを地面に落としているみたいだった。


そこへ西野がそっと近づく。


「真壁先輩、スポドリ置いときます」


「ん」


「……怒ってます?」


「見りゃ分かるだろ」


西野は困ったように笑う。


「でも、朝倉くん速いですよね」


「速いよ」


真壁は即答した。


「だから余計むかつくんだよ」


その言葉には、嫌味だけではない何かがあった。


「速いなら速いで、ちゃんとつないでくれよって思うだろ。 こっちは、それを期待しちまうから」


西野は何も言わなかった。


真壁はスポドリをひったくるように受け取って、一気に半分ほど飲んだ。


「……すみません。俺が毎回出られたら」


「お前のせいじゃない」


真壁はすぐに言った。


「それとこれは別」


西野が少しだけ目を伏せる。


そのやりとりを、遥はノート越しに見ていた。



休憩が終わる。


「最後、朝倉と俺だけでやる」


神崎が言った。


「真壁、瀬川、一本流して見ててくれ」


真壁が不満そうに眉を上げる。


「それで変わります?」


「変える」


神崎は短く言って、蓮に向き直った。


「朝倉。今度は速さを落とすな」


「でも、それだと――」


「ぶつかると思ってるなら、ぶつからない位置に俺が入る」


神崎は手のひらを見せた。


「お前は合わせるな。切るな。持ってきたものを、そのまま出せ」


言われた意味は分かる。


分かるのに、怖い。


雑になることが怖い。


壊すことが怖い。


自分のせいでつながらないと決定するのが怖い。


でも、今の自分は、それを怖がることで確実につなげなくしている。


「……はい」



一本だけの、確認だった。


神崎が先に受け位置へ入る。


蓮は少し離れたところから、区間終盤だけを想定して走り出す。


第三コーナー。


第四コーナー。


やはり、苦しい。


だがペースは落とさない。


フォームもくずれない。


ホームストレートへ入る。


神崎が見える。


初日の最後みたいな静けさは、まだ来ない。


世界はうるさいままだ。


呼吸も荒い。


足音も聞こえる。


心臓もうるさい。


それでも蓮は今までより少しだけ、余計な計算をしなかった。


神崎が後ろを確認し、手を出す。


そこへ向かう。


合わせるのではなく、切らずに持っていく。


近い。


速い。


それでも蓮は、最後でためらわなかった。


バトンが触れる。


パシ。


音は普通だった。


あの、ぞくっとする異様さはない。


それでも。


神崎が一歩目で前へ抜けた。


流れが、死ななかった。


完全ではない。


きれいでもない。


でも、今までよりずっとましだった。


神崎が戻ってきて、短く言う。


「今のだ」


蓮は息を切らしたまま、神崎を見る。


「前の何かじゃなくていい。まずは今のを外すな」


前の何か。


神崎も、あれを完全には言葉にしていない。


でも、なかったことにはしていない。


その事実だけで、蓮は少しだけ救われた。



日がかなり傾いたころ、最後にもう一度だけフルで回した。


真壁。


瀬川。


蓮。


神崎。


一本前よりも、流れはましだった。


真壁の勢いを瀬川が整理し、瀬川の呼吸を蓮が受ける。


蓮は第三コーナーから第四コーナーを押し切る。


そして最後、神崎へ渡す。


完璧ではなかった。


ただ、その瞬間だけだった。


神崎の掌が開く。


蓮の足が白線をかすめる。


後ろで誰かが息をのむ。


ほんの一瞬だけ、音の輪郭が薄くなる。


風も、足音も、喉の奥の痛みも、全部消えたわけじゃない。


ただ、それらの順番だけがわずかに揃った。


神崎の手。


自分の呼吸。


一歩先に出るはずの足。


その三つが、ぴたりと重なった気がした。


バトンが触れるより前に、つながる感覚だけが先に来る。


――来た。


蓮がそう思った次の瞬間には、パシ、という音が遅れて鳴っていた。


ほんの一拍。


ほんの一瞬。


でも確かに、世界のほうがあとからついてきた。


「……今」


小さく声を漏らしたのは瀬川だった。


真壁も何か言いかけて、言葉を飲み込む。


神崎は前へ出たあと、走り切ってから振り返る。


誰も、すぐには喋らなかった。


説明がつかないからだ。


