表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

周りが信じられない中、あなただけが助けてくれた。

作者: 秋野原梨衣
掲載日:2025/12/12

初めて短編を書きました。最後まで読んでくれると嬉しいです。

私はヘレナ・レイシェル。

つい先日、婚約していたユリウス様と結婚し、ヘレナ・レイモンドからレイシェルになった。

私は伯爵令嬢だったけれど、ユリウス様と結婚したことで、今は侯爵夫人だ。


ユリウス様は、見た目も心も美しい人だ。

こんな人と結婚できた私は――幸せ……の、はずだった。


……いや、幸せ“だった”のだ。


いつからだろう。

侍女が私を無視するようになったのは。

学園の友人たちが目を逸らすようになったのは。

周囲が、小さな嫌がらせを繰り返すようになったのは。


◈◈◈◈◈◈◈


「よろしくね、ヘレナ。」


私の夫となったユリウス様が、柔らかく微笑む。

私は16歳。この国では成人だ。

婚約した相手と、双方が16歳になれば結婚できる。

彼は今、19歳だ。もう、学園を卒業して、お城につとめている。


「ええ。よろしくお願いします、ユリウス様。」


私がそう返すと、ユリウス様は少し拗ねたように笑った。


「“ユリウス様”じゃなくて、ユリウスって呼んで。敬語もいらないよ。」


「……はい。わかっ――わかったわ。よろしくね、ユリウス。」


その表情があまりに可愛くて、思わず笑みがこぼれた。

「ユリウス」と呼ぶと、ぱっと彼の顔が明るくなる。

その瞬間だけで、私は彼に深く愛されているのだと分かってしまう。


数日後、ようやく私は、自分がこの人に惹かれていると自覚した。


ユリウスの声に少し敏感になり、

帰りが遅いと胸の奥がざわつく。

もともとは、信頼をゆっくり育てられればいいと思っていたのに、

彼の愛情の濃さに巻き込まれて、気づけば私の心の方が傾いていた。


だからユリウスが、


「本当に、ごめん。仕事で、辺境に行かなきゃいけなくて……。ごめんね。1ヶ月くらいで戻ってくるから」


と、申し訳なさそうに告げたときは、驚いた。


「大丈夫よ。すぐに帰ってきてね」


そう返しながらも、小さな不安が胸のどこかで鳴っていた。

けれど、私の意思でどうにかできる話ではない。

だから承諾するしかなかった。


──それが、間違いだった。

でも──そんな小さなざわめきに、当時の私は気づけなかった。

胸に生まれた違和感は、気のせいだと言い聞かせれば、簡単に押し込められた。


その後、私はすぐに学園へ戻ることにした。

結婚の準備でしばらく休学していたから、勉強が遅れないか不安だったのだ。


「ヘレナ、おはよう」

「リーナ、おはよう」


教室に入ると、親友のリーナがすぐ声をかけてくれる。

彼女は、私が胸を張って“親友”と言える大切な存在だ。


「あら、もう復帰したの? 早いわね」


ここは貴族の学園だから、本来は言葉遣いに気をつけないといけない。

けれど、リーナとは昔から仲がいいので、多少砕けても誰も咎めない。


「ええ。あんまり長く休むと、ついていけなくなっちゃうもの」


貴族の学園は進度が速く、学ぶ内容も膨大だ。

少し休めば、すぐに置いていかれる。


「そうね」

リーナも、自分の経験を思い出したのか、しみじみと頷いた。


「リーナも、遅れたことがあるの?」

「ええ、たくさん。特に一年目は大変だったわ」


そんな他愛ない話を続けていると、ふいに鋭い視線が刺さった。

思わず振り向くと、クラスの誰かが、まるで敵でも見るような目で私を睨んでいた。


(……どうしたのかしら。私、特に何もしていないはずだけれど)


