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3 初めての業務③

 その日の午後、朗は山川から分厚いファイルを手渡された。

「とりあえず、この申請に関係する資料です。これまでの経緯と、ロンさんの会社財務諸表や役員報酬の明細、ロンさん自身の学歴や職歴に関する資料も全部ここに入ってます」

 山川は手際よくファイルを開き、いくつかの付箋を貼りながら説明した。

「まずは全体を読んでみてください。理由書の下書きは、ある程度全体像をつかんでからで大丈夫です」

 ファイルを受け取った瞬間、ずしりとした重みが両腕に伝わった。厚さは五センチ近くある。

(……いや、これは“ちょっと手伝う”ってレベルじゃないだろ)

 とりあえず、事務所の片隅のデスクに座り、ファイルを開いてみる。最初のページには、見慣れない用語と略称がびっしりと並んでいた。

「COE」「家滞…」「生計維持能力」「身元保証人」……どれも法律の講義でも聞いたことのないような言葉ばかり、やはり実務となると講義とはまるで別世界だ。

 一枚、また一枚とページをめくるたびに、頭の中に疑問符が積み上がっていく。

「……えーと……これは、どこから取得してくるんだ?」

「“法定調書合計表”ってなんだ……?」

 周囲はすでに、山川と正樹が黙々と作業を進めているだけ。電話も鳴らず、外の車の音がときどき聞こえる程度の静かな事務所の中で、朗だけが取り残されたような気持ちになる。

(……なんだこれ……全然わからない)

 一瞬でも、「ここで雇ってくれれば楽なのに」と思っていた自分が、恥ずかしくなった。

 そこへ、湯飲みを片手に山川が近づいてきた。

「どうですか、読めそうですか?」

 朗は慌てて姿勢を正し、ファイルを閉じる。

「あ、いや……その、なんというか……」

 山川は朗の様子を見て、小さく笑った。

「最初は、みんなそんなもんです。今井先生だって、最初はこの“別記様式”って何?って聞いてきましたから」

 さらりとそう言って、朗の机に新しい付箋とペンを置く。

「わからないところは、付箋を貼っておいてください。あとで一緒に確認しましょう」

 その何気ない言葉に、朗の胸の奥が少しだけ軽くなった。

 次の日、朗は自然と事務所に顔を出していた。

 机の上のファイルを開き、昨日付箋を貼った箇所を読み返しているうちに、ふと一枚の書類に目が止まった。

(……会社の設立日時、こっちとこっちで日付が違う?)

 資料をめくって確認すると、法務局の発行した履歴事項全部証明書では「4月2日」、本人が書いた履歴書には「4月12日」と記載されている。単なる記載ミスかもしれないが、このまま提出したら不備になる可能性もあるのかもしれない。

「あの、この日付……違ってるみたいなんですけど」

 朗が声をかけると、山川は書類を受け取り、目を走らせた。

「あ……ほんとだ。これ、危なかったですね」

 顔を上げ、朗に小さく笑いかける。

「助かりました。こういうの、意外と見落としがちなんですよ」

 その一言に、朗の胸の奥がじんわりと温かくなった。

 それから数日後。午前になると朗は自然と事務所に足が向くようになっていた。

「おはようございます」と、ドアを開けると、いつものように正樹が棚をあさって何かを探していて、山川がキーボードを打っている。

 朗は黙って空いた席に腰を下ろし、昨日の続きに手を伸ばした。

 小さな事務所には、3人だけの音が響いている。誰も朗の存在に特別な顔はしない。まるで最初から、そこにいるのが当たり前だったかのように。

(……いつの間に、俺、こんなところにいるんだろう)

 ふと手を止め、朗は小さく苦笑した。

 最初は“ちょっと見に来ただけ”のつもりだったのに……気づけば、この場所が、心地よい居場所になっていた。


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