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5 紙が語る①

 朗が正式に行政書士法人ベントスのメンバーになって数日後、ベトナムの家族を日本に呼び寄せるための申請に必要な追加書類を抱えて、ロンが事務所を訪れた。

「この間まで見習いだった、村嶋朗です。ロンさんの申請は、これから私が担当させていただきます。よろしくお願いします」

 少し緊張をにじませた声だった。ロンは一瞬だけ表情を曇らせたが、正樹がすぐに穏やかな笑みを浮かべる。

「彼、なかなか優秀なんですよ。今回の申請理由書も、村嶋がまとめたんです」

 その言葉に、ロンの顔がわずかに和らいだ。

 ロンには、本国に残る家族を日本へ呼び寄せたいという希望がある。しかし、2025年10月の制度改正によって、経営者の在留資格「経営・管理」の資本金要件は従来の五百万円から一気に三千万円に引き上げられ、しかも審査は格段に厳しくなっている。

 新規申請者だけでなく、在留資格の更新や家族滞在ビザの審査でも、この新基準や会社の経営実態が大きく審査に影響するようになった。

「去年、資本金を五百万円から三千万円に増やしました。……でも、持っていた資産の多くをそこに回してしまって、預金がほとんど残っていないんです。税金も増えて、本当に厳しい状況です」

 ロンは深いため息をつきながら言った。

 会社が制度上の資本金を満たしていても、家族滞在の審査ではロン自身の「扶養能力」、つまり生活資金の余裕が重視される。朗は資料を見つめながら、慎重に言葉を選んだ。

「ロンさんの会社の規模だと、そもそも三千万円の資本金はかなり過大な金額ですけど、これが経営・管理ビザの要件だから、仕方ありませんね。でも、家族滞在の審査では、会社だけじゃなくてロンさん自身の預金残高や生活基盤も細かく見られます。家族を呼び寄せるには、そのあたりの説明をしっかり書面に盛り込む必要があります。通帳のコピーじゃなくて、銀行から預金残高証明書もとってそれも添付しましょう」

 ロンは小さくうなずいた。その表情には、経営と家族の両立に苦しむ複雑な思いがにじんでいた。



 ロンが帰っていったあと、会議室に残った書類の束を抱え、朗は自分のデスクへ戻った。

 窓の外からは、午後の少し傾きはじめた光が差している。

 机の上にファイルとノートPCを広げると、あたりの空気が少しだけ張り詰めたような気がした。……ここからは、誰の指示でもない、自分の仕事だ。

 ロンの言葉や表情が、頭の中で何度も反芻される。

「資本金はある。でも、生活資金が足りない」

 家族を呼び寄せたいという切実な願いと、制度の冷たさ。その間に、申請書という一本の細い橋を架けるのが自分の役目だ……そう思うと、胸が少し熱くなった。

 カーソルが、ノートPCの白い画面の上で点滅している。

 朗は深呼吸をひとつして、キーボードに指を乗せた。

 文章を一文ずつ積み上げていく。制度の要件を満たしていること、ロンの事業の実態、家族を支える計画……一つひとつを、まるで石を丁寧に積み上げるように記していく。

 何度も書き直し、言葉を入れ替え、論理の筋を磨く。画面の文字が、次第に“自分の仕事”としての輪郭を持ち始めていく。

 気がつけば、外は夕方の光に変わっていた。

 キーボードを打つ音だけが、静かな事務所に小さく響いている。申請書を書き上げ、添付ファイルの準備も済ませて、オンライン申請の送信ボタンを押した瞬間、朗は小さく息を吐いた。

 そのとき、背後から山川の声がした。

「終わった?」

 振り返ると、マグカップを片手に立っていた山川が、少し柔らかい表情でこちらを見ていた。

「はい……なんとか、申請できました」

「ふふ、初めての“ひと山”だね」

 そう言って山川は朗の画面をちらりと見て、何も言わずにうなずいた。

 申請してから約一週間後。朗のデスクに、入管からの「追加資料提出通知書」が届いた。

「申請人個人の預貯金等の内訳および生活費支弁能力について、補足資料を提出してください」というものだった。読み上げた瞬間、心臓が跳ねた。背中に冷たいものが流れる。初めて自分が担当した案件で、いきなり追加資料要求。

(……まただ。また、自分の書いた文章は、伝わらなかったんだ。)

 脳裏に、大学院の論文指導教官の声がよみがえった。『君の書くものは、論理は立っているが、これでは読み手に伝わらない』。

 一瞬、山川や正樹に助けを求めようとする自分がいた。しかし、その手は途中で止まった。

 (……違う。これは自分で解決しないといけない)

 静かな夜の事務所で、朗は一人、白く光る画面に浮かび上がっているメールの文面をみつめた。


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