理由が分からず戸惑いながらも、私はすぐリーナとの会話に戻った。

そのうち、あの視線のことは、頭の隅で薄れていき──完全に忘れてしまった。


けれど──違和感は、日ごとに増していった。

なくし物が不自然に増え、教科書は破かれ、声をかけても返事がない日が続く。

それでも、そばにリーナがいてくれたから、私はまだ心を保てていた。


「最近、ヘレナの持ち物、なくなるの早いわね」


移動教室の途中、リーナがぽつりと言う。


「そうね。ちょっと異常だわ。あとで先生に相談してみるつもり」


私はもともと物をなくさない。

だから、この連続はどう考えてもおかしかった。

けれど、誰かに恨まれるようなことをした覚えはない。


「なら、いいけれど……」


リーナは、どこかひっかかったような顔をしていた。

私はそのわずかな陰りに気づかず、ただ笑って返す。


「ええ、大丈夫よ」


移動教室が終わってすぐ、私は担任のもとへ向かった。


「すみません。最近、私の持ち物が異常に無くなるんです。心配で……」


担任の先生は普段とても優しく、生徒の話を真剣に聞いてくれる人だ。

だから、今日もそうしてくれると思っていた。


けれど──違った。


「あら、そう。でも、それはあなたの行動が招いた結果ではなくて?」


冷たい声音。

いつもの柔らかな表情は影も形もない。


「……え? い、いえ、私そんな──」


「まあ、改心したら減るんじゃないかしら? そういうのって」


刺すような視線が突き刺さる。

最近、先生が少し冷たい気がしていたけれど……やっぱり気のせいじゃなかった。


「あの、何か…その、心当たりが──」


「はあ……。あなた、こんな子じゃなかったはずなのに。私の指導のせいなのかしら」


大きなため息が、私の言葉を遮る。

先生は視線を逸らし、肩を落とすようにしてつぶやいた。


「帰りなさい。まずは自分のしてきたことを反省しなさい」


反論の隙も与えられず、私は追い返された。


廊下に出た瞬間、胸の奥がじん、と痛む。


(私、本当に……“何もしていない”のに?)


自分の行動を一つひとつ思い返す。

どこかで誰かを傷つけた?

失礼をした?

礼儀に欠ける言動があった?


必死に探しても──何も浮かばない。


(どうして……?)


胸の底で、不安がじわじわと熱を帯びていく。

やがてそれは、理不尽に叱られた悔しさへ変わり、怒りへとつながった。


「……あ、リーナ!」


ちょうど廊下の向こうに、見慣れた後ろ姿があった。

救いを求めるように声をかけると、リーナは一度だけ振り向いた。


そして、私だと気づいた瞬間──

気まずそうに視線をそらし、そのまま歩き出す。


「リーナ?」


もう一度呼んでも、今度は振り向きすらしなかった。

足取りを変えることもなく、私の声は空気に吸われていった。


「……どういうこと?」


思わず、声が漏れる。


(先生が冷たくなるのは、まだ理由があるのかもしれない。でも……リーナまで?)


胸の奥に重い石を押し込まれたようで、呼吸が少し苦しくなる。


その日はずっとベッドにうずくまり、涙が止まらなかった。

侍女たちは何かを察したのか、誰一人声をかけてこなかった。


屋敷の静けさが、いつもよりずっと冷たく感じられた。


そのまま泣き疲れて眠ってしまったのか、気がつけば朝だった。


「おはようございます」


明るい声が部屋に入ってくる。

声の主は、私付きの侍女。流行に詳しく、でも礼儀はきちんとしている、私の信頼している子だ。


「おはよう」


いつも通りに挨拶を返し、彼女に手伝ってもらって制服へ着替える。


「奥様、今日はどれにいたしますか?」


「今日はこれでいいわ」


微笑んで返すと、侍女もふわっと柔らかく笑った。


「それでは、行ってらっしゃいませ」


「ええ、行ってくるわ」


靴音が廊下に響く。

昨日の出来事がふっと胸をかすめて、気分が沈みかける。

けれど、朝の空気に背中を押されるように、私は無理やり前向きに結論づけた。


(何か理由があったのよね、きっと)


リーナがあんな態度をとるなんて、本来ありえない。

誤解か、たまたま機嫌が悪かっただけかもしれない。


(昨日のこと、ちゃんと聞いてみないと)


