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5 紙が語る②

 その夜、朗は自宅の勉強部屋で資料と格闘した。ノートPCと法令集、ノート、ポストイットにびっしりとメモが並ぶ。

 資本金と生活資金のバランス、事業収支の説明、家族それぞれの生活設計とそれが持っている意味を一つひとつ、自分の頭で考えるしかなかった。

 (逃げるな。ここで逃げたら、ずっと中途半端のままだ)

 夜が更けても手は止まらない。気づけば窓の外はしとしとと雨が降り始め、街灯が濡れたアスファルトにぼんやりと滲んでいた。

 翌日、朗は夜遅くまで練り上げた資料や今後の方針をプリントアウトし、ファイルにまとめて抱えた。手の中の紙の角が、指先に少し食い込む。事務所の朝はいつも静かだ。電話もまだ鳴らず、コピー機のランプだけが薄暗い室内に点っている。



 ロンはすでに来ていて、パーテーションのすぐ向こうから、椅子が動く小さな音と、紙をめくる音が聞こえてきた。資料を広げているらしい。朗は一度深呼吸をして、ファイルを胸に抱え直した。

「おはようございます」

 声をかけながらスペースに入り、朗は向かいの席に腰を下ろした。ロンはきちんとアイロンのかかったシャツ姿で、テーブルに並べた書類に目を落としている。その横顔には、わずかに緊張の色が浮かんでいた。朗の胸の奥にも、静かに波が立っていた。短い距離だからこそ、逃げ場もなく、自分の考えが真正面から試されるような感覚だった。

「資本金は確かに増やされましたが、それによって生活資金が減った点は、正直に説明しましょう。ただし、今後の収支見込みや事業計画を具体的に示せば、扶養能力の裏付けになります。家族呼び寄せ後の生活設計も月次の家計見込み表や資料を追加して書面で出しておきたいです」

 朗の声は最初こそ少し硬かったが、話すうちに次第に落ち着きを取り戻していった。夜中に何度も言葉を組み替え、資料を見直した時間が、そのまま背中を押してくれているようだった。

 ロンは資料に目を落とし、ゆっくりと頷いたあと、顔を上げて驚いたように朗を見た。やがてその表情は少しずつ柔らかくなり、安心の色が浮かぶ。

「……あなた、すごいね」

 その一言に、朗は頬をわずかに赤らめ、視線を落とした。誰かの補助ではなく、自分が組み立てた方針が相手に届いた——その手応えが胸の奥で静かに灯った。

 ロンが事務所を出て行ったあと、会議室の空気の中に残っていた緊張が、ゆっくりとほどけていくのがわかった。

 朗はファイルを抱えて自席へ戻る途中、コーヒーを片手にした正樹と鉢合わせた。

「おつかれ。いい打ち合わせだったじゃない」

「……そうですかね」

 朗が少し照れくさそうに笑うと、正樹はコーヒーを一口すすりながら、さらりと続けた。

「追加資料の指示なんて、ぜんぜん珍しいことじゃないからね。担当官ごとにクセもあるし、“一発で完璧にしよう”なんて、考えなくてもいいよ」

 正樹は肩をすくめて、もう一口すすった。

「追加資料の指示がくると、最初のうちは、みんな“自分のせいだ”って思うんだよ。でも、入管の追加って、審査している途中に担当官が気になったことを聞いてくるだけだから……そうだな、担当官との会話みたいなもんかな」

 その言葉を聞いた瞬間、朗の胸の奥に張り詰めていたものが、少しだけほどけた。まるで、見えない誰かが重たい荷物をそっと下ろしてくれたような感覚だった。

 朗は小さく息を吐き、手の中の指示書を見つめ直した。先ほどまでとは、少し違う目で。紙にプリントされたメールの向こうにいる担当官の姿がみえるような気がした。

 そして、パソコンに向かい追加の資料を送信した。全てを終えると、雑然としていた机の上を静かに整えた。その手つきには、不思議と迷いがなかった。


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