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シンクロ ― 0.1秒の残像 ―  作者: T.SUDO
Season1|マイル始動編
1/12

第1話 止まった男

朝倉蓮の四百メートルは、中学ではひとつ抜けていた。


スタートで半歩遅れても、二百を過ぎれば並ぶ。


第三コーナーに入るころには、もう相手の肩が視界の端にある。


そこから第四コーナーにかけて、他の選手が苦しさでフォームを崩していく場所で、蓮だけは前へ出た。


追いつくというより、飲み込むように抜く走りだった。


だから、あのレースも本来なら蓮が勝つはずだった。


誰もがそう思っていた。


外から見ていた選手も、スタンドの顧問も、同じレーンを走る相手でさえ、たぶん。


第三コーナーから第四コーナー。


四百メートルでいちばんきついはずの区間で、蓮は先頭に立った。


残りはホームストレートだけ。


そのまま押し切れば終わる。


勝つべき選手が、勝つだけのレースだった。


なのに。


白線が近づく最後の数歩で、蓮の身体はわずかに鈍った。


脚が動かなくなったわけじゃない。


力が尽きたわけでもない。


ただ、あと一歩を出したら、自分だけが前へ行ってしまう気がした。


置いていく、と思った。


誰を、とはっきり考えたわけじゃない。


それでも、自分だけが先に進むことが、ひどく間違っているように思えた。


横から影が抜ける。


歓声がひとつ遅れて耳に届く。


ゴールの手前で止まったその一歩だけが、今も喉の奥に刺さったまま抜けない。



高校に入って、二か月が過ぎた。


教室の空気にも、見慣れない制服にも、もう馴染んだはずだった。


けれど蓮は、自分のいる場所だけにはまだ馴染めないでいた。


放課後になると、なんとなく教室を出る。


行き先を決めているわけじゃない。


決めていないはずなのに、気づけば足は毎日、校舎の端の渡り廊下へ向かっていた。


その先から、グラウンドが見えた。


赤いトラック。


白いライン。


夕方の風に揺れる、細い部旗。


最初はただ目に入っただけだった。


次は、気になっただけ。


その次からはもう、見ないふりをしながら毎日見ていた。


この高校の陸上部は強豪じゃない。


少なくとも、中学時代の蓮が名前を聞くような学校ではなかった。


それでも、トラックを走る数人から目が離せなかった。


三年の神崎。


二年の真壁。


二年の瀬川。


それに、たまに練習に混ざっている一年の西野。


西野はまだ正式なレギュラーというより、補助に近い立場らしかった。


四人が並ぶことはあっても、いつでも戦えるマイルの形になっているわけじゃない。


真壁が走る。


瀬川が受ける。


西野が慌ててつなぐ。


神崎が受けて、首を振る。


バトンはつながっている。


けれど流れがつながっていないのが、遠くからでも分かった。


4×400mリレー――マイルリレーは、ただ四人いれば成立する競技じゃない。


前の走者が抱えた苦しさごと次へ受け渡し、その流れを切らずに一周ずつ重ねていく競技だ。


蓮は手すりに指をかけたまま、視線を逸らせずにいた。


「蓮、走らないの」


不意に隣から声がして、蓮は肩を揺らした。


宮坂遥が、紙の束を抱えたまま立っていた。


責めるでもなく、見透かすでもなく、ただ当たり前みたいにそこにいる。


「……いきなり話しかけるなよ」


「毎日見てるから」


「だからって」


「で、走らないの」


名前を呼ばれたせいか、その問いは逃げ場がなかった。


走らない。


そう決めて、この高校に来た。


強い学校じゃない場所を選んだのも、知られないところにいたかったからだ。


県大会だの有望株だの、そういう言葉がついてこない場所へ行きたかった。


「走らないよ」


やっとそう返すと、遥は


「そっか」


とだけ言った。


それ以上、聞いてこない。


そういうところに助けられる。


でも、少しだけ困る。


グラウンドから短い声が上がった。


「西野、今日はそこまでだ。補習、間に合わなくなるぞ」


神崎だった。


「はいっ、すみません!」


西野が何度も頭を下げて、バッグを抱えて駆けていく。


残ったのは神崎と真壁と瀬川の三人だけだった。


さっきまで


「形になりきらない四人」


だったものが、今度ははっきり


「足りない三人」


になる。


真壁が小さく舌打ちした。


「また三人っすか」


その言い方には、慣れた苛立ちが混じっていた。


また実戦の形でできない。


また人数が揃わない。


そういう不満が一言にまとまっていた。


「仕方ないだろ。西野はまだ毎回出られる立場じゃない」


神崎は淡々と返したあと、ふと渡り廊下を見上げた。


蓮と目が合う。


「朝倉」


名前を呼ばれ、胸の奥がわずかに縮んだ。


「時間あるか」


「……ありますけど」


「一本だけ、入ってくれないか」


遥が黙ったまま、蓮の横顔を見る。


蓮はすぐに返事ができなかった。


「いや、自分、入部とかは――」


「入れとは言ってない」


神崎は静かな声で言った。


「形を見たいだけだ。一本でいい」


断る理由なら、いくらでもあった。


ブランクがある。


走るつもりはない。


部にも入っていない。


でも、そのどれもが、今ここで口にすると薄っぺらく聞こえそうだった。


黙っていると、神崎がそれを了承と取ったらしい。


「部室に予備のスパイクがある。合わなければそのままでもいい」


「……一本だけです」


「十分だ」



トラックに降りると、土の匂いが急に近くなる。


真壁が露骨に眉をひそめた。


「え、朝倉が入るんすか」


「一本だけだ」


