第18話 南関へ
県大会マイル決勝。
スタート地点に並ぶ学校の顔ぶれは、予選よりさらに濃かった。
東陵大附属。
県上位の常連校。
その中に、県立潮見高校がいる。
一走、真壁。
二走、瀬川。
三走、朝倉蓮。
四走、神崎。
走順は変えない。
スタート前、神崎が言う。
「順位に飲まれるな。流れを見失うな」
真壁が短く返す。
「了解」
瀬川もうなずく。
「はい」
蓮は声を出さず、ただ一度だけ深く息を入れた。
号砲。
真壁が飛び出す。
予選より速い。
それでも無茶ではない。
前へ出ることを怖がらない真壁の良さが、そのまま一走に出ていた。
遥が思わず漏らす。
「真壁先輩、いい」
西野も身を乗り出す。
「すごい……」
真壁はラストで苦しくなる。
だが、落ち幅が小さい。
前を見たまま瀬川へ渡す。
瀬川が受けて、自分の区間のリズムへ集中する。
真壁が持ってきた勢いを殺さない。
それでいて、自分の呼吸へきちんと整える。
派手さではなく精度。
その区間に、県で残る二走の強さが出ていた。
「瀬川先輩、全然慌ててない」
西野が呟く。
遥が答える。
「慌てる時間を作ってないんだよ」
瀬川が戻ってくる。
蓮は待機位置で、その足音を聞いていた。
一定だ。
ぶれない。
呼吸が一本の線になって近づいてくる。
右手を出す。
その瞬間、世界の音が一枚だけ遠くなる。
風が横へ流れる。
スタンドのざわめきが消えたわけではない。
ただ、すべてがほんのわずかに遅れる。
来る。
そう思うより先に、掌へ重さが収まる。
蓮は一歩目へ入った。
軽い。
力が入っていないわけではない。
必要な分だけしか使っていない。
瀬川の区間が切れず、そのまま自分の脚へ入ってくる。
第一コーナー。
接地が流れない。
第二コーナー。
苦しいのに、乱れない。
バックストレートに出た瞬間、スタンドがざわめいた。
「誰だ、あれ」
「潮見の三走だろ」
「一年じゃなかったか?」
観客だけではない。
他校の選手たちまで、思わず顔を上げる。
蓮はもう聞こえていなかった。
ただ、前へ押す。
自分一人の速さにしないまま、前の二人が持ってきた流れをさらに伸ばす。
第三コーナーへ入る。
ここからが、蓮の四百だった。
苦しさを抱えたまま、ペースを落とさない。
第四コーナーへ入っても、フォームがくずれない。
今日の蓮は、いつもよりさらに伸びた。
他校の選手が思わず声を漏らす。
「まじかよ……」
「まだ伸びるのかよ」
第四コーナー。
その先に、神崎がいる。
待っているのではない。
もう次の区間へ入る準備を終えている。
神崎の掌が前へ出る。
蓮はその手を見ていなかった。
見なくても、そこにあると分かった。
触れるより先に、神崎の歩幅が蓮の呼吸へ重なる。
真壁が押し出した一走も、瀬川が崩さなかった二走も、その一瞬だけ確かに残っていた。
四人の足音が、一拍だけ同じ場所へ落ちる。
つながった、と思うより先に、体がそれを知った。
掌へ渡るはずの重みが、ほんの一瞬だけ消える。
蓮は前を向いたまま、走りを切らずにそのまま出す。
次いで、ほんのわずか遅れて音が来た。
パシ。
乾いたその音だけが、あとから現実へ追いついた。
神崎の体が前へ出る。
受け取ったというより、最初からそこへ続いていたみたいに。
スタンドがどよめく。
「今の、見たか?」
「バトン、止まってない……!」
「何だ、あの繋がり方……」
神崎はそのままアンカー勝負へ入る。
前方に東陵。
横に県上位常連校が並ぶ。
誰も崩れない。
だが神崎も崩れない。
四百ハードルで見せた、ずれたあとに戻す走り。
前の三区間が持ってきたものを、最後まで失わない走り。
ラスト五十。
神崎が一校をかわす。
もう一校に並ぶ。
最後はわずかに及ばない。
ゴール。
すぐには、誰も掲示板を見上げられなかった。
呼吸だけが荒い。
場内アナウンスも歓声も、耳には入るのに意味にならない。
数秒遅れて、順位が灯る。
東陵大附属、一着。
潮見は――五着。
六位以内。
その表示を見て、ようやく意味がつながる。
南関東大会出場。
そこで初めて、西野が息を吐いた。
「……行けた」
遥も、珍しく声を上げる。
「やった……!」
真壁が膝に手をついたまま笑う。
「まじかよ……県で、南関まで行くのか」
瀬川はまだ掲示板を見ていた。
「通りました。本当に」
蓮は動けなかった。
自分の呼吸が戻っていないからではない。
さっきの感覚が、まだ掌に残っていたからだ。
触れる前に、つながった。
音が遅れた。
あれは何だったのか。
神崎が戻ってくる。
息は荒い。
それでも目は落ち着いている。
「朝倉」
「はい」
「今のを忘れるな」
蓮は、少し遅れて答えた。
「……はい」
相沢が歩いてくる。
顔は厳しいままだったが、目の奥だけが少し違った。
「南関東か」
誰に言うでもなく呟いて、それから四人を見る。
「よくやった」
真壁が少し照れたように頭をかく。
「相沢先輩、それ、ちゃんと褒めてます?」
「今日は褒めてる」
西野が笑い、瀬川もごく小さく口元をゆるめた。
相沢は最後に、蓮の前で足を止める。
「朝倉」
「はい」
「今のは、お前一人の速さじゃない」
「……はい」
「でも、お前がいたから繋がった」
蓮の胸の奥が、少しだけ熱くなる。
相沢は視線を外し、短く続けた。
「南関東でも、軽く走るな」
「はい」
その返事は、これまでより少しだけ強く出た。
帰り際、東陵大附属の一団がスタンド上段から引き上げていくのが見えた。
その中の一人が振り返り、ほんの一瞬だけ潮見の四人を見る。
敵意ではない。
無視でもない。
ただ、覚えた。
そういう目だった。
遥はその背中を見ながら、ノートの端に小さく書く。
東陵大附属 一着。
南関東でも当たる。
その下に、もう一行。
同じ一秒に入れても、それだけではまだ届かない。
蓮は通路を歩きながら、右手を一度だけ開いた。
掌にはもう何もない。
なのに確かに、あの一瞬だけがまだ消えていなかった。
足りないままでも、四人は県を越えた。
その先にだけ、0.1秒の残像は残る。




