周りが信じられない中、あなただけが助けてくれた。
初めて短編を書きました。最後まで読んでくれると嬉しいです。
私はヘレナ・レイシェル。
つい先日、婚約していたユリウス様と結婚し、ヘレナ・レイモンドからレイシェルになった。
私は伯爵令嬢だったけれど、ユリウス様と結婚したことで、今は侯爵夫人だ。
ユリウス様は、見た目も心も美しい人だ。
こんな人と結婚できた私は――幸せ……の、はずだった。
……いや、幸せ“だった”のだ。
いつからだろう。
侍女が私を無視するようになったのは。
学園の友人たちが目を逸らすようになったのは。
周囲が、小さな嫌がらせを繰り返すようになったのは。
◈◈◈◈◈◈◈
「よろしくね、ヘレナ。」
私の夫となったユリウス様が、柔らかく微笑む。
私は16歳。この国では成人だ。
婚約した相手と、双方が16歳になれば結婚できる。
彼は今、19歳だ。もう、学園を卒業して、お城につとめている。
「ええ。よろしくお願いします、ユリウス様。」
私がそう返すと、ユリウス様は少し拗ねたように笑った。
「“ユリウス様”じゃなくて、ユリウスって呼んで。敬語もいらないよ。」
「……はい。わかっ――わかったわ。よろしくね、ユリウス。」
その表情があまりに可愛くて、思わず笑みがこぼれた。
「ユリウス」と呼ぶと、ぱっと彼の顔が明るくなる。
その瞬間だけで、私は彼に深く愛されているのだと分かってしまう。
数日後、ようやく私は、自分がこの人に惹かれていると自覚した。
ユリウスの声に少し敏感になり、
帰りが遅いと胸の奥がざわつく。
もともとは、信頼をゆっくり育てられればいいと思っていたのに、
彼の愛情の濃さに巻き込まれて、気づけば私の心の方が傾いていた。
だからユリウスが、
「本当に、ごめん。仕事で、辺境に行かなきゃいけなくて……。ごめんね。1ヶ月くらいで戻ってくるから」
と、申し訳なさそうに告げたときは、驚いた。
「大丈夫よ。すぐに帰ってきてね」
そう返しながらも、小さな不安が胸のどこかで鳴っていた。
けれど、私の意思でどうにかできる話ではない。
だから承諾するしかなかった。
──それが、間違いだった。
でも──そんな小さなざわめきに、当時の私は気づけなかった。
胸に生まれた違和感は、気のせいだと言い聞かせれば、簡単に押し込められた。
その後、私はすぐに学園へ戻ることにした。
結婚の準備でしばらく休学していたから、勉強が遅れないか不安だったのだ。
「ヘレナ、おはよう」
「リーナ、おはよう」
教室に入ると、親友のリーナがすぐ声をかけてくれる。
彼女は、私が胸を張って“親友”と言える大切な存在だ。
「あら、もう復帰したの? 早いわね」
ここは貴族の学園だから、本来は言葉遣いに気をつけないといけない。
けれど、リーナとは昔から仲がいいので、多少砕けても誰も咎めない。
「ええ。あんまり長く休むと、ついていけなくなっちゃうもの」
貴族の学園は進度が速く、学ぶ内容も膨大だ。
少し休めば、すぐに置いていかれる。
「そうね」
リーナも、自分の経験を思い出したのか、しみじみと頷いた。
「リーナも、遅れたことがあるの?」
「ええ、たくさん。特に一年目は大変だったわ」
そんな他愛ない話を続けていると、ふいに鋭い視線が刺さった。
思わず振り向くと、クラスの誰かが、まるで敵でも見るような目で私を睨んでいた。
(……どうしたのかしら。私、特に何もしていないはずだけれど)
理由が分からず戸惑いながらも、私はすぐリーナとの会話に戻った。
そのうち、あの視線のことは、頭の隅で薄れていき──完全に忘れてしまった。
けれど──違和感は、日ごとに増していった。
なくし物が不自然に増え、教科書は破かれ、声をかけても返事がない日が続く。
それでも、そばにリーナがいてくれたから、私はまだ心を保てていた。
「最近、ヘレナの持ち物、なくなるの早いわね」
移動教室の途中、リーナがぽつりと言う。
「そうね。ちょっと異常だわ。あとで先生に相談してみるつもり」
私はもともと物をなくさない。
だから、この連続はどう考えてもおかしかった。
