鬼哭
仄暗い雨水が溜まり、其処にはボウフラが楽園を築き上げていた。専ら、人は其れを害虫のビオトープと言うのだろう。蚊が蔓延るという事は勿論、捕食者にとってもバーゲンセールのような機会で、腕を振り回すたびに蜘蛛の巣が絡まる不快な気分を味わう。息を吸うたびに埃と黴の香りが鼻と喉を引っ掻き回す。
ぼくは何故此処で寝泊まりしていたのか、未だに分からない。
只、昨日がとても忙しかったかのように思える。不思議な事に昨日の記憶が綺麗さっぱり無いのだ。
いつも手伝いをしている農家の倉庫の一つだろう。様子から見るに、普段は使われていない場所の様子。
ぼくの寝ていたところだけが埃が払われ、他には似たような場所として、物が置かれた空間の一つに、同じように埃が積もっていない新鮮な地面が見える。其れは丁度段ボール程の大きさだ。
ぼくは、お尻に付着した埃を払いながら立ち上がると、何か違和感を覚える。
朝日の差し込む先を見ると、それが立っていた。
其れも、前よりも鮮明な姿として、現れている。
黒々としたボロボロの枝毛、くすんだ色に爛れた肌、痩せこけた醜体に、飛び出しがちな眼球。布切れを纏い、身体中から血を流す彼女は、からからに渇いた喉を引っ掻くような声で語りかける。
影なき影が迫る時、ぼくは息を殺してゆっくりと後退りした。野生動物に遭遇した時の如く、視界から離さず、静かに、刺激しないように。其れが自然の中で無力な人類が生き残るための基本則だ。
然し、目の前の危険にも関わらずぼくは齷齪して足が動いてしまった。
そして、其の小さな物音に、それははっきりとぼくの眼を見つめていた。
今にも飛び出しそうな不気味な双眸に、ぼくは喉を乾かせた。
それと目が逢った時を境目に、ぼくの記憶は飛んでいる。
今は、引っ越しから一か月程が経つ頃。
老若男女問わず祭りの準備に駆り出され、村は忙しない空気感に包まれていた。
中干しの期だからか、水田からはすっかり水が抜けている。
村の診療医に当たった所で、精神の問題は気の持ち様だと取り合ってはくれなかった。
此処ばかりは旧態依然としており、宜しくない。
然し、現代的な施設に向かうともなると、此処から五十粁程車で移動しなければならないのだ。
今、オヤジは仕事に執心中。邪魔をする事、其れ即ち、頭上にたんこぶの山を築く事を意味する。
其の為、ぼくは一人で調べ事に勤しむ事となった。
精神病理的な専門書(難しくて読解は其処までできなかった)、土着的な民間伝承等を中心に其れなりに幅広く。
ぼくは時間を忘れて読書に集中していたようだ。
夕刻に差し掛かる頃。
携帯電話の振動で、智慧と文の世界から現実世界に引き戻される。
両親からだ。内容は仕事を終えて一緒に出掛けようとの事だ。
向こうから遊びに連れられる事は非常に珍しい。遊ばせてくれない親ではないが、こうした事には存外不干渉というか、無関心である。
なので、少しばかり嬉しくなったのは事実だ。
ぼくは調べ事で何か目途が立った気がするがそんな事はどうでも良いとばかりに、本を放り投げて駆けだした。
村はずれの小さな空き地に両親が居た。背景となる森の黒々しさが鮮やかな衣服に身を包む人影を強調している。
両親はぼくを見るなり、目を丸くしたがぼくは何の事かさっぱりだった。
其処へ光が差し込み、ぼく達を森の中へと誘う。
こんな絢爛で豪勢で優美な縁日は初めてじゃない?貴方。と母は言った。
都会ではまずみないなぁ、向こうでは花火はすごいが、縁日は意外と淡白なものだ。とはオヤジの言。