「一本でも急すぎるでしょ。こっちはずっと合わせてるんですけど」


その言葉で、真壁が何に引っかかっているのかはっきりした。


朝倉個人が嫌いなわけじゃない。


速そうなやつが突然来て、いきなり自分たちのリレーに入る。


その扱いが気に入らないのだ。


瀬川が蓮の方を向いて、小さく会釈した。


「朝倉くん、僕が前から入ります。受ける位置だけ確認してもらっていいですか」


「……はい。お願いします」


先輩に向けた敬語が、思った以上に固く口から出た。


でも今は、その距離のままでよかった。


真壁が一走。


瀬川が二走。


蓮が三走。


四走は神崎。


神崎が軽く手を上げる。


合図と同時に、真壁が飛び出した。


爆発するようなスタートだった。


力で前へねじ込んでいく走り方で、見ているだけでも押される。


瀬川が受ける。


大きな動きではないのに、流れがきれいだった。


真壁の荒い勢いを、自分の区間にちゃんと馴染ませている。


そして蓮の番が来る。


「朝倉!」


瀬川の声が飛ぶ。


蓮は受け位置で半身になり、肩越しに一度だけ後ろの距離を確かめた。


4×100mみたいに見えないまま賭けるんじゃない。


この距離では、互いの位置と呼吸を見て、確実に流れへ入る。


掌を開く。


近づいてくる瀬川の息づかいまで分かる。


バトンが触れる。


パシ、と小さな音がした。


受けること自体は、できる。


だがその次だった。


受け取った流れを、自分の走りに変える最初の一歩だけが遅れる。


分からないほど小さい。


でも、走る側にははっきり分かる遅れだった。


それでも、乗ってからは速かった。


第三コーナーに入る。


前の走者から受け取った苦しさが、脚の奥へ沈み込む。


本来なら、ここで落ちる。


四百の走りは、ここからがいちばん崩れやすい。


それなのに蓮は、苦しさを抱えたままペースを落とさなかった。


第四コーナーへ入ってもフォームがくずれない。


「……今の、流しですよね」


先に言ったのは瀬川だった。


驚きを無理に抑えたような声だった。


「たぶん」


神崎が短く答える。


「速いのは見れば分かる」


蓮は聞こえないふりをした。


聞いたら、また何かが戻ってきそうだった。


第4コーナーを抜ける。


ホームストレートがまっすぐ開ける。


前には神崎がいる。


神崎は一度だけ後ろを確認し、蓮の歩幅と位置を見てから、手のひらを後ろへ開いた。


その瞬間、蓮の中で余計な音がひとつ消えた。


苦しい。


脚は重い。


肺も焼ける。


それなのに、さっきまで身体の内側で暴れていたはずのものが、一拍だけ静かになる。


見えているのは、神崎の掌だけだった。


そこへ吸い込まれるみたいに腕が伸びる。


無理に合わせたわけじゃない。


どちらかが待ったわけでもない。


ただ、そこに入るべき間が最初から空いていたみたいだった。


バトンが触れる。


――その感触が、音より先に来た。


パシ、という小さな音がしたときには、もうつながっていた。


ほんのわずかに、世界のほうが遅れた気がした。


何だ、今の。


蓮がそう思った頃には、神崎はもう前へ出ていた。


それはタイムが縮んだという感覚とは違った。


技術的にうまくいった、というだけでもない。


呼吸と動きと意識が一瞬だけ重なって、現実のほうがわずかに遅れてついてきたみたいだった。


0.1秒にも満たない、説明のつかない残り方だった。


蓮はそこでようやく息を吐いた。


胸が苦しい。


喉も焼ける。


それでも、その苦しさは昔のものとは少し違っていた。


真壁が近づいてくる。


さっきまでの露骨な警戒とは違う顔をしていた。


「……朝倉」


言いかけて、言葉を探すみたいに少し黙る。


「脚、速いですね」


代わりに瀬川が言った。


「受けたあとの一歩だけ、少し遅れます。でも乗ってからはかなり速いです」


淡々とした分析の中に、ちゃんと驚きがあった。


真壁が眉を寄せる。


「そこだけ壊れてるの、余計やっかいなんだけど」


悪口なのか評価なのか分からない。


でも、変に持ち上げられるよりは楽だった。


神崎が戻ってくる。


汗をぬぐいながら、まっすぐ蓮を見る。


「朝倉」


「はい」


「もう一本やるか」


断るつもりだった。


一本だけの約束だったし、ここで終わる方がきれいだと思った。


けれど口を開くより先に、トラックの外に立つ遥の姿が目に入った。


ノートを抱えたまま、何も言わずに見ている。


あの日も、たぶん。


こんなふうに見ていたのだと思う。


「……はい」


気づけば、そう返していた。


神崎がほんの少しだけ口元を緩める。


「よし。なら次は、もう少しちゃんとつなごう」


速く走ることと、つながることは同じじゃない。


そのことを、蓮はまだ言葉にできない。


ただ今日の一本で分かった。


止まったままでいるより、誰かの時間に入っていく方がずっと怖い。


それでも。


怖いものの中にしか、戻れない場所があるのかもしれなかった。



練習のあと、遥はノートの隅に小さく書いた。


朝倉蓮 受けることはできる。


ただし、受け取った流れを自分の走りへ変える最初の一歩だけ遅れる。


でも、乗ってからは速い。


かなり速い。


少し考えてから、もう一行付け足す。


――今日、一度だけ、四人の呼吸が重なった気がした。


音より先に、つながった瞬間があった。


それは記録じゃない。


誰にも証明できない。


けれど確かに、何かが先に起きた。


夕方のグラウンドに残ったその感じだけが、いつまでも消えなかった。

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