けれど、誰かに恨まれるようなことをした覚えはない。
「なら、いいけれど……」
リーナは、どこかひっかかったような顔をしていた。
私はそのわずかな陰りに気づかず、ただ笑って返す。
「ええ、大丈夫よ」
移動教室が終わってすぐ、私は担任のもとへ向かった。
「すみません。最近、私の持ち物が異常に無くなるんです。心配で……」
担任の先生は普段とても優しく、生徒の話を真剣に聞いてくれる人だ。
だから、今日もそうしてくれると思っていた。
けれど──違った。
「あら、そう。でも、それはあなたの行動が招いた結果ではなくて?」
冷たい声音。
いつもの柔らかな表情は影も形もない。
「……え? い、いえ、私そんな──」
「まあ、改心したら減るんじゃないかしら? そういうのって」
刺すような視線が突き刺さる。
最近、先生が少し冷たい気がしていたけれど……やっぱり気のせいじゃなかった。
「あの、何か…その、心当たりが──」
「はあ……。あなた、こんな子じゃなかったはずなのに。私の指導のせいなのかしら」
大きなため息が、私の言葉を遮る。
先生は視線を逸らし、肩を落とすようにしてつぶやいた。
「帰りなさい。まずは自分のしてきたことを反省しなさい」
反論の隙も与えられず、私は追い返された。
廊下に出た瞬間、胸の奥がじん、と痛む。
(私、本当に……“何もしていない”のに?)
自分の行動を一つひとつ思い返す。
どこかで誰かを傷つけた?
失礼をした?
礼儀に欠ける言動があった?
必死に探しても──何も浮かばない。
(どうして……?)
胸の底で、不安がじわじわと熱を帯びていく。
やがてそれは、理不尽に叱られた悔しさへ変わり、怒りへとつながった。
「……あ、リーナ!」
ちょうど廊下の向こうに、見慣れた後ろ姿があった。
救いを求めるように声をかけると、リーナは一度だけ振り向いた。
そして、私だと気づいた瞬間──
気まずそうに視線をそらし、そのまま歩き出す。
「リーナ?」
もう一度呼んでも、今度は振り向きすらしなかった。
足取りを変えることもなく、私の声は空気に吸われていった。
「……どういうこと?」
思わず、声が漏れる。
(先生が冷たくなるのは、まだ理由があるのかもしれない。でも……リーナまで?)
胸の奥に重い石を押し込まれたようで、呼吸が少し苦しくなる。
その日はずっとベッドにうずくまり、涙が止まらなかった。
侍女たちは何かを察したのか、誰一人声をかけてこなかった。
屋敷の静けさが、いつもよりずっと冷たく感じられた。
そのまま泣き疲れて眠ってしまったのか、気がつけば朝だった。
「おはようございます」
明るい声が部屋に入ってくる。
声の主は、私付きの侍女。流行に詳しく、でも礼儀はきちんとしている、私の信頼している子だ。
「おはよう」
いつも通りに挨拶を返し、彼女に手伝ってもらって制服へ着替える。
「奥様、今日はどれにいたしますか?」
「今日はこれでいいわ」
微笑んで返すと、侍女もふわっと柔らかく笑った。
「それでは、行ってらっしゃいませ」
「ええ、行ってくるわ」
靴音が廊下に響く。
昨日の出来事がふっと胸をかすめて、気分が沈みかける。
けれど、朝の空気に背中を押されるように、私は無理やり前向きに結論づけた。
(何か理由があったのよね、きっと)
リーナがあんな態度をとるなんて、本来ありえない。
誤解か、たまたま機嫌が悪かっただけかもしれない。
(昨日のこと、ちゃんと聞いてみないと)
そう思いながら、私は学園へ向かった。
「あ、リーナ、おはよう」
教室に入るなり、私は彼女を見つけてすぐ声をかけた。
──けれど、リーナはぴくりとも反応しない。
聞こえているはずなのに、まるで私が存在しないかのように、隣の子と談笑を続けている。
「リーナッ!」
少し強めに呼ぶ。
それでも、彼女は頑なに無視した。
「あら、どうしてあなたがリーナさんに声をかけているの?」
背後から、氷みたいに冷えた声。
振り返ると、オルフェリア様が取り巻きを率いて立っていた。
アストラリア侯爵家の長女。常に余裕の笑みを浮かべた、気の強い子だ。
「なんでって……友達だから」