ほら、行くよ、輪投げや千本引き、金魚掬いに綿菓子もあるわよ。とぼくの手を引く。
然し、ぼくは従わなかった。
二人が何を言っているのかが分からなかったのだ。
彼等は蜘蛛の巣を掴んでいた。
ギャア、と母は声を上げる。
差し込んだ光は単なる西の陽であった。
祭りまで後僅かな日数となる。
ぼくは祭の準備に駆り出されていた。だが、幸いにも疲れ果てて道端や倉庫で寝るような事はなく、キチンと家で寝ていた。恐らく家以外で寝ると両親の小言が一時間や二時間に伸びるからであろう。
朝目が覚めると、ぼくの部屋とは思えない程の豹変ぶりに驚いた。
其処ら中が埃に包まれており、目の前には食われ欠けの鼠の死骸、そして、埃の上には薄っすらと足跡が残っていた。
奇妙な事に、其の足跡はぼくとほぼ同じ大きさであった。
怖くなったぼくは彼を呼び出す。
然し、返事は無かった。
此処最近、彼は表れず、ぼくの中に蟠りと空虚感を残していった。
昼頃、ぼく等子供は気分転換にボウル遊びに熱中していた。
運動神経の鈍ったぼくは格好の的のようで、ぼくの方ばかりが狙われる。
鋭いボウルが横っ腹に命中すると、ぼくはお腹を押さえて尻餅をついた。
ボウルは明後日の方向へと飛んでいき、ぼくが取りに行くこととなる。
ひたすら転がっていくボウルを追いかけ、ぼくは小さな林の中へと入っていった。
そして、小さな小屋に突き当たった。其処には、立入禁止との四文字が書かれていた。
ぼくは其の看板に手を当てて体重を支えながら、ボウルの行方を調べる為、奥を其の場から見ようとする。
ばきり、と板が壊れ、体重がそのまま先の下り坂へと向かってしまう。
ぼくは重力に引かれるがまま祠の中へと転がり落ちて行った。
其処で、ぼくはあの洞窟で感じたような時に感覚を覚える。
そう、見てはいけない物を見てしまった。
長い年月で風化した白骨死体。
おおよそ小学生低学年と同じくらいの背丈。
其れは、羽那子かと、ふと悪い予感が頭を過った。
然し、ぼくは直ぐに其れを否定しにかかった。
だが、其の予感が的中するかの如く、彼女に似た少女が姿を見せる。
彼女は亜夜子を名乗った。なんでも、羽那子の姉だと言うのだ。確かに言われた通り、身体の輪郭、顔の造り、表情の変わり様、声色、其の全てから彼女を感じる。
其れに、彼女と似ているようで非なる部分も在り、発言が真実であるかのように脳が勝手に理解と納得を齎した。
亜夜子は語る。直ぐ傍の板の切れ目に手記があると。
古ぼけた手記と、声による語り、その二つによって、嘗て此処で起こりし事件の一端が明かされていく。
其れは、人身御供。
彼女は此の土地の土着神に捧げられた命であった。
日に日に様子がおかしくなる彼女や、古い因習に縛られ人の命を無碍に扱う者達。ぼくは全てに怒りを覚えた。
ぼくは声と思考を忘れ、用意されていた華美な祭壇を破壊した。
恐らく今年も祭りと共に何かを捧げる予定だったのだろう。
亜夜子は義憤に駆られたぼくに優しく囁いた。
祭壇に対し、己が命じるままに細工をするだけで儀式は終わらせることが出来る、と。
其の言葉を信じたぼくは、彼女の言うがままに細工を施した。
良い気味だとぼくは嗤う頃、姉は姿を消していた。
曰く、マクベスは三人の魔女に唆され破滅の道へと向かった。
曰く、ファウストはメフィストフェレスに囁かれ欲の道へ誘われる。
曰く、魔弾の射手はザミエルの手によって罪禍へと辿り着いた。
西洋でも、人ならざる物は誘惑により災厄を齎すと喚起されてきたのだ。
ぼくは手記を衣服の間に仕舞い込み、何事も無かったかのように皆の元へと戻った。