そう思いながら、私は学園へ向かった。


「あ、リーナ、おはよう」


教室に入るなり、私は彼女を見つけてすぐ声をかけた。

──けれど、リーナはぴくりとも反応しない。

聞こえているはずなのに、まるで私が存在しないかのように、隣の子と談笑を続けている。


「リーナッ!」


少し強めに呼ぶ。

それでも、彼女は頑なに無視した。


「あら、どうしてあなたがリーナさんに声をかけているの?」


背後から、氷みたいに冷えた声。

振り返ると、オルフェリア様が取り巻きを率いて立っていた。

アストラリア侯爵家の長女。常に余裕の笑みを浮かべた、気の強い子だ。


「なんでって……友達だから」


そう答えると、オルフェリア様とその取り巻きの間に失笑が広がった。


「友達?よくそんなこと言えるわね。あなた、リーナさんをいじめたんでしょう?昨日、彼女が泣きながら話してくれましたよ」


「い、いじめ……?そんなこと──ないです。ねえ、リーナ?」


すがるようにリーナを見る。

誤解だと言ってほしくて。


「……っ」


リーナは苦しそうに視線をそらすと、か細い声で言った。


「はい。私はヘレナさんにいじめられていました。」


“さん”付け。

他人行儀なその呼び方に、胸がずきりと痛んだ。


「うそ……」


リーナは、こんな嘘をつく子じゃない。

だからこそ、目を合わせられないのだとすぐに分かった。


周囲はそんな空気すら気づかず、ヒソヒソと騒ぎ始める。


「まじか……」

「ヘレナ嬢やば……」

「結婚して調子に乗ってたんでしょ?」

「最近の噂、やっぱり本当なんじゃん」


ざわつく声が耳に刺さる。


「あ、あの、本当にちがっ──」


「言い訳するつもり?残念だけど、証拠はもうそろっているの。あなたに逃げ道はないわ」


私の言葉を遮り、オルフェリア様は勝ち誇った笑みを浮かべて告げた。

言われた“証拠”とやらに心当たりなんて、一つもない。


(本当に、なにもしていないのに……)


喉がきゅっと締めつけられ、涙が滲む。


けれど、ここで泣けば──

“しらばっくれて泣いたヘレナ嬢”

そんな新しい噂が広がるのは目に見えている。


(泣いちゃだめ……絶対に)


ぎゅっと拳を握りしめ、私は必死で涙をこらえた。


────その日は、本当に最悪だった。


昨日まで普通に接してくれていたクラスメイトや先生たちが、まるで私が透明になったみたいに冷たかった。

友達も多い。成績だって悪くない。


(恨まれるようなことは、していないはずなのに……)


家では厳しく育てられたけれど、それは私を思ってのことだった。

だからこそ、誰かに恨まれるような振る舞いはしないように、ずっと気を付けてきた。


(レイシェル家に嫁いだばかりなのに……ユリウスに迷惑をかけてしまうかもしれない)


自分のほうが立場は弱いはずなのに、思いがけず“夫の顔”ばかり気にしてしまう。


(私がいなくなれば全部おさまる、なんて……そんなふうに考えちゃうなんて)


一瞬よぎった弱気な感情を、すぐに強い怒りが押し返した。


(何もしていないのに、こんな扱い……? 理不尽にもほどがあるわ)


貴族なら、耐えなきゃいけないことがある。

でも――耐えるだけじゃ終わらせない。見届けてやる。


そう決意して、拳をぎゅっと握りしめた。


「奥様、学園はどうでした?」


侍女が心配そうに声をかけてくる。


「特に……何もなかったわ。」


心配をかけたくなくて、つい誤魔化してしまう。


「そうでしたか。」


侍女は軽く頷いて、いつもの仕事に戻っていった。


侍女たちが、私の噂を知っているのか知らないのかはわからない。けれど、いつも通りに接してきてくれる。その普通の態度が、逆に胸に沁みた。

だから、家はまだ――かろうじて心のよりどころだった。


学園では、いじめのようなことが続いていたけれど、成績に支障はなく、授業にも出られていた。

卒業へ向けて日々は進んでいく。

……ただ、あと少し、というところで、家でも異変が始まった。


「奥様、今日はこれでいいですか?」

「ええ、いいわ。」


「……ほかの侍女は噂を真に受けてるだけです。あなたが学園と家を行き来しているだけなのは、私が知っています。」

「ふふ、ありがとう。」


その言葉に救われた。

けれど、屋敷では小さないじめが膨らんでいった。食事に異物が混ざったり、服に針を仕込まれたり、わざと水をかけられたり。


「やめなさい。あなたたちは、こんなことをして何が楽しいの?」


夫人として、注意するのは当然だと思った。けれど、


「なんか言ってる?」

「あなたが悪いんでしょ」

「当然の報いよ」


耳に届くのは、決めつけと冷たい声だけ。


それでも最初は耐えられた。

でも、だんだん食事の量が減り、とうとう何も出されなくなった。

服や装飾品も消えていき、最終的に私の持ち物は寝間着と制服だけになった。


「奥様、大丈夫ですか?」

「ええ。」


無理に笑った。

私付きの侍女だけは味方でいてくれた――けれど、気づけば、屋敷のどこにも姿がなかった。


鏡に映る自分が、日に日にみすぼらしくなっていく。


(……そろそろ、心が折れそう。)