そう答えると、オルフェリア様とその取り巻きの間に失笑が広がった。
「友達?よくそんなこと言えるわね。あなた、リーナさんをいじめたんでしょう?昨日、彼女が泣きながら話してくれましたよ」
「い、いじめ……?そんなこと──ないです。ねえ、リーナ?」
すがるようにリーナを見る。
誤解だと言ってほしくて。
「……っ」
リーナは苦しそうに視線をそらすと、か細い声で言った。
「はい。私はヘレナさんにいじめられていました。」
“さん”付け。
他人行儀なその呼び方に、胸がずきりと痛んだ。
「うそ……」
リーナは、こんな嘘をつく子じゃない。
だからこそ、目を合わせられないのだとすぐに分かった。
周囲はそんな空気すら気づかず、ヒソヒソと騒ぎ始める。
「まじか……」
「ヘレナ嬢やば……」
「結婚して調子に乗ってたんでしょ?」
「最近の噂、やっぱり本当なんじゃん」
ざわつく声が耳に刺さる。
「あ、あの、本当にちがっ──」
「言い訳するつもり?残念だけど、証拠はもうそろっているの。あなたに逃げ道はないわ」
私の言葉を遮り、オルフェリア様は勝ち誇った笑みを浮かべて告げた。
言われた“証拠”とやらに心当たりなんて、一つもない。
(本当に、なにもしていないのに……)
喉がきゅっと締めつけられ、涙が滲む。
けれど、ここで泣けば──
“しらばっくれて泣いたヘレナ嬢”
そんな新しい噂が広がるのは目に見えている。
(泣いちゃだめ……絶対に)
ぎゅっと拳を握りしめ、私は必死で涙をこらえた。
────その日は、本当に最悪だった。
昨日まで普通に接してくれていたクラスメイトや先生たちが、まるで私が透明になったみたいに冷たかった。
友達も多い。成績だって悪くない。
(恨まれるようなことは、していないはずなのに……)
家では厳しく育てられたけれど、それは私を思ってのことだった。
だからこそ、誰かに恨まれるような振る舞いはしないように、ずっと気を付けてきた。
(レイシェル家に嫁いだばかりなのに……ユリウスに迷惑をかけてしまうかもしれない)
自分のほうが立場は弱いはずなのに、思いがけず“夫の顔”ばかり気にしてしまう。
(私がいなくなれば全部おさまる、なんて……そんなふうに考えちゃうなんて)
一瞬よぎった弱気な感情を、すぐに強い怒りが押し返した。
(何もしていないのに、こんな扱い……? 理不尽にもほどがあるわ)
貴族なら、耐えなきゃいけないことがある。
でも――耐えるだけじゃ終わらせない。見届けてやる。
そう決意して、拳をぎゅっと握りしめた。
「奥様、学園はどうでした?」
侍女が心配そうに声をかけてくる。
「特に……何もなかったわ。」
心配をかけたくなくて、つい誤魔化してしまう。
「そうでしたか。」
侍女は軽く頷いて、いつもの仕事に戻っていった。
侍女たちが、私の噂を知っているのか知らないのかはわからない。けれど、いつも通りに接してきてくれる。その普通の態度が、逆に胸に沁みた。
だから、家はまだ――かろうじて心のよりどころだった。
学園では、いじめのようなことが続いていたけれど、成績に支障はなく、授業にも出られていた。
卒業へ向けて日々は進んでいく。
……ただ、あと少し、というところで、家でも異変が始まった。
「奥様、今日はこれでいいですか?」
「ええ、いいわ。」
「……ほかの侍女は噂を真に受けてるだけです。あなたが学園と家を行き来しているだけなのは、私が知っています。」
「ふふ、ありがとう。」
その言葉に救われた。
けれど、屋敷では小さないじめが膨らんでいった。食事に異物が混ざったり、服に針を仕込まれたり、わざと水をかけられたり。
「やめなさい。あなたたちは、こんなことをして何が楽しいの?」
夫人として、注意するのは当然だと思った。けれど、
「なんか言ってる?」
「あなたが悪いんでしょ」
「当然の報いよ」
耳に届くのは、決めつけと冷たい声だけ。
それでも最初は耐えられた。
でも、だんだん食事の量が減り、とうとう何も出されなくなった。
服や装飾品も消えていき、最終的に私の持ち物は寝間着と制服だけになった。
