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辺境で政略結婚したら、氷の騎士団長が旦那様でした

作者: 百鬼清風

 婚礼の鐘が遠くから響いていた。重厚な石造りの聖堂の奥で、リディアーヌ・ド・ベルネは深呼吸をした。煌びやかな衣をまといながらも、その心は晴れなかった。


 ――私は政略結婚の駒にすぎない。


 彼女は大公爵家の三女。幼い頃から舞踏と礼儀作法を仕込まれ、誰かの妻になるための教育を受けてきた。相手が愛しい人でなくとも構わない、と諦めていた。だが、今日の花婿の名を聞いた時、さすがに胸が凍る思いだった。


 「氷の騎士団長」と呼ばれる男。辺境伯、ジークフリート・フォン・エルンスト。冷酷無比、血も涙もないと噂される戦士。領地を襲う怪物を容赦なく斬り捨てるその姿から、氷の異名を与えられたという。


 聖堂の扉が開き、長身の男が入ってくる。白銀の髪を束ね、鋭い蒼の瞳を持つ。甲冑は纏っていないが、背筋は騎士団長の威厳を物語っていた。リディアーヌは思わず喉を鳴らした。


 「……ジークフリート・フォン・エルンスト」


 冷えた風が流れ込んだように、聖堂の空気が張りつめる。彼は花婿でありながら、喜びの色を一切見せなかった。ただ淡々と歩み寄り、儀式をこなす。誓いの言葉も、指輪の交換も、まるで戦の報告のように冷ややかだった。


