4 仲間入り②
「……え?」
朗は一瞬、何を言われたのか理解できず、間の抜けた声を出してしまった。
「最初は“見学”のつもりだったと思うけど、気がついたら、もう僕らの仕事に欠かせない存在になってる。山川さんとも話してね、うちでやってもらうのがいいだろう、ということになったんだ」
朗は視線を彷徨わせた。
頭では突然の話に追いつけていないのに、心の奥では、なぜか不思議な納得が広がっていく。
(……そうだ。最初から、どこかで期待してたんだ)
ファイルを抱えて夜まで残ったあの日も、静かな事務所で3人だけで過ごした時間も……今、全部が一つにつながるような感覚があった。
「もちろん、すぐに社員に、ってわけじゃない」
正樹が続ける。
「まずは使用人行政書士として、一緒にやっていこう。そのうえで、いずれは……社員として、この事務所を一緒に支えてほしい」
山川が、朗に視線を向けて微笑んだ。
「あなた、もうここの空気になじんでますからね」
朗は少し息を吸い、ゆっくりと頷いた。
「……はい。お願いします」
その声には、最初にこの事務所を訪れた頃の迷いは、もうなかった。
その日の夜、3人は事務所から少し歩いた先にある、こぢんまりとした居酒屋に入った。
暖色の灯りがテーブルを照らし、炭火の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「もう10年くらい前から、節目のときはここなんだよね」
正樹が嬉しそうに言う。
朗は少し緊張した面持ちでテーブルについた。
知らない店というのもあるが、こういう“飲みの場”はあまり得意ではない。
グラスを持つ手が、少しぎこちなくなってしまう。
ビールが運ばれてくると、正樹が「じゃ、改めて!」と声を上げた。
「朗くん、これからよろしく!」
3人のジョッキが軽くぶつかり、泡がふわりとこぼれた。
正樹と山川が自然に会話を始め、朗はうなずきながら、時折相槌を打つ。
(……こういうとき、何を話したらいいんだろう)
心のどこかで、少し身構えている自分に気づく。
正樹は、そんな朗の様子を横目で見ながら、特に何を言うでもなく、いつも通りの調子で話を続けていた。
朗がこういう場をあまり得意ではないことを、正樹はよく知っている。
それでも……いや、だからこそ……今日はあえて連れてきたのだ。
これは、正樹なりの“通過儀礼”なのだろう。
書類や判子ではなく、同じテーブルを囲んで笑い合う時間……それも、この事務所の一員になるための大事な一歩だ。
「最初に来たときは、本当に“見学者”って顔してたもんね」
正樹が朗を見て、少し意地悪そうに笑った。
「今はすっかり、うちの人だけど」
「……そう……ですかね」
朗は少しだけ照れくさそうに視線を落とした。
グラスの中の泡が、静かに弾けていく音だけが耳に残る。
会話はやがて、これまでの事務所の歩みへと移っていった。
事務所の法人化を決めた夜のこと、裁判まですることになった帰化のこと……。
正樹と山川が、まるで古い友人同士のように笑いながら話す様子を、朗はおとなしく聞いていた。
(この人たちには、ずっとこの事務所と歩いてきた時間があるんだ)
胸の奥に、静かな熱が広がっていく。
「だからさ……」
ふと、正樹が朗の方を見て言った。
「いいじゃん、遠回りでも。ここまでちゃんと歩いてきたなら」
それは、場を盛り上げるためでも、励ますためでもない、本当に何気ない一言だった。
正樹はポテトをつまみながら、特に意識することもなく言葉を放っている。
けれど、その一言は朗の胸の奥にすとんと落ちた。
(……“いいじゃん、遠回りでも”……)
山川が小さく笑って、朗に言った。
「この人、たまに妙に文学じみたこと言うんですよ」
「え、それって僕は褒められてるのかな?」
正樹が首をかしげて、3人の間に小さな笑いが生まれる。
朗はグラスを両手で包み込みながら、小さく息を吐いた。
(ここは、行き場をなくして来た場所じゃない。僕が自分で選んだ場所だ)
過去を蒸し返されることも、慰められることもない。
ただ、今ここにいる自分をまっすぐ受け止めてもらえた気がした。
店を出ると、暖簾が静かに揺れ、夜風が頬をなでた。
3人は並んで店を出て歩きだした。
朗は少し後ろから、並んで歩く二人の背中を見つめながら、
(……こういう夜を、自分も過ごすようになるなんてな)
と、胸の内で静かに呟いた。