「奥様、大丈夫ですか?」
「ええ。」
無理に笑った。
私付きの侍女だけは味方でいてくれた――けれど、気づけば、屋敷のどこにも姿がなかった。
鏡に映る自分が、日に日にみすぼらしくなっていく。
(……そろそろ、心が折れそう。)
そう考えながら、教室の隅に座る。
まるで私なんて最初から存在しなかったみたいに、周囲は楽しげに騒いでいた。
「あら、みすぼらしいわね。まだ“無実です”なんて言っているの?早く本性を見せなさいな」
オルフェリア様が声をかけてきた。
私は目を合わせず、息を潜めるように黙っていた。
「あなた、社交界の毒婦って呼ばれてるのよ。浮気にいじめ、陰湿で暴力的。なのにまだ無実?みじめね。ユリウス様が本当にかわいそう。」
教室中に響く声。
そして、私の耳元で小さく、
「認めたほうが楽よ?」
くすくすと笑う。
「そんな……!」
否定しようとしたけれど、周りの視線が痛い。
「まだ言い訳?」
「本性隠すの下手だよね」
「ユリウス様が気の毒だわ」
聞いたこともない噂ばかりが、私の知らないところで増殖している。
その“知らないうちに決めつけられていく恐怖”が、胸の奥をじわじわと締めつけた。
「そのうち婚約破棄されるんじゃない?物語の悪役令嬢みたいに。」
席へ戻りながら、オルフェリア様がわざとらしくつぶやく。
クラスの空気はすぐにその言葉を肯定し、形を成していった。
(本当に……いつから広まったんだろう。)
窓の外に視線を向けながら、この先のことを必死で考える。
(……さすがに、しんどいな。)
最近は、昼の学食が唯一のまともな食事――それだけが学園へ行く理由になっていた。
――けれど、翌朝。
当たり前に迎えに来てくれるはずの御者が、馬車を手配してくれなかった。
「今日は…馬車は?」
声をかけても、そっけなく背を向けられるだけ。
理由を聞いても答えは返ってこない。
学園には行けない。
食事も、用意されない。
部屋の中で、ぽっかり穴が空いたような喪失感だけが膨らんでいく。
誰もドアを叩かない。
誰一人、心配すらしない。
(……街に出て、仕事でも探そうかな。)
本来なら、貴族令嬢が街なんて行かない。
買い物は商人を屋敷に呼ぶものだし、世話は使用人が整えてくれる。
でも、いまの私には呼べる馬車も、手配してくれる使用人もいない。
(服は……使用人たちの余っているものを借りよう。)
朝一番、使用人たちの気配が薄い時間を見計らって、屋敷を抜け出した。
人目を避けながら背を丸めて庭を渡り、裏門から街へ出る。
外の空気を吸った瞬間、胸がふっと軽くなる。
(……街の空気って、こんなに澄んでいたのね。)
人々の笑い声、鍋の煮える匂い、客引きの声。
屋敷の中とは違う、ざらりとした“生活の音”が四方から押し寄せる。
(…でも、仕事って、どうやって探すの? お金もないのに。)
不安はある。でも、立ち止まっている暇はなかった。
道ばたに並んだ店の看板をぼんやり見ていたその時――
「お嬢ちゃん、お困りかい?」
ふくよかで優しげな声が、横からかけられた。
振り向くと、食堂らしき店の女将さんが腕を組んでこちらを見ていた。
「ええ。仕事を探しに来たのですが……どこで見つけられますか?」
気づけば、正直に事情を話すのが怖くて、とっさに別の言い方をしていた。
「……どうして、そんな若い子が仕事探しなんて?」
「親が……亡くなってしまって。働かないと生きていけないんです。」
社交界で覚えた“嘘を表情に出さない技術”が、こんなところで役立つとは思わなかった。
女将さんは一瞬だけ目を細め、それからぽんと手を叩いた。
「そうか……じゃあ、良ければだけど、うちで働くかい?」
「……本当に、いいんですか!?」
胸の奥が一気に温かくなった。
思いがけない救いに、声が弾んでしまう。
「もちろんさ。ただ、何ができる?」
「なんでも、頑張ります。……何をすればいいのでしょうか?」
「接客だな。まずは言葉遣いを直さないとね。お嬢ちゃん、その喋り方だと客に舐められるよ。」
言われて初めて気づいた。
貴族の喋り方なんて、この街ではただの“浮いた態度”だ。