そう考えながら、教室の隅に座る。

まるで私なんて最初から存在しなかったみたいに、周囲は楽しげに騒いでいた。


「あら、みすぼらしいわね。まだ“無実です”なんて言っているの?早く本性を見せなさいな」


オルフェリア様が声をかけてきた。

私は目を合わせず、息を潜めるように黙っていた。


「あなた、社交界の毒婦って呼ばれてるのよ。浮気にいじめ、陰湿で暴力的。なのにまだ無実?みじめね。ユリウス様が本当にかわいそう。」


教室中に響く声。

そして、私の耳元で小さく、


「認めたほうが楽よ?」


くすくすと笑う。


「そんな……!」


否定しようとしたけれど、周りの視線が痛い。


「まだ言い訳?」

「本性隠すの下手だよね」

「ユリウス様が気の毒だわ」


聞いたこともない噂ばかりが、私の知らないところで増殖している。

その“知らないうちに決めつけられていく恐怖”が、胸の奥をじわじわと締めつけた。


「そのうち婚約破棄されるんじゃない?物語の悪役令嬢みたいに。」


席へ戻りながら、オルフェリア様がわざとらしくつぶやく。

クラスの空気はすぐにその言葉を肯定し、形を成していった。


(本当に……いつから広まったんだろう。)


窓の外に視線を向けながら、この先のことを必死で考える。


(……さすがに、しんどいな。)


最近は、昼の学食が唯一のまともな食事――それだけが学園へ行く理由になっていた。


――けれど、翌朝。

当たり前に迎えに来てくれるはずの御者が、馬車を手配してくれなかった。


「今日は…馬車は?」


声をかけても、そっけなく背を向けられるだけ。


理由を聞いても答えは返ってこない。

学園には行けない。

食事も、用意されない。

部屋の中で、ぽっかり穴が空いたような喪失感だけが膨らんでいく。


誰もドアを叩かない。

誰一人、心配すらしない。


(……街に出て、仕事でも探そうかな。)


本来なら、貴族令嬢が街なんて行かない。

買い物は商人を屋敷に呼ぶものだし、世話は使用人が整えてくれる。

でも、いまの私には呼べる馬車も、手配してくれる使用人もいない。


(服は……使用人たちの余っているものを借りよう。)


朝一番、使用人たちの気配が薄い時間を見計らって、屋敷を抜け出した。

人目を避けながら背を丸めて庭を渡り、裏門から街へ出る。


外の空気を吸った瞬間、胸がふっと軽くなる。


(……街の空気って、こんなに澄んでいたのね。)


人々の笑い声、鍋の煮える匂い、客引きの声。

屋敷の中とは違う、ざらりとした“生活の音”が四方から押し寄せる。


(…でも、仕事って、どうやって探すの? お金もないのに。)