 ――本当に噂通りの人なのね。


 リディアーヌは小さくため息をついた。


 夜になり、新居となる辺境伯邸の一室。窓の外には雪混じりの風が吹き荒れ、辺境の厳しさを告げていた。暖炉の火だけが頼りの寒い部屋で、二人は向き合っていた。


 「……今日から、お前はこの屋敷の主婦だ」

 「……はい」


 ジークフリートは短く言葉を告げると、机に置かれた書類に目を落とした。戦況報告か、領地の管理書類か。新婚の妻に視線を向けることさえない。


 リディアーヌは胸の奥に寂しさを覚えた。噂以上に冷たい。愛を期待してはいなかったが、ここまで心を閉ざされるとは。


 「……それでは、私は休ませていただきます」


 立ち上がろうとした瞬間、椅子がきしむ音とともに彼の手が動いた。さりげなく、椅子を引いてくれたのだ。


 「……っ」


 驚いて彼を見上げると、彼は眉ひとつ動かさずに言った。


 「床は冷える。寝間着は厚手のものを着ろ」


 それだけ告げると、再び書類に視線を戻す。だが、リディアーヌの胸には小さな灯がともった。冷酷に見えるが、不器用なだけなのではないか。


 翌朝、彼女が廊下を歩いていると、侍女たちが慌てて駆け込んできた。

 「奥様、外は吹雪でございます。旦那様が視察にお出になられますが……」


 窓の外を見ると、白銀の嵐の中、彼は馬に乗っていた。領地の兵を従え、怪物の動きを探るために。誰よりも率先して危険に身を置いている。


 ――領民を守るために、彼は冷たさをまとっているのかもしれない。


 その背中を見送りながら、リディアーヌは胸の奥が少しずつ変わっていくのを感じていた。


 数日後、ジークフリートは戦場から戻ってきた。鎧には傷が走り、彼自身も疲弊していた。


 「旦那様!」

 リディアーヌが駆け寄ろうとすると、彼は片手を挙げて制した。

 「近づくな。血で汚れている」

 「ですが、お怪我を――」

 「問題ない」


 それだけを言い残し、彼は自室へと向かう。だが廊下に血の跡が点々と残っていた。


 その夜。侍女たちが手当てを断られ困り果てているのを知り、リディアーヌは思い切って彼の部屋の扉を叩いた。


 「旦那様。私に手当てをさせてください」

 「……必要ない」

 「夫婦なのです。放っておけません」


 沈黙が落ちたのち、扉が開いた。中には包帯も巻かれぬまま傷を放置している彼の姿があった。無頓着なほどに。


 「どうして、こんな……」

 リディアーヌは思わず涙を滲ませながら、薬箱を取り出した。震える手で血を拭い、包帯を巻く。


 ジークフリートはじっと彼女を見つめていた。やがてぽつりと呟く。

 「……戦で怪我を気にする余裕などない」

 「けれど、無理をすれば……命を落とすかもしれません」

 「……」


 その瞳に、初めてわずかな揺らぎが宿った。冷たさの奥に隠された人間らしさ。


 ――やはりこの人は、冷酷ではない。不器用なだけ。


 包帯を結び終えたとき、彼が小さく言った。

 「……助かった」


 それは短い一言だったが、リディアーヌの胸を熱くした。


 辺境の空は、いつもどこか不穏だった。冷たい風が吹き抜け、夜になると森の奥から不気味な咆哮が響く。

 リディアーヌが嫁いでから数日後、その脅威は現実となった。


 「領境の森に魔物の群れが出た!」

 兵士が血相を変えて館に駆け込んでくる。


 執務室で地図を睨んでいたジークフリートは即座に立ち上がった。

 「数は?」

 「狼型の魔獣、およそ二十。民の集落が近く、時間がありません!」

 「……全軍を動員する。俺も出る」


 彼は冷静に指示を飛ばし、甲冑を纏った。その姿はまさしく“氷の騎士団長”だった。


 リディアーヌは廊下の陰からその背を見送った。胸の奥で何かがざわめく。領民が危険にさらされているのに、自分は館に閉じこもっているだけでいいのだろうか。


 「私にも……できることがあるはず」


 彼女は侍女に命じて、薬草や包帯を集めさせた。王都にいた頃、趣味で薬学を学んでいた。怪我人の手当てくらいはできる。


 雪原に設けられた臨時の野営地。戦いから戻った兵士たちは血まみれで、呻き声をあげていた。

 「水を! 誰か、水を!」

 「薬師はまだか!」


 リディアーヌは意を決して馬車から飛び降りた。

 「私が診ます!」

 驚く兵たちの視線を受けながら、彼女は負傷者の傍らに膝をつく。

 裂けた腕に布を巻き、薬草をすり潰して塗布する。止血が間に合うと、兵は安堵の息を漏らした。


 その時。低い声が背後から落ちてきた。

 「……何をしている」


 振り向けば、鎧姿のジークフリートが立っていた。蒼い瞳が冷たく光る。

 「お前は館にいろと言ったはずだ」

 「けれど、私にできることがあるのです! 怪我人を見捨てられません!」

 「愚か者。お前が傷つけばどうする」

 「それでも……!」


 言い返す声は震えていた。だがジークフリートは深いため息をつき、兜を外した。