「……わかった。これでどう?」
わざと少しくだけた口調に変えると、女将さんは「おっ」と眉を上げた。
「いいじゃないか。今日はお試しで働いてごらん。」
「ありがとう!」
女将さんが店の暖簾をくぐる。
私もその後をついていく。
店の中は、木の匂いが落ち着く、こじんまりとした食堂だった。
陽の入る窓際にテーブルが並び、カウンターでは鍋から湯気が立っている。
(ここで……働くんだ。)
その事実が、少しだけ胸を強くしてくれた。
その日、私は一日中駆け回って働いた。
皿洗い、料理の運び方、食器の片付け、テーブルの拭き方、店内の掃除。
屋敷では“やらせてもらえなかった”ような、生活のための仕事を、夢中で覚えた。
閉店時、女将さん――アリアさんが、皮の袋を差し出してくれた。
「頑張ったね。お金に困ってるみたいだし、今日の分のお給料は出しておくよ。明日もおいで。」
その言葉が胸に沁みて、思わず満面の笑みがこぼれた。
「頑張ります!」
つい敬語が戻ってしまったけど、アリアさんは怒るどころか、ちょっと笑って、
「明日の朝八時くらいにおいで。仕事の説明と給金の決め方を話すよ。」
と、手を振って送り出してくれた。
(やった……! 初めてのお給料だ!)
帰り道、足取りは自然と弾んでいた。
ふと、香ばしい匂いに誘われて足を止めると、屋台の串焼きがじゅうじゅうと焼けていた。
三本だけ……と買ってみる。
一口かじった瞬間、
「おいしい!」
自分で稼いだお金で食べる料理は、こんなに温かいんだと知った。
屋台のおじさんは嬉しそうに目を細め、
「はっは、ありがとよ。そんな顔して食べてくれるのが一番うれしいねぇ。」
そう言って、一本おまけをくれた。
(これで、ごはんもなんとかなる……。よし、もっと頑張って貯めよう。)
屋敷を抜け出す時とは正反対の、軽やかな足取りで帰った。
――それから、私は食堂で働き続けた。
アリアさんの店は温かく、まかないも出るから食事の心配もほとんどない。
少しずつ貯金も増え、先日は自分のお金で古着だけど衣服まで買えた。
貴族の屋敷にいた頃には気づかなかった。
自由に動けることが、こんなに嬉しいなんて。
「レナちゃん、今日は一段と頑張ってるねぇ。」
「おかわり! もう一杯ちょうだい!」
「レナ、ひさしぶり!」
常連さんたちともすっかり顔馴染みになった。
“レナ”は私の偽名。本名を出すのは怖かったから、名前の響きだけ借りた。
「ありがとう!」
「はーい!」
「また来てくれたんですね!」
忙しく動き回るうちに時間は過ぎる。
今日で、やっと目標額が貯まりそうだった。
閉店後、アリアさんが言う。
「今日はここまでかな。ほんと助かったよ、レナ。」
「こちらこそ! 明日も頑張ります!」
袋に入った給金を手に、私は駆けるように屋敷へ向かった。
(やっと……あの家から抜け出せる……!)
いじめは日ごとに悪化し、怪我する寸前のことも増えていた。
だから、あの屋敷を離れられるのは、希望そのものだった。
――なのに。
その希望は、音を立てて崩れた。
部屋の扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは――
私の貯金袋を揺らしながら笑っている、使用人たち。
「ねえ、あなた。なんでこんなお金持ってるの? 最近見ないと思ったら、盗んでたのね?」
「なんで……勝手に入ってこないで!」
「掃除のために部屋に入るのは当たり前でしょう?」
くすくす笑いながら、袋を指先でぷらぷらと揺らす。
「家の物を盗む人なんて、この屋敷にはいらないわ。」
「さようなら。」
「外で野垂れ死んだほうがいいんじゃない?」
彼女たちは、私の言い分を聞く気なんて最初からなかった。
勝手に奪っておいて、勝手に罪を決めつけてくる。
男の使用人が腕を掴み、そのまま乱暴に外へ放り出した。
「最近見ないと思ったら、盗みとはね。」
「自業自得よ。」
「あなたの顔なんて二度と見たくないわ。」
最後の最後まで、彼らは自分が正しいと信じて疑わなかった。
(……なんで。私、何か悪いことした?)