不安はある。でも、立ち止まっている暇はなかった。

道ばたに並んだ店の看板をぼんやり見ていたその時――


「お嬢ちゃん、お困りかい?」


ふくよかで優しげな声が、横からかけられた。

振り向くと、食堂らしき店の女将さんが腕を組んでこちらを見ていた。


「ええ。仕事を探しに来たのですが……どこで見つけられますか?」


気づけば、正直に事情を話すのが怖くて、とっさに別の言い方をしていた。


「……どうして、そんな若い子が仕事探しなんて?」

「親が……亡くなってしまって。働かないと生きていけないんです。」


社交界で覚えた“嘘を表情に出さない技術”が、こんなところで役立つとは思わなかった。


女将さんは一瞬だけ目を細め、それからぽんと手を叩いた。


「そうか……じゃあ、良ければだけど、うちで働くかい?」

「……本当に、いいんですか!?」


胸の奥が一気に温かくなった。

思いがけない救いに、声が弾んでしまう。


「もちろんさ。ただ、何ができる?」

「なんでも、頑張ります。……何をすればいいのでしょうか?」

「接客だな。まずは言葉遣いを直さないとね。お嬢ちゃん、その喋り方だと客に舐められるよ。」


言われて初めて気づいた。

貴族の喋り方なんて、この街ではただの“浮いた態度”だ。


「……わかった。これでどう?」

わざと少しくだけた口調に変えると、女将さんは「おっ」と眉を上げた。


「いいじゃないか。今日はお試しで働いてごらん。」

「ありがとう!」


女将さんが店の暖簾をくぐる。

私もその後をついていく。


店の中は、木の匂いが落ち着く、こじんまりとした食堂だった。

陽の入る窓際にテーブルが並び、カウンターでは鍋から湯気が立っている。


(ここで……働くんだ。)


その事実が、少しだけ胸を強くしてくれた。


その日、私は一日中駆け回って働いた。

皿洗い、料理の運び方、食器の片付け、テーブルの拭き方、店内の掃除。

屋敷では“やらせてもらえなかった”ような、生活のための仕事を、夢中で覚えた。


閉店時、女将さん――アリアさんが、皮の袋を差し出してくれた。


「頑張ったね。お金に困ってるみたいだし、今日の分のお給料は出しておくよ。明日もおいで。」


その言葉が胸に沁みて、思わず満面の笑みがこぼれた。


「頑張ります!」


つい敬語が戻ってしまったけど、アリアさんは怒るどころか、ちょっと笑って、


「明日の朝八時くらいにおいで。仕事の説明と給金の決め方を話すよ。」


と、手を振って送り出してくれた。


(やった……! 初めてのお給料だ!)


帰り道、足取りは自然と弾んでいた。

ふと、香ばしい匂いに誘われて足を止めると、屋台の串焼きがじゅうじゅうと焼けていた。


三本だけ……と買ってみる。

一口かじった瞬間、


「おいしい!」


自分で稼いだお金で食べる料理は、こんなに温かいんだと知った。


屋台のおじさんは嬉しそうに目を細め、


「はっは、ありがとよ。そんな顔して食べてくれるのが一番うれしいねぇ。」


そう言って、一本おまけをくれた。


(これで、ごはんもなんとかなる……。よし、もっと頑張って貯めよう。)


屋敷を抜け出す時とは正反対の、軽やかな足取りで帰った。


――それから、私は食堂で働き続けた。

アリアさんの店は温かく、まかないも出るから食事の心配もほとんどない。

少しずつ貯金も増え、先日は自分のお金で古着だけど衣服まで買えた。


貴族の屋敷にいた頃には気づかなかった。

自由に動けることが、こんなに嬉しいなんて。


「レナちゃん、今日は一段と頑張ってるねぇ。」

「おかわり! もう一杯ちょうだい!」

「レナ、ひさしぶり!」


常連さんたちともすっかり顔馴染みになった。

“レナ”は私の偽名。本名を出すのは怖かったから、名前の響きだけ借りた。


「ありがとう!」

「はーい!」

「また来てくれたんですね!」


忙しく動き回るうちに時間は過ぎる。

今日で、やっと目標額が貯まりそうだった。


閉店後、アリアさんが言う。


「今日はここまでかな。ほんと助かったよ、レナ。」


「こちらこそ! 明日も頑張ります!」


袋に入った給金を手に、私は駆けるように屋敷へ向かった。


(やっと……あの家から抜け出せる……!)


いじめは日ごとに悪化し、怪我する寸前のことも増えていた。

だから、あの屋敷を離れられるのは、希望そのものだった。


――なのに。


その希望は、音を立てて崩れた。


部屋の扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは――

私の貯金袋を揺らしながら笑っている、使用人たち。


「ねえ、あなた。なんでこんなお金持ってるの? 最近見ないと思ったら、盗んでたのね?」

「なんで……勝手に入ってこないで!」

「掃除のために部屋に入るのは当たり前でしょう?」


くすくす笑いながら、袋を指先でぷらぷらと揺らす。


「家の物を盗む人なんて、この屋敷にはいらないわ。」

「さようなら。」

「外で野垂れ死んだほうがいいんじゃない?」


彼女たちは、私の言い分を聞く気なんて最初からなかった。

勝手に奪っておいて、勝手に罪を決めつけてくる。


男の使用人が腕を掴み、そのまま乱暴に外へ放り出した。


「最近見ないと思ったら、盗みとはね。」

「自業自得よ。」

「あなたの顔なんて二度と見たくないわ。」


最後の最後まで、彼らは自分が正しいと信じて疑わなかった。


(……なんで。私、何か悪いことした?)