 「……勝手にしろ。ただし、俺の目の届くところにいろ」


 それは叱責に聞こえたが、裏返せば守るという意思の表れだった。リディアーヌの胸が熱くなる。


 夜。焚き火の明かりに照らされた雪原で、再び魔物の咆哮が轟いた。

 「来るぞ!」

 兵士たちが構える。闇の中から現れたのは、赤い眼を光らせた巨大な狼たち。牙を剥き、群れをなして襲いかかってくる。


 「全軍、陣を組め! 俺が先頭に立つ!」

 ジークフリートは剣を抜き、氷のごとき冷気を纏った。


 その姿はまさに伝説だった。彼が剣を振るうたび、魔物は次々と倒れる。獣の爪がかすめても怯まず、ただ前だけを見据える。

 「……強い」

 リディアーヌは思わず息を呑んだ。冷酷ではなく、必死に領民を守ろうとする背中。そこに嘘はなかった。


 しかし群れは容赦なく兵を襲う。負傷者が増え、陣形が乱れる。

 「旦那様! 後方が突破されます!」

 「……チッ」


 その瞬間、リディアーヌは駆け出していた。負傷者を馬車へ運び、包帯を巻き、必死で命をつなぐ。

 「ここは私が守ります! どうか戦いに集中してください!」


 ジークフリートが振り返った。短い一瞥ののち、彼は頷いた。

 「……任せた」


 戦いは長引いた。だが夜明けと共に魔物の群れは退き、ついに辺境に静けさが戻った。


 雪に染みた血の匂いが残る野営地で、兵士たちは歓声をあげた。

 「生き残ったぞ!」

 「奥様のおかげで仲間が助かった!」


 リディアーヌは疲労で膝をついたが、心は充実していた。自分も役に立てたのだ。


 そこへ、ジークフリートが歩み寄る。鎧は傷だらけで、顔にも泥がついている。

 「……無茶をしたな」

 「でも……後悔はしていません」

 「……そうか」


 彼は一瞬、言葉を探すように口を閉ざした。そして、不器用に手を差し伸べる。

 「……よくやった」


 その手は冷たく、しかし確かに温もりがあった。リディアーヌはその手を取り、初めて心から笑った。


 ――この人は冷たい氷ではない。氷の下に、温かな泉を隠しているのだ。


 二人の距離は、確かに縮まりつつあった。


 怪物の襲撃を退けてから、数日が過ぎた。辺境の地は再び静けさを取り戻し、雪解けの水が小川を流れていた。

 館の空気も少しだけ変わっていた。兵士たちは口々に「奥様は領地を救った」と称え、侍女たちも笑顔を見せるようになった。

 だが肝心のジークフリートは相変わらず無口で、冷たいような態度を崩さない。


 ――でも、戦場で見たあの背中。あれは人を見捨てる冷酷さではなく、誰よりも背負い込む優しさだった。


 リディアーヌはそう感じていた。だからこそ、彼の心の奥に触れたいと願った。


 ある晩、彼女は廊下を歩いていて、偶然執務室の扉が半開きになっているのを見つけた。

 中からは、誰かの名を呼ぶ低い声が漏れていた。


 「……カルロス、ローラ、ヘルムート……」


 リディアーヌは思わず足を止めた。扉の隙間から見えたのは、机に座り、かつての戦友たちの名を呟くジークフリートの姿。手には古びたペンダントを握りしめている。


 彼の蒼い瞳は遠くを見ていた。氷のように冷たいと噂されたその瞳に、深い悲しみの影が差しているのを、リディアーヌははっきりと見た。


 ――これが、この人が「氷の騎士団長」と呼ばれる所以……。


 翌日、勇気を出して彼に尋ねた。

 「……昨日の夜、お部屋で……お仲間の名前を呼んでいらっしゃいましたね」

 ジークフリートの表情が固まる。

 「覗いていたのか」

 「……ごめんなさい。でも、知りたかったのです。あなたが背負っているものを」


 長い沈黙ののち、彼は小さく息を吐いた。

 「……昔、俺には信頼できる部下がいた。共に剣を振るい、命を預け合える仲間だった。だがある戦で、俺の判断のせいで……皆を失った」

 その声は掠れていた。

 「二度と弱さを見せまいと誓った。涙も後悔も、氷に閉ざして……領民を守る剣になると」


 リディアーヌは胸が締め付けられる思いだった。冷酷さの裏には、そんな深い傷が隠されていたのだ。


 「ジークフリート様」

 彼女はそっと彼の手を取った。冷え切った指先を両手で包み込み、真っ直ぐに見上げる。

 「あなたは冷たい人なんかじゃありません。大切な人を失って、心を凍らせただけ……本当は、とても優しい方です」


 彼は驚いたように目を見開いた。だがすぐに視線を逸らす。

 「……優しい? 俺が?」

 「はい。だって、領民を守るために剣を振るい、私をも守ってくれたでしょう?」

 「……」


 長い沈黙が流れた。やがて彼は、決壊するように両腕を伸ばし、リディアーヌを抱きしめた。


 「……すまない」

 「え……」

 「俺は、お前に冷たく接してきた。心を閉ざしてきた。だが……もう限界だ。お前が俺の氷を砕いた」


 硬い鎧の胸に押し付けられ、リディアーヌは息を呑んだ。彼の身体は熱かった。不器用で、けれど真っ直ぐな抱擁。涙が自然に溢れた。