胸がぐしゃぐしゃになり、息が詰まる。
不幸が続きすぎて、もう理由なんて分からない。
(……お母様、お父様、お兄様。頼るしか……)
家族だけは、私を大切にしてくれていた。
その淡い希望を胸に、痛む身体を引きずりながら、私はレイモンド家へ向かって歩き出した。
「あの…お兄様かお父様はいますか?」
「すみません、どなたでしょう」
「ヘレナ・レイシェルです」
レイモンド家の門にたどり着き、門番に声をかける。名乗った瞬間、
「……申し訳ありません。敷地内に入れるな、と仰せつかっておりますので」
と、どこか嘲るような声音で言われた。
「え……? 本当に?」
お兄様もお父様も、そんな人じゃない。きっと何かの間違いだ。
「聞こえませんでしたか? 耳が遠いようですね。“二度と家に帰ってくるな”とのことです」
あざ笑うような説明に、足の力が抜けて、その場に崩れ落ちた。
「なんで……」
震える声が、喉の奥から漏れる。
「けなげな令嬢を演じなくても大丈夫ですよ。本性はみんな知っていますから」
門番はまるで相手にする気もなく、冷えた声で言い放つ。胸の底で何かがはじけ、怒りがせり上がる。
「本当に、私は何もしていません。神にでも誓えます」
「神の名が汚れるのでやめてください」
「やっていないのは、事実です」
「嘘はやめましょう。あなたの悪事は、皆知っていますよ」
私の言葉なんて、初めから聞く気がないらしい。鼻で笑われるたびに、悔しさがにじむ。
「なにをしている?」
にらみ合っていると、背後から凛とした声がした。
「あっ、この者が不敬にもあなた様方に助けを求めてきたので、どう対処するかと……」
「お兄様! お父様! お母様!」
振り返ると、馬車から降り立つ三人の姿があった。
「……そうか。ご苦労だった」
お父様は私を一瞥しただけで、門番にねぎらいの言葉をかけた。
「お父様……!」
不安があふれて、駆け寄ろうとした瞬間、
「近寄らないでくれる?」
「今さら何しに来たの?」
冷えきった声が、私を斬りつける。
「レイシェル家を追い出されてしまって……」
必死に状況を説明した。けれど、
――強い衝撃が頬に走った。
「お前の悪評のせいでわが家は不景気だ! なんてことをしてくれる!」
怒気に染まった瞳。
扇子で顔を隠しながら、いやそうに見下ろしてくるお母様。
興味なさそうに視線をそらすお兄様。
昔の、優しい家族の面影はどこにもなかった。
「お前がいなければ……!」
再び殴られ、視界が揺れる。
初めて“男の力”を恐ろしいと感じた。
「二度と家の門を叩くな。次はない」
「顔を見たくもないわ」
「私たちに悪評をつけないでね」
冷たく言い捨てて、家族は屋敷へ消えていった。
何もできず、立ち尽くすしかなかった。
「ほら、さっさと帰れ。ここはお前の場所じゃない」
門番が乱暴に蹴り飛ばす。
(……もう、痛いのは嫌だ)
痛む体を引きずり、行き先もなく、ただ町へ向かって歩く。
けれど、途中で膝が折れ、体から力が抜けていく。
夜の冷気が、薄い服の中に容赦なくしみ込んだ。
(もう……無理かな)
道端に倒れ込み、意識が闇に沈んでいく。
でも、こんな苦しみから解放されるのなら、それでもいいと思った。
(ユリウス……ごめん)
最後に浮かんだのは、ただ一人の優しい顔。
「ヘレナ!」
かすかに、名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
それだけが、最後の救いのように温かくて――私は微笑んだ。
そして、完全に意識が途切れた。
◈◈◈◈◈◈◈(ユリウス視点)
「あー、早く王都に帰りたい。ヘレナに会いたい……」
「早く仕事を終わらせれば帰れます」
「王太子……絶対に恨む……」
「次期国王です。やめてください」
書類仕事の合間にこぼれる愚痴を、従者が慣れた調子で切り返す。
これはここ最近の書斎の“日常”になっている。
「あと少しでヘレナに会える……!」
今の私の頭の中は、すべてそれ一色だった。