胸がぐしゃぐしゃになり、息が詰まる。

不幸が続きすぎて、もう理由なんて分からない。


(……お母様、お父様、お兄様。頼るしか……)


家族だけは、私を大切にしてくれていた。

その淡い希望を胸に、痛む身体を引きずりながら、私はレイモンド家へ向かって歩き出した。


「あの…お兄様かお父様はいますか?」

「すみません、どなたでしょう」

「ヘレナ・レイシェルです」


レイモンド家の門にたどり着き、門番に声をかける。名乗った瞬間、


「……申し訳ありません。敷地内に入れるな、と仰せつかっておりますので」


と、どこか嘲るような声音で言われた。


「え……? 本当に?」


お兄様もお父様も、そんな人じゃない。きっと何かの間違いだ。


「聞こえませんでしたか? 耳が遠いようですね。“二度と家に帰ってくるな”とのことです」


あざ笑うような説明に、足の力が抜けて、その場に崩れ落ちた。


「なんで……」


震える声が、喉の奥から漏れる。


「けなげな令嬢を演じなくても大丈夫ですよ。本性はみんな知っていますから」


門番はまるで相手にする気もなく、冷えた声で言い放つ。胸の底で何かがはじけ、怒りがせり上がる。


「本当に、私は何もしていません。神にでも誓えます」

「神の名が汚れるのでやめてください」

「やっていないのは、事実です」

「嘘はやめましょう。あなたの悪事は、皆知っていますよ」


私の言葉なんて、初めから聞く気がないらしい。鼻で笑われるたびに、悔しさがにじむ。


「なにをしている?」


にらみ合っていると、背後から凛とした声がした。


「あっ、この者が不敬にもあなた様方に助けを求めてきたので、どう対処するかと……」

「お兄様! お父様! お母様!」


振り返ると、馬車から降り立つ三人の姿があった。


「……そうか。ご苦労だった」


お父様は私を一瞥しただけで、門番にねぎらいの言葉をかけた。


「お父様……!」


不安があふれて、駆け寄ろうとした瞬間、


「近寄らないでくれる?」

「今さら何しに来たの?」


冷えきった声が、私を斬りつける。


「レイシェル家を追い出されてしまって……」


必死に状況を説明した。けれど、


――強い衝撃が頬に走った。


「お前の悪評のせいでわが家は不景気だ! なんてことをしてくれる!」


怒気に染まった瞳。

扇子で顔を隠しながら、いやそうに見下ろしてくるお母様。

興味なさそうに視線をそらすお兄様。


昔の、優しい家族の面影はどこにもなかった。


「お前がいなければ……!」


再び殴られ、視界が揺れる。

初めて“男の力”を恐ろしいと感じた。


「二度と家の門を叩くな。次はない」

「顔を見たくもないわ」

「私たちに悪評をつけないでね」


冷たく言い捨てて、家族は屋敷へ消えていった。


何もできず、立ち尽くすしかなかった。


「ほら、さっさと帰れ。ここはお前の場所じゃない」


門番が乱暴に蹴り飛ばす。


(……もう、痛いのは嫌だ)


痛む体を引きずり、行き先もなく、ただ町へ向かって歩く。

けれど、途中で膝が折れ、体から力が抜けていく。


夜の冷気が、薄い服の中に容赦なくしみ込んだ。


(もう……無理かな)


道端に倒れ込み、意識が闇に沈んでいく。

でも、こんな苦しみから解放されるのなら、それでもいいと思った。


(ユリウス……ごめん)


最後に浮かんだのは、ただ一人の優しい顔。


「ヘレナ!」


かすかに、名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。

それだけが、最後の救いのように温かくて――私は微笑んだ。


そして、完全に意識が途切れた。


◈◈◈◈◈◈◈(ユリウス視点)


「あー、早く王都に帰りたい。ヘレナに会いたい……」

「早く仕事を終わらせれば帰れます」

「王太子……絶対に恨む……」

「次期国王です。やめてください」


書類仕事の合間にこぼれる愚痴を、従者が慣れた調子で切り返す。

これはここ最近の書斎の“日常”になっている。


「あと少しでヘレナに会える……!」


今の私の頭の中は、すべてそれ一色だった。


(お土産、何にしよう。アクセサリーもいいな)