 「……私は、あなたの傍にいます」

 「……ああ。俺も、もうお前を手放さない」


 その日を境に、ジークフリートの態度は少しずつ変わっていった。


 「寒くないか」

 「今日は歩きすぎて疲れていないか」

 「……その花が好きなのか。明日、庭に植えさせよう」


 無愛想な声色のままだが、言葉の端々に優しさがにじむ。リディアーヌが熱を出したときには、夜通し付き添って水を換え続けてくれた。


 侍女たちは目を丸くして囁き合う。

 「旦那様が……奥様にお優しい……」

 「奇跡ですわ……!」


 リディアーヌは照れながらも、心の奥で幸福を感じていた。

 ――この人は、ツンデレなんかじゃない。氷を溶かしたら、底なしに甘い人なのかもしれない。


 氷の騎士団長と呼ばれた男は、少しずつ“溺愛する旦那様”へと変わり始めていた。


 辺境の冬はまだ終わらなかった。

 冷たい風が吹き荒れるある日、伝令が館へ駆け込んできた。


 「旦那様! 魔物の大群が東の谷を越えて進軍しております!」

 「数は?」

 「百を超えるかと! 過去に例のない規模でございます!」


 執務室の空気が一気に張り詰める。

 ジークフリートは地図に目を走らせ、険しい表情で言った。

 「……領地の存亡をかけた戦になる。全兵を招集せよ」


 リディアーヌは迷わなかった。

 「私も参ります」

 「危険すぎる」

 「私は戦えません。でも、負傷兵の手当や補給ならできます。あなたの隣で支えたいのです」


 短い沈黙ののち、彼は深く息を吐いた。

 「……分かった。絶対に俺の目の届く範囲を離れるな」

 「はい、旦那様」


 雪に覆われた谷間。魔物の群れは黒い波のように押し寄せてきた。牙を剥く狼型、空を舞う鳥型、甲殻に覆われた巨躯まで混じっている。

 兵士たちの顔に緊張が走る。


 ジークフリートは剣を抜き放ち、凍てつく気迫を放った。

 「全軍、恐れるな! この地を護るのだ!」


 咆哮と共に戦いが始まる。

 リディアーヌは後方で薬箱を抱え、負傷兵の元へ駆けつけた。血を拭い、傷口に薬を塗り、包帯を巻く。必死に手を動かしながら、前線の彼を見つめる。


 ジークフリートの剣は雷鳴のようだった。群れを裂き、兵を鼓舞する。だが数は多い。前線は次第に押され、兵士たちの悲鳴が広がる。


 「旦那様! 右翼が崩れます!」

 副官の声が響く。

 ジークフリートが動こうとした瞬間、後方にも魔物が回り込んできた。


 「リディアーヌ!」


 巨躯の魔物が爪を振り下ろす。リディアーヌは目を閉じた――が、その刹那、鋼の音が轟いた。

 「俺の妻に、指一本触れるな!」


 ジークフリートが間に合っていた。剣で爪を弾き返し、魔物を一刀の下に斬り伏せる。背後に立つ彼の温もりに、リディアーヌの心臓は激しく打ち鳴った。


 「怪我はないか」

 「……はい!」


 しかし戦況はなおも厳しかった。兵の疲弊は極限に達し、士気も限界に近い。

 その時、リディアーヌは叫んだ。

 「皆さん! まだ戦えます! ここを守れば、家族も子供たちも無事なのです!」


 白い吐息と共に響いたその声は、兵たちの胸に火を灯した。

 「奥様が共にいてくださる! ならば我らも!」

 「うおおお!」


 再び剣が振るわれ、盾が掲げられる。

 ジークフリートはその様子を見て、唇の端をわずかに上げた。

 ――この女は、俺の誇りだ。


 戦いは夜明けまで続いた。

 ついに最後の魔物が倒れ、谷間に静寂が訪れる。

 兵士たちは歓声をあげ、涙を流して互いに抱き合った。


 「勝ったぞ!」

 「旦那様と奥様のおかげだ!」


 リディアーヌは疲労で倒れ込みそうになったが、その腕をジークフリートが支えた。

 「よくやった。お前がいてくれたから、皆が生き延びた」

 「いえ……私こそ、あなたが……」


 彼は人前だというのに、真っ直ぐ彼女の瞳を見つめ、言った。

 「リディアーヌ。俺はずっと誤魔化してきたが、もう隠せない。これは政略結婚ではない。俺は……心からお前を愛している」


 涙が頬を伝う。リディアーヌは震える声で答えた。

 「私も……あなたを愛しています」


 領民たちの歓声が雪原に響き渡った。


エピローグ


 戦から数日後。館には平穏が戻り、暖炉の火が柔らかに揺れていた。

 食卓には簡素ながら温かな料理が並び、二人きりで向かい合う。


 「味はどうだ」

 「とても美味しいですわ」

 「そうか……」


 ジークフリートは照れ隠しのように視線を逸らしたが、やがて小さく囁いた。

 「……俺はもう、氷の騎士団長ではない。お前の前では、ただの夫だ」

 「まあ……」

 リディアーヌは頬を染め、微笑む。


 窓の外では雪が静かに降り注いでいた。だが館の中には、氷を溶かすような温もりが満ちていた。

 二人の幸せな日々は、これから始まるのだった。

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