(お土産、何にしよう。アクセサリーもいいな)
ヘレナはとても美しい令嬢だ。
幼い頃のお茶会で一目惚れして以来、必死に親を説得し、ようやく結ばれた相手。
私の世界は、彼女を中心に回っている。
(ヘレナが喜びそうな店……一回、街に寄ろう)
会えるのが、ただ楽しみだった。
だから――あんな姿を見るなんて、考えもしなかった。
馬車の窓から街の外の様子を眺める。
商人たちの声が飛び交い、子供たちが駆けていく。活気に満ちている。
(賑やかだな……あれ? あの子……どうした)
道路の隅に、小さく倒れている人影があった。
普段なら見過ごしていただろう。
けれど――その髪色、その雰囲気が、あまりにもヘレナに似ていた。
胸の奥で、嫌な予感が鋭く跳ねた。
「馬車を止めろ!」
急いで降り、駆け寄る。
「……ヘレナ!」
近づくほど、確信が冷たい形になっていく。
(なんで……こんなところに)
侯爵夫人のヘレナが、一人で街にいるはずがない。
なのに、彼女はあまりに軽くて、荒い息をしていて、衣服は汚れていた。
(屋敷の者たちに確認しないと……やった者には、必ず償わせる)
ヘレナを傷つけたのだから、当然の報いだ。
私はそっと抱きかかえ、急いで馬車に戻る。
「えっ、奥様? なぜここに……?」
「わからん。すぐに屋敷へ戻るぞ」
従者の顔にも、深い困惑が浮かんでいた。
だが、それは私も同じだ。
――なにがあった?
――誰が、ヘレナをこんな目に?
答えもわからぬまま、馬車は王都へ向けて走り出した。
「……なあ、説明をしろ。なぜヘレナが街にいた?」
屋敷に戻るとすぐ、ヘレナを寝室に運び、従者に応急の手当てを任せる。
私はその間に、屋敷の使用人全員を一つの部屋に集めた。
いったい何が起きたのか、まずはそれを知る必要がある。
「「「……」」」
使用人たちは、誰も口を開かない。
顔を伏せ、息すら小さくしている。
「何があった?」
低く問いかけると、空気がびくりと揺れた。
耐えきれなかったのか、一番若いメイドが涙をこぼしながら震える声で話し始める。
「つまり……お前たちは、根も葉もない噂を信じて、仕えるべき女主人を追い出した、ということか」
ヘレナはそんなことをする人間ではない。断言できる。
「で、でも、奥様は……その、お金を盗んで……!」
「本当か?」
「彼女のお部屋に……ありました……」
怯えながら言うメイドの言葉を遮るように、私は命じる。
「……家の帳簿を持ってこい」
すぐに帳簿を広げ、金の流れを確認する。
「お金は減っていない。帳簿にも不審はない。
それと──お前が言う“ヘレナが盗んだ”金はどうした?」
沈黙。
目をそらし、誰も答えようとしない。
「返すのが筋だろう。盗まれたと言うならな」
「……っ、その……」
言いよどむ。
つまり、使い込んだのだ。
“ヘレナのせいにすればいい”と考えて。
(よくも……)
怒りが喉までせり上がる。
「──どれだけ使った? 全額返せ。
それと、ヘレナ付きの侍女はどこだ?」
本来ヘレナの側にいるべき侍女だけが姿を見せていない。
「……わ、わかりました。ヘレナ様付きの侍女は……」
「早く言え」
「……追い出しました……」
しぶしぶ答えたその声には反省の色はない。
ただ責められたくなくて隠していた、というだけだ。
「そうか。
お前たちはこのまま屋敷に残れ。
だが身分は全員、下働きからだ。領地から新しい使用人を呼ぶ。
使った金を返すまで、屋敷の外には出すな」
これ以上顔を見たくなくて、言うべきことだけ告げて部屋を出た。
もう逃げられないように、従者に指示も済ませる。
(ヘレナのために、社交界も掃除しないとな。
屋敷も、彼女が安心して暮らせるように整える必要がある)
やることは山ほどある。
だが、迷う理由なんてひとつもない。
(ヘレナのためだ。全部やる)
◈◈◈◈◈◈◈(ヘレナ視点)
目を覚ました瞬間、ふわりと温かい空気に包まれていた。
(……ここはどこだろう。
人は死んだら天国に行くって聞くけれど……ここが、そう?)