ヘレナはとても美しい令嬢だ。

幼い頃のお茶会で一目惚れして以来、必死に親を説得し、ようやく結ばれた相手。

私の世界は、彼女を中心に回っている。


(ヘレナが喜びそうな店……一回、街に寄ろう)


会えるのが、ただ楽しみだった。

だから――あんな姿を見るなんて、考えもしなかった。


馬車の窓から街の外の様子を眺める。

商人たちの声が飛び交い、子供たちが駆けていく。活気に満ちている。


(賑やかだな……あれ? あの子……どうした)


道路の隅に、小さく倒れている人影があった。

普段なら見過ごしていただろう。

けれど――その髪色、その雰囲気が、あまりにもヘレナに似ていた。


胸の奥で、嫌な予感が鋭く跳ねた。


「馬車を止めろ!」


急いで降り、駆け寄る。


「……ヘレナ!」


近づくほど、確信が冷たい形になっていく。


(なんで……こんなところに)


侯爵夫人のヘレナが、一人で街にいるはずがない。

なのに、彼女はあまりに軽くて、荒い息をしていて、衣服は汚れていた。


(屋敷の者たちに確認しないと……やった者には、必ず償わせる)


ヘレナを傷つけたのだから、当然の報いだ。


私はそっと抱きかかえ、急いで馬車に戻る。


「えっ、奥様? なぜここに……?」

「わからん。すぐに屋敷へ戻るぞ」


従者の顔にも、深い困惑が浮かんでいた。

だが、それは私も同じだ。


――なにがあった?

――誰が、ヘレナをこんな目に?


答えもわからぬまま、馬車は王都へ向けて走り出した。


「……なあ、説明をしろ。なぜヘレナが街にいた?」


屋敷に戻るとすぐ、ヘレナを寝室に運び、従者に応急の手当てを任せる。

私はその間に、屋敷の使用人全員を一つの部屋に集めた。

いったい何が起きたのか、まずはそれを知る必要がある。


「「「……」」」


使用人たちは、誰も口を開かない。

顔を伏せ、息すら小さくしている。


「何があった?」


低く問いかけると、空気がびくりと揺れた。

耐えきれなかったのか、一番若いメイドが涙をこぼしながら震える声で話し始める。


「つまり……お前たちは、根も葉もない噂を信じて、仕えるべき女主人を追い出した、ということか」


ヘレナはそんなことをする人間ではない。断言できる。


「で、でも、奥様は……その、お金を盗んで……!」

「本当か?」

「彼女のお部屋に……ありました……」


怯えながら言うメイドの言葉を遮るように、私は命じる。


「……家の帳簿を持ってこい」


すぐに帳簿を広げ、金の流れを確認する。


「お金は減っていない。帳簿にも不審はない。

 それと──お前が言う“ヘレナが盗んだ”金はどうした?」


沈黙。

目をそらし、誰も答えようとしない。


「返すのが筋だろう。盗まれたと言うならな」

「……っ、その……」


言いよどむ。

つまり、使い込んだのだ。

“ヘレナのせいにすればいい”と考えて。


(よくも……)


怒りが喉までせり上がる。


「──どれだけ使った? 全額返せ。

 それと、ヘレナ付きの侍女はどこだ?」


本来ヘレナの側にいるべき侍女だけが姿を見せていない。


「……わ、わかりました。ヘレナ様付きの侍女は……」

「早く言え」

「……追い出しました……」


しぶしぶ答えたその声には反省の色はない。

ただ責められたくなくて隠していた、というだけだ。


「そうか。

 お前たちはこのまま屋敷に残れ。

 だが身分は全員、下働きからだ。領地から新しい使用人を呼ぶ。

 使った金を返すまで、屋敷の外には出すな」


これ以上顔を見たくなくて、言うべきことだけ告げて部屋を出た。

もう逃げられないように、従者に指示も済ませる。


(ヘレナのために、社交界も掃除しないとな。

 屋敷も、彼女が安心して暮らせるように整える必要がある)


やることは山ほどある。

だが、迷う理由なんてひとつもない。


(ヘレナのためだ。全部やる)


◈◈◈◈◈◈◈(ヘレナ視点)


目を覚ました瞬間、ふわりと温かい空気に包まれていた。


(……ここはどこだろう。

 人は死んだら天国に行くって聞くけれど……ここが、そう?)


