第2話 3走
翌日の放課後、蓮はまた渡り廊下に立っていた。
来るつもりはなかった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
なのに足は昨日と同じ場所へ来ていて、同じ景色を探している。
赤いトラック。
白いライン。
夕方の風。
一度その中に入ったせいで、見えるものの輪郭が少し変わってしまった。
昨日の最後の受け渡しだけが、まだ身体のどこかに残っていた。
うまくいった、という感覚とは違う。
速かった、という記憶とも違う。
あの一瞬だけ、自分の身体の外側で時間がつながったような気がした。
でも、それが何だったのかは言葉にできない。
言葉にした途端、ただの思い込みになってしまいそうだった。
「蓮、今日も走るの」
背後からの声に、蓮は振り向かない。
「お前、それ言うために待ってたのか」
「半分はそう」
遥が隣に並ぶ。
今日は首からタイマーを下げていた。
「マネージャーみたいだな」
「みたい、じゃなくて手伝い。人が足りないから」
そう言ってから、遥は少しだけグラウンドを見る。
「で、今日も走るの」
「知らない」
「昨日、はいって返事してた」
「……あれは流れだろ」
「流れに入ったってことじゃん」
言い返せずにいると、下から神崎の声が飛んだ。
「朝倉、降りてこい」
昨日より長くためらって、それでも結局、蓮は階段を下りた。
◆
グラウンド脇のホワイトボードには、チョークで走順が書かれていた。
一走 真壁 二走 瀬川 三走 朝倉 四走 神崎
その中にある自分の名前を、蓮は少しのあいだ見てしまった。
昨日一本だけ混ざっただけの人間の名前が、最初からそこにあるみたいに並んでいる。
「ちょっと待ってください」
真壁の声が先に出た。
「なんで朝倉が入るんすか。昨日一本走っただけですよね」
「速いのは分かります。でも、だからっていきなりリレーメンバー扱いはおかしくないですか」
怒っている理由は明確だった。
神崎が嫌いだからではない。
朝倉に才能があるのが気に入らないからでもない。
自分たちはずっとここで合わせてきた。
それなのに、途中から来たやつが急に同じ列に入ってくる。
その扱いへの反発だった。
神崎はチョークを置いて振り返る。
「西野は毎回出られる前提で組めない。そこはもう分かってるな」
真壁は黙る。
西野の事情を責めたいわけではないから、そこで強くは返せない。
瀬川がホワイトボードを見たまま言った。
「三走、なんですね」
「そうだ」
神崎の返事は短かった。
「朝倉は速い。けど、速いだけなら今の位置じゃない」
蓮は思わず顔を上げる。
真正面からそう言われると、受け止め方が分からない。
「三走は真ん中だ」
神崎は続ける。
「自分で始められない。自分で勝手に終われない。前から受け取って、自分の区間を作って、次へつなぐ。 途中をごまかせない役だ」
トラックを風が抜ける。
真壁が不満そうに息を吐く。
「だから朝倉なんですか」
「そうだ」
神崎は迷わなかった。
「終わらせる力があるやつより、つなぐ痛みを知ってるやつを真ん中に置きたい」
その言葉で、蓮の喉の奥がわずかに詰まる。
見抜かれたと思ったわけじゃない。
でも、近いところまで触れられた気がした。
◆
練習は最初から受け渡しの確認だった。
ただし、神崎が見たいのは単純な受け渡しの巧拙じゃない。
受けたあと、どれだけ自然に区間へ入れるか。
前走者から来た流れを、どれだけ切らずに自分の四百へ繋げられるか。
その一点だった。
直線の一角を使って、瀬川と蓮が向かい合う。
目印の位置。
肩の向き。
加速の入り方。
掌の出し方。
マイルの受け渡しは、見えないまま賭けるものじゃない。
互いの位置を見て、呼吸を合わせて、確実に流れへ入るためのものだ。
「朝倉くん、僕の声が聞こえたら一度だけ確認してください」
瀬川が言う。
「完全に振り向かなくて大丈夫です。肩越しに距離が分かれば十分です」
「はい、瀬川先輩」
その呼び方を口にした瞬間、蓮はようやく自分がこの場の後輩なのだと実感した。
昨日はただ混ざっただけだった。
今日は、順番の中に名前を置かれている。
「じゃあ行きます」
瀬川が走り出す。
静かなフォームなのに、近づいてくる圧が強い。
真壁の爆発力とは違う。
崩れない速さだった。
「朝倉くん!」
声に合わせて、蓮は半身で一度だけ距離を確認する。
掌を開き、速度を合わせる。
パシ。
受けること自体は、できる。
だが、次だ。
バトンを握った瞬間、蓮の中で時間が一度だけ引っかかる。
前の走者から来た流れを、自分の脚へ移しかえるところでほんの少し遅れる。
分からないほど小さい。
でも、リレーの中では確実に流れを濁らせる遅れだった。
昨日みたいな、妙な静けさは来ない。
見える。
聞こえる。
受け渡しはできる。
けれど、あの一瞬だけ身体の外側で何かが揃ったような感覚は、今日はどこにもなかった。
「今です」
瀬川が息を整えながら言う。
「朝倉くん、受けるまでは悪くないです。受けたあと、一歩目だけ少し重いです」