タイムで見れば誤差かもしれない。


技術で言えばたまたまかもしれない。


それでも、その場にいた全員が、何かがずれたことだけは分かっていた。


先に起きたのは、音じゃない。


たぶん、つながったという感覚のほうだ。


「……何ですか、今の」


西野が、遠くからぽつりと言った。


神崎は少しだけ息を整えてから、短く答える。


「まだ、言葉にしなくていい」


その返し方が、余計に本当らしかった。



片づけのあと、真壁が蓮の前に立った。


夕方の光が落ちて、表情は半分くらい影の中だ。


「朝倉」


「はい」


真壁は少しだけ迷ったように視線を外し、それからぶっきらぼうに言った。


「さっきの、あれ」


「……はい」


「別に、認めたわけじゃない」


蓮は少しだけ目を伏せる。


昨日も聞いた言葉だった。


けれど今日は、その続きがあった。


「でも、お前が速いのは分かったし、さっき一回だけちゃんとつながったのも分かった」


真壁は眉を寄せたまま続ける。


「だから次、外すなよ」


それは励ましではない。


優しさでもない。


けれど、蓮には十分だった。


「……はい」


「その“はい”だけは素直なんだよな」


そう言って真壁は先に歩き出す。


完全に機嫌が直ったわけではない。


でも、怒りの向きが少し変わったのは分かった。



帰り際、部室の外で遥がノートを閉じたまま言った。


「今日は、二回あった」


「何が」


「一回は、ちゃんと渡せたやつ。もう一回は、ちょっと変だったやつ」


蓮は立ち止まる。


「……見て分かるのか」


「見てたから」


遥はそれ以上、断定しなかった。


きっと言い切れないのだろう。


でも、見間違いとも思っていない顔だった。


「蓮さ」


「何だよ」


「渡せないんじゃなくて、渡すのが怖いんじゃないの」


やさしい言い方だった。


だからこそ、逃げられない。


蓮はすぐには答えなかった。


答えたら、たぶん本当にそうなってしまう気がした。


遥は無理に待たない。


「ちゃんと渡せない日って、下手だからじゃないと思う」


夕方の残り光の中で、遥は静かに言った。


「なくしたくないって思いすぎてるだけかもしれない」


その言葉は、不思議と説教に聞こえなかった。


ただ、蓮の中にあるものの輪郭を少しだけなぞった。


「……分かったみたいに言うな」


「分かんないよ。見てるだけだし」


「じゃあ言うなよ」


「でも、見てると分かることもある」


そう言って遥は先に歩き出した。


蓮はその背中をすぐには追わなかった。


グラウンドのほうを見る。


あの一瞬は、たしかにあった。


偶然かもしれない。


思い込みかもしれない。


でも、あれがただの錯覚なら、瀬川も真壁も西野も、あんな顔はしなかったはずだ。


つながる前に、つながった気がする。


音より先に、感覚だけが来る。


それが何なのか、まだ分からない。


ただ一つだけ、少しずつはっきりしてきた。


自分は速く走れないのではない。


渡せないのでもない。


たぶん、最後に手を離すことだけが、まだ怖いのだ。



その夜、遥はノートに書いた。


朝倉蓮 受けることはできる。


走ることもできる。


渡す直前だけ、自分の走りに戻る。


だから流れが切れる。


少し空けて、次の行。


でも今日、一度だけ


「渡す」


より先に


「つながる」


が来た。


さらに、その下に小さく書き足す。


(少し考えてから)


一瞬だけ、四人の呼吸と音が揃っていた。


足音が、ひとつに重なった気がした。


もう一行、迷うように書く。


……仮に、これを


「シンクロ」と呼ぶなら。


シンクロは、たぶん技術だけじゃ起きない。


誰かが一人で終わろうとしたら、たぶん消える。


ペン先が止まる。


遥は窓の外を見た。


夜のどこかに、まだ夕方の残りがある気がした。


同じ一秒に入れたときだけ、あとから残るものがある。


もしそれが本当にあるのだとしたら。


蓮が止まった理由も、いつかそこに触れるのかもしれないと、遥はまだ言葉にならないまま思っていた。

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