ぼんやりとして、夢の中にいるような感覚が抜けない。

でも少しずつ意識がはっきりしてきて、周囲のざわめきが耳に届いてきた。


(なんだか……騒がしい)


まぶしくて、目がうまく開かない。

思わず、両手で耳を押さえた。


「ヘレナ! よかった……起きた!」


その声──

聞き慣れた、あの人の声。


「……ユリウス……?」


小さくつぶやくと、視界の向こうで誰かが嬉しそうに息をのむ気配がした。


(なんで天国にユリウスが……ああ、夢だから……)


まだぼうっとしていて、現実と夢の境目が曖昧だった。


「大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ。会えて嬉しい。」


覗き込むユリウスの眉が下がっていて、その優しさが胸にしみる。夢だと思い込んでいたせいか、考えるより先に言葉がこぼれた。

その瞬間、ユリウスの顔にふわっと花が咲くような笑みがひらいた。


「ありがとう。」


本当に、心の底から嬉しいと伝わる声だった。


(どうして…こんなに喜んでくれるの?)


そこまで考える前に、まぶたが重くなり、私は再び眠りに落ちていた。



(……夢じゃない?)


次に目を開けたときも、同じ温かさがそこにあった。意識がはっきりしてくるにつれて、ここが現実だと体が告げてくる。


「奥様、お目覚めですか?」


聞き慣れた声。顔を向けると、私付きだった侍女が、涙をこらえたような目でこちらを覗いていた。


「あら……? あなた、大丈夫だったの?」

「はい。」

「よかった……。」


胸の奥が、じんわりとほどける。


そのとき——。


「ヘレナ! もう大丈夫? 痛くない?」


勢いよく扉が開き、ユリウスの声が飛び込んできた。


「静かにしてください。」

「あ、ごめん。」

「大丈夫よ、ユリウス。」


侍女とユリウスのやり取りがあまりに素で、思わず笑いがこぼれる。


「よかった。あ、これ、ヘレナが稼いだお金。」


ほっとしたように息をついたユリウスは、小袋を差し出してきた。


(……? どうして、ここに?)


「なんで?」


つい声に出してしまう。


「あ、ごめん。使用人が使っちゃってさ……これは別に用意したやつなんだけど。」


申し訳なさそうに眉を寄せるユリウス。


「あ、なら、いらないわ。」

「え……」

「……わかったわ」


あまりにも悲しそうな顔をするから、結局受け取った。


「よかった。大体のことは把握してるから、今日はゆっくりしてていいよ。」

「早く仕事をしてください。」


ユリウスはそのまま椅子に腰を落ち着けようとしたが、彼の従者がタイミングよく入ってきて、半ば引きずるように連れて行く。


「……やだ。」

「仕事をしてください。」

「お仕事、頑張って。」


私の言葉が決定打になったのか、ユリウスはしぶしぶ部屋を出ていった。


(……?こんな人だったかしら?)


前に知っていたユリウスとは、どこか違う。柔らかくて、どこか子どもみたいで。

まるで別人のようで、思わず首をかしげる。


(まあ、辺境での仕事が、彼を変えたのかもしれないわね。)


深く追及しても仕方ない、と考えを切り替える。


「奥様、今日は何をしますか?」

「本を読みたいわ。」


戻ってきた、あの穏やかな日常に浸っていたくて、私は微笑んだ。


◈◈◈◈◈◈◈


その後、ユリウスは社交界に広まっていた噂をきれいに消し、関係者に賠償金を請求した。

噂の発端は、アストラリア侯爵家の長女オルフェリアだったという。

嫉妬に駆られ、「自分は悪くない」と叫び続けていたらしい。


社交界の空気が落ち着いた頃、ヘレナも少しずつお茶会に顔を出すようになった。

まだトラウマが残っているのか、頻繁には参加しなかったが、彼女を悪く言う者はもういなかった。


そして、ヘレナとユリウスは——

静かで穏やかで、誰にも邪魔されない幸せを、末永く一緒に生きていった。

少しでもおもしろいと感じたら、ぜひ、評価をお願いします。とても励みになります。もし、これが少し評価されたら、この作品の連載版を書いてみます。

また、私が書いている小説も、少しだけ目を通してくれると嬉しいです。


天使と誓い

https://ncode.syosetu.com/n8324ld/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