3 初めての業務①
正樹から電話があったのは、それから数日後のことだった。
この間、行政書士法人ベントスを訪れたときに少し関わった理由書のことが、なぜかずっと頭の片隅に残っていた。そんな折に「相談者が事務所に来る」と正樹から連絡があり、「少しでも興味があるなら見に来ないか」と誘われたのだ。
確かに、その後のことが気になっていたこともあって、朗は誘いに乗ってみることにした。
当日、朗が事務所に着くと、間もなく白いシャツにグレーのスラックス姿の細身の男性がやってきた。
「あ〜ロンさん、いらっしゃい」
正樹が声をかけ、会議室へ案内する。
ミーティングテーブルには、ロンに向かって正樹と山川が座り、朗は少し離れた位置にある、病院の診察室にありそうな丸い回転イスに腰を下ろした。どこか「患者」のような心地だった。
「ロンさん、今日は“見習い”の先生もいて、一緒に話を聞きますね。彼は村嶋先生です」
「見習いの村嶋です。よろしくお願いします」
朗は一応そうあいさつをしたが、自分は見習いでも何でもなく、ただの見学者にすぎない。紹介と実態の微妙なズレに少しだけ違和感を持った。
「会社の財務状況や、家族を日本に呼び寄せたいということは、前回お会いした際に伺いました。今日はもっと詳しいことを聞きたいです」
正樹の声は、不思議と安心感を与える響きがあった。
山川は横で手元のファイルを開き、滑らかな手つきで資料を並べていく。その一連の動作を、朗はまるで舞台の袖から眺める観客のような気分で見つめていた。
ロンは、少しの間黙ったまま、机の上のペンを見つめていた。
やがて、決意を固めたように顔を上げ、拙いながらも丁寧な日本語で語り始めた。
「妻と子どもが、いまハノイにいます。下の子は七歳で、ぜんそくがあります。ときどき夜、呼吸ができなくなって……病院へ行くけど、薬も足りない。医者が、“ハノイの空気はものすごく汚れているから、あなたが住んでいる日本の空気のほうがいい、と言いました」
その声には、抑えようとしてもにじむ焦りがあった。
「私は日本で仕事をがんばっています。でも、去年私の母が亡くなって、家には妻しかいません。妻もずっと不安で……電話のたびに泣いています。子どもが『パパ、いつ迎えに来るの?』って言うんです」
朗は言葉を失った。
ロンの日本語は決して流暢ではなかったが、ひとつひとつの言葉が胸の奥に刺さるように響いた。
それは、制度の話でも、条文の解釈でもない。生きるための、まっすぐな叫びだった。
「だから、どうしても今年のうちに家族を呼びたいです。年が変わったら、ビザのことももっと難しくなるかもしれないと聞きました」
ロンは唇をきゅっと結び、深く頭を下げた。
沈黙の中で、エアコンの微かな音だけが響く。
正樹が穏やかにうなずき、山川が静かにペンを走らせた。
二人の姿は、朗の目にはどこか儀式のように映った。
慎重で、正確で、しかしその奥にあるのは、目の前の人間の“生”をなんとか支えようとする意志だった。
(……これが、現場か)
朗は、法律を勉強して知識を積み上げることが“法の世界で生きる”ということだと思っていた。