ぼんやりとして、夢の中にいるような感覚が抜けない。
でも少しずつ意識がはっきりしてきて、周囲のざわめきが耳に届いてきた。
(なんだか……騒がしい)
まぶしくて、目がうまく開かない。
思わず、両手で耳を押さえた。
「ヘレナ! よかった……起きた!」
その声──
聞き慣れた、あの人の声。
「……ユリウス……?」
小さくつぶやくと、視界の向こうで誰かが嬉しそうに息をのむ気配がした。
(なんで天国にユリウスが……ああ、夢だから……)
まだぼうっとしていて、現実と夢の境目が曖昧だった。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。会えて嬉しい。」
覗き込むユリウスの眉が下がっていて、その優しさが胸にしみる。夢だと思い込んでいたせいか、考えるより先に言葉がこぼれた。
その瞬間、ユリウスの顔にふわっと花が咲くような笑みがひらいた。
「ありがとう。」
本当に、心の底から嬉しいと伝わる声だった。
(どうして…こんなに喜んでくれるの?)
そこまで考える前に、まぶたが重くなり、私は再び眠りに落ちていた。
*
(……夢じゃない?)
次に目を開けたときも、同じ温かさがそこにあった。意識がはっきりしてくるにつれて、ここが現実だと体が告げてくる。
「奥様、お目覚めですか?」
聞き慣れた声。顔を向けると、私付きだった侍女が、涙をこらえたような目でこちらを覗いていた。
「あら……? あなた、大丈夫だったの?」
「はい。」
「よかった……。」
胸の奥が、じんわりとほどける。
そのとき——。
「ヘレナ! もう大丈夫? 痛くない?」
勢いよく扉が開き、ユリウスの声が飛び込んできた。
「静かにしてください。」
「あ、ごめん。」
「大丈夫よ、ユリウス。」
侍女とユリウスのやり取りがあまりに素で、思わず笑いがこぼれる。
「よかった。あ、これ、ヘレナが稼いだお金。」
ほっとしたように息をついたユリウスは、小袋を差し出してきた。
(……? どうして、ここに?)
「なんで?」
つい声に出してしまう。
「あ、ごめん。使用人が使っちゃってさ……これは別に用意したやつなんだけど。」
申し訳なさそうに眉を寄せるユリウス。
「あ、なら、いらないわ。」
「え……」
「……わかったわ」
あまりにも悲しそうな顔をするから、結局受け取った。
「よかった。大体のことは把握してるから、今日はゆっくりしてていいよ。」
「早く仕事をしてください。」
ユリウスはそのまま椅子に腰を落ち着けようとしたが、彼の従者がタイミングよく入ってきて、半ば引きずるように連れて行く。
「……やだ。」
「仕事をしてください。」
「お仕事、頑張って。」
私の言葉が決定打になったのか、ユリウスはしぶしぶ部屋を出ていった。
(……?こんな人だったかしら?)
前に知っていたユリウスとは、どこか違う。柔らかくて、どこか子どもみたいで。
まるで別人のようで、思わず首をかしげる。
(まあ、辺境での仕事が、彼を変えたのかもしれないわね。)
深く追及しても仕方ない、と考えを切り替える。
「奥様、今日は何をしますか?」
「本を読みたいわ。」
戻ってきた、あの穏やかな日常に浸っていたくて、私は微笑んだ。
◈◈◈◈◈◈◈
その後、ユリウスは社交界に広まっていた噂をきれいに消し、関係者に賠償金を請求した。
噂の発端は、アストラリア侯爵家の長女オルフェリアだったという。
嫉妬に駆られ、「自分は悪くない」と叫び続けていたらしい。
社交界の空気が落ち着いた頃、ヘレナも少しずつお茶会に顔を出すようになった。
まだトラウマが残っているのか、頻繁には参加しなかったが、彼女を悪く言う者はもういなかった。
そして、ヘレナとユリウスは——
静かで穏やかで、誰にも邪魔されない幸せを、末永く一緒に生きていった。
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天使と誓い
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