2 試される朗(アキラ)②
「実は、高校生の頃から“法に関わる仕事がしたい”と思っていたんです。それで、東霞大学の法科大学院に進んで、司法試験に挑戦していました。でも、結局……うまくいかなくて」
言いながら、朗はあの頃の自分の声がどこか遠くで聞こえる気がした。暗い図書館の片隅で何百冊もの判例集や参考書に埋もれていた姿が、ふいに脳裏に浮かぶ。
誰もいない夜のキャンパス。蛍光灯の白い光。試験に落ちたあの日、机の上に積まれた六法全書の山を見つめたまま、何も感じられなかった。そんな記憶がまだ身体の奥に残っている。
「なるほどね。それで、学部生のときに受かっていた行政書士の資格を生かそうと思った、ってことかな?」
正樹が明るい調子で割り込む。相手を詰問するでも慰めるでもなく、自然な調子だった。
「はい、その通りです。ただ……資格はあっても仕事はなかなか取れないし、どうしたらいいかずっと考えているところで」
自分でも、声が少し震えていたことに気づいた。司法試験に落ちたという事実は、もう昔のことにしたはずなのに、まだ心のどこかがその痛みを覚えている。
「努力してもどうせ報われない」という感覚が、何かを始めようとするたびに背中を引きずってきた。
失敗した人間は、もう二度と前に進んではいけないのではないか――そんな声が、時々、夜の静けさの中で蘇るのだ。
「司法試験なんて、そんなものに合格したかどうかで人の価値が決まるわけじゃないよ」
正樹は軽く笑いながら言った。その声音には慰めの色はなく、長い時間をかけて自分自身と折り合いをつけてきた人間の静かな実感が宿っていた。
その言葉が、朗の中に沈殿していた何かをそっと揺らした。
胸の奥で、固く結ばれていた糸が、ゆっくりとほどけていくような感覚だった。
そのとき、ドアをノックする音がした。山川が盆を手に入ってきて、湯気の立つ茶碗をテーブルに三つ並べる。
「三つ……?」
朗が小声でつぶやくと、山川は「ちょっと待っててください」とだけ言い残し、奥へ引っ込んだ。
やがて、薄いブルーのファイルを手に戻ってくる。
「あれ、君も話聞くの?」と正樹が首をかしげる。
「いえ。ちょうどいい機会なので、ひとつお願いできないかなと思って」
山川はファイルをテーブルに置いた。
表紙には「在留資格認定証明書交付申請(家族滞在) グエン・バン・ロン」と印字されている。
「この方、日本で中古の機械を買い付けて、ベトナムに輸出するという仕事をしているんですけど、前からベトナムから奥さんと子ども二人を呼び寄せたいと相談されていて、でも実は作業が少し煮詰まってしまって……」
山川はページを開き、申請書類の下書きや添付資料を広げていく。
「事業も軌道に乗ってきたし、奥さんとお子さん2人。ベトナムでずっと離れて暮らしていて、ようやく一緒に暮らせるチャンスなんです。ただ、扶養能力の立証とか……正直、理由書の組み立てに手間取っていて」
「……あの、私こういう申請のことは全然わからないです」
朗は思わず正直に口にした。
山川はすぐに「はい。でも大丈夫です」と首を振る。
「制度の細かいことじゃなくて、理由書の文章なんです。構成がうまくいかなくて。法科大学院出身なら、論理的な文章は得意かなと思って」
正樹が軽く笑いながら言った。
「ほら、ちょっと見てみなよ。頭の体操になるよ」
朗はおそるおそるファイルを開いた。知らない用語がずらりと並んでいて、正直ちんぷんかんぷんだ。
「……『在留資格認定証明書交付申請』って、そもそも何をするものなんですか?」
「ざっくり言えば、外国にいる家族を日本に呼ぶための“事前審査”みたいなものです。在留資格認定証明書があると、査証が出やすくなります」
山川は手際よく説明したが、朗は「へえ……」と相槌を打つのが精一杯だった。
けれど、次のページを見たとき、彼の目が少し変わった。
理由書の下書きだ。箇条書きや断片的な文章が並んでいて、これから文章にまとめていく途中なのだというのは素人目にも分かる。
「……まず家族の経緯を説明して、そのあとで生活基盤と扶養の話に移していくというのはどうでしょう……」
朗は自分でも驚くほど自然にペンを取り、紙の上で構成を考えていく。
山川はその様子を横目で見て、ふと心の中でつぶやいた。
(……悪くない。というか、この子センスあるかも)
朗はまだ、制度のことなど何もわかっていない。ただ、言葉と論理を組み立てる力が、思いがけずこの場で顔をのぞかせたのだった。
朗が帰ったあと、正樹は山川に向かって
「彼のこと試したでしょう」と言うと大きな声で笑った。
「いいえ。私は本当に理由書の構成に困ったので、聞いてみただけです。別に試したりはしてないですよ」と言いながら意味深に笑っていた。




