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5 紙が語る③

 季節は晩秋へと移ろい、朗も少しずつ事務所の空気に馴染んでいった。

 書類をめくる手つきにも、いつのまにか迷いが少なくなっている。

 そんなある午後、朗のパソコンに入管からのメールが届いた。

 心臓が小さく跳ねる。

 クリックした画面に、静かに「在留資格認定証明書」の文字が浮かんでいた。

「……認定、出た……」

 思わずこぼれた言葉に、背後から声がした。

「出たか?」

 正樹がコーヒー片手に立っていた。

 いつものように軽い笑みを浮かべている。

 朗がうなずいて画面を見せると、正樹は「ああ、いいねぇ」と言って椅子の背にもたれた。

「僕の最初のときも、追加指示の手紙が来てさ。真っ青になって、夜中まで書類と格闘したよ」

 向かいの席から、山川が顔を上げて微笑んだ。

「ちなみにね……今井先生の初申請は、不許可だったのよ」

「えっ、今井先生が?」

「そう。書類はちゃんとしてたけど、担当官がとにかく厳しくてね。入管で理由を聞いたけど、今井先生は“納得できない”って言ってたわ」

 少し間をおいて、山川が穏やかに続けた。

「でもね、その時も先生は、“そういうこともあるさ”って、あっけらかんとしてたの。

 それで再申請して、今度はちゃんと許可されたのよ」

 正樹がくくっと笑ってうなずく。

「な? そういうもんなんだよ。だから……胸張っていい」

 朗は少し照れくさそうに笑った。

 二か月前にはなかった、静かな自信がその笑顔に宿っていた。

 そしてふと、今井の背中を思い浮かべた。

 迷いのないあの姿が、少しだけ遠くに、けれど確かに手の届く場所に見えた。

 季節はさらに深まり、冬の足音が近づいていた。



 在留資格認定証明書が交付されてから一か月後のある午後、事務所の電話が鳴った。

 表示された発信者名を見て、朗はすぐに受話器を取る。

「……あ、村嶋先生! 家族が……今、日本に着きました!」

 受話器の向こうのロンの声は、いつもより大きく弾んでいた。

 背後には空港のざわめきと、子どもたちのはしゃぐ声が混じっている。

「そうですか……本当によかったですね」

「はい……ありがとうございます。全部、あなたのおかげです」

 通話を終えると、朗は静かに息を吐いた。

 ほんの数か月前、夜中に資料と格闘していた自分が、遠くに霞んで見える。

 その夜、朗のもとにロンからメールが届いた。

 添付された写真には、空港の到着ロビーで肩を並べる家族の姿。

 少し緊張した面持ちの妻と子どもたち。

 その隣で、ロンが誇らしげに笑っていた。

 朗はしばらく画面を見つめていた。

 大きな声を上げるでもなく、感激するわけでもない。

 ただ胸の奥に、静かで確かな灯がともる。

 あの日、送信ボタンを押した申請書が、いまこの瞬間、ひとつの“再会”につながっている。

「書くことは、文字のつるぎを振るうことって、こういうことなのかな」朗は小さくつぶやいた。

 細く開けた窓から冷たい夜風が事務所に吹き込み、机の上の書類をそっと揺らした。

 朗は画面を閉じ、次の案件のファイルに目を落とす。

 以前なら「また山のような書類だ」と思っていたかもしれない。

 けれど今は、その一枚一枚の向こうに、誰かの暮らしがあることを知っている。

 胸の奥の灯は、静かに、確かにそこにあった。

 朗はパソコンを閉じ、椅子の背にもたれて深く息を吐いた。

 書類の山が、いつのまにかただの紙ではなく、人の時間や願いの形に見える。

 机の端には、途中で飲みかけたコーヒーの湯気がまだかすかに残っていた。

 窓の外では、住宅街の細い道を小型のバイクが通り過ぎ、遠ざかる排気音が夜の空気に溶けていく。

 風が少し強くなり、電線がかすかに鳴った。

 カーテンの隙間からのぞく街灯の光が、壁に柔らかな影を落としている。

 時計を見ると、もう九時を回っていた。

 通りの向こうの家々には、まだ灯りが残っている。その明かりの一つひとつに、誰かの生活がある。

 朗は立ち上がり、窓際に歩み寄った。

 ガラス越しに見える自分の顔が、少し大人びて見えた気がした。

 あの日、初めて申請書を送ったときの緊張が、遠い記憶のように思える。

 今井の背中はまだ遠い彼方だ。けれど、その方向に、自分も確かに歩いている。焦りや不安のかわりに、いまは静かな手応えがあった。

 事務所の灯りを消し、カバンを肩にかける。

 ドアノブを握ると、金属がひんやりと冷たかった。

 外に出ると、冬の匂いが肌に触れる。

 住宅街の路地はしんと静まり返り、植え込みの植物には薄い霜が降りていた。

 吐く息が白く、街灯の下で一瞬だけ形を作って消えていく。

 足音が小さく響く。

 玄関先の鉢植えや、塀の隙間に置かれた自転車が、寒空の下でじっと夜を受け止めている。

 朗はコートの襟を立て、ポケットの中で事務所の鍵を握りしめた。

 通りの角を曲がると、少し先に商店街の灯りが見えた。

 遅くまで営業する八百屋の前で、店主がシャッターを下ろしている。

 その明かりがかすかに歩道を照らして朗の影を長く伸ばしていた。


「文字のつるぎ(完)」


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