「……はい」
「怖いですか」
率直すぎる問いに、蓮はすぐには答えられなかった。
「……分かりません。ただ」
「ただ?」
「受け取るところまでは、まだ大丈夫なんです。前の人が持ってきたものだから」
「でも、そのあと自分の区間として前に運んで、最後に次へ渡すところまで考えると、少し詰まります」
単純に、受けるのが苦手とか渡すのが得意とか、そういう話じゃない。
預かったものを、自分の責任で走らせることが怖いのだ。
瀬川が小さくうなずく。
「なるほど。なら、受け渡しそのものより、受けたあとの三歩を揃えたほうがいいかもしれません」
言葉の選び方が正確で、逃げ場がない。
神崎が横から入ってくる。
「瀬川、そのままでもう二本」
「はい」
少し離れて見ていた真壁が、たまらず口を開いた。
「でも三走って、一番ごまかせないとこじゃないですか」
「朝倉、受けたあと詰まるのに、そこ置くんですか」
神崎は否定しなかった。
「置く」
「なんでです」
「危ないからだ」
真壁が眉を寄せる。
蓮にもすぐには意味が分からない。
「危なくない場所に逃がしても、朝倉の中身は変わらない」
神崎はトラックの線を見ながら言った。
「三走は、前の流れを受ける。自分の区間を崩さず走る。最後に次へ渡す。 始めるだけでも、終えるだけでもない。真ん中全部を引き受ける役だ」
そして神崎は、はっきりと言った。
「終わらせるより、つなぐ方が難しい」
夕方の空気の中で、その言葉だけが静かに残った。
「ゴールなら、一人で飛び込めばいい。 でも、つなぐっていうのは自分の走りだけじゃ完結しない。前の苦しさも、次の怖さも、一緒に持つってことだ」
蓮は目を伏せる。
今まで誰かにそんなふうに言われたことはなかった。
速いとか、もったいないとか。
そういう言葉は聞いた。
でも、つなぐ方が難しいと言われたのは初めてだった。
◆
休憩のあいだ、西野が給水ケースを運んできた。
制服のままで、まだジャージにも着替えていない。
「すみません、補習長引いて」
「気にしなくていい」
神崎が受け取る。
西野は蓮に気づくと、少しだけ目を丸くした。
「朝倉くん、今日も走るんだ」
「……まあ、少しだけ」
「昨日、すごかったです」
まっすぐ言われて、蓮は返事に困る。
西野はレギュラーを取られた顔ではなかった。
むしろ本気で嬉しそうにしている。
それが少し苦しかった。
真壁はその様子を見て、何か言いたげにしていたが、結局黙った。
怒っているのは西野のためでもあるのだろう。
そう思うと、単純に嫌な人だとは思えなかった。
◆
練習の最後に、神崎が再びホワイトボードの前に立つ。
「もう一回、確認する」
チョークの先で、三走の欄を軽く叩いた。
「朝倉。ここは、しばらくお前だ」
言い切られて、蓮は息をのみ込む。
「自分、正式に入るとは……」
「まだ言ってないな」
神崎はあっさり認めた。
「けど、逃げるなら今だ。中途半端に入ると、お前もしんどいし、周りもしんどい」
それは脅しじゃなかった。
変に優しくもしない、本当のことだけだった。
遥が少し離れたところで、黙ってこちらを見ている。
瀬川は返事を待っている。
真壁は腕を組んだまま、不機嫌そうにしている。
西野は給水ケースの横で立ち止まっていた。
誰も急かさない。
でも、待っている。
止まることは、一人でできる。
けれど、つながるかどうかは一人では決められない。
蓮はゆっくり息を吐いた。
「……お願いします」
声は小さかった。
それでも、ちゃんと聞こえたらしい。
神崎がうなずく。
「分かった。じゃあまずは三走として覚えろ」
「はい」
真壁がそっぽを向いたまま言う。
「別に、認めたわけじゃないから」
「……はい」
「そこは素直に返すんだな」
少しだけ場がゆるむ。
瀬川が控えめに笑った。
「でも、良かったです。昨日より話しやすいです、朝倉くん」
「……昨日の自分、そんな感じでしたか」
「かなり」
蓮は顔をしかめる。
遥はその様子を見て、わずかに目を細めた。
◆
帰り際、ノートを閉じながら遥が言った。
「三走、似合うかもね」
「まだ何もできてないだろ」
「そうだけど。真ん中って、案外むずかしいし」
「知ってるみたいに言うな」
「見てれば分かるよ」
そこで遥は少しだけ言葉を切った。
「前に行くのが怖い人って、いるし」
蓮は足を止める。
けれど遥はそれ以上何も言わず、先に歩き出した。
夕方の風が吹く。
トラックの白線が、薄く伸びている。
昨日のあれは、まだ何でもない。
偶然かもしれない。
思い込みかもしれない。
再現できないなら、ただの錯覚と同じだ。
それでも、たしかに一度だけあった。
四人の息や足音や迷いが、ほんの一瞬だけ重なって、 そのあとにだけ残る、説明できない感覚。
0.1秒は、たぶん結果じゃない。
同じ一秒に入れたときだけ、あとから残る現象なんだと思う。
蓮はまだ、その答えを持っていない。
それでも昨日より少しだけ、逃げずに考えていた。
終わらせるより、つなぐ方が難しい。
その言葉が、帰り道のあいだじゅう、ずっと胸の内側で鳴っていた。




