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99 煽動

 翌朝、筑波の郊外で一つの死体が発見された。

 身元は、早乙女組組長・早乙女正晋の三男――早乙女裕作。

 警察はただちに現場を封鎖し、周辺の交通を規制した。

 このニュースは瞬く間に茨城の裏社会を駆け巡り、各勢力を震撼させた。

 あの早乙女正晋が、どれほど息子を溺愛していたか――それを知らぬ者など、裏の世界にはいない。

 にもかかわらず、その息子が殺された。

 まさに早乙女正晋の逆鱗に触れたのだった。

 茨城県北部・日立市の中心部。

 そこにそびえる高層ビルには、大きく"早乙女建設"の文字が掲げられていた。

 地下駐車場で、数人の男たちが緊張した面持ちで立っていた。

 エレベーターの扉が開く。

 中から一人の禿げた老人が姿を現す。

 震える手で杖を握りしめながら、早足で男たちの前に歩み寄った。

 「……本当に、裕作なのか?」

 部下が沈黙する。

 その沈黙に、老人の顔がみるみる陰を帯びた。

 その時、一台の黒塗りの車が老人の前で急停止した。

 運転席から男が飛び降り、素早く後部ドアを開ける。

 「……誰がやった?」

 「そ、それが……警察の方で現在、調査中とのことで――」

 ガンッ!

 杖がコンクリートを叩き、乾いた音が響く。

 報告していた男は、反射的に深く頭を下げた。

 「警察なんぞあてにするな! お前らは動かんかッ!」

 「はっ! すぐに調査いたします!」

 老人は杖を突きながら車へ乗り込む。

 前に座った部下たちに、怒気を含んだ声で問いかけた。

 「小宮山はどうした、まだ連絡がつかんのか?」

 「い、いえ……まだです」

 「筑波は一体どうなっとる!」

 運転席と助手席の男たちは顔を見合わせるばかりで、誰ひとり答えられない。

 老人の眉間に深い皺が刻まれる。

 「ええい、この役立たずどもが……もういい、行くぞッ!」


 老人が事件現場に駆けつけたのは、一時間後だった。

 現場はすでに封鎖され、関係者以外の立ち入りは厳しく禁じられている。

 しかし、この老人に限っては例外だった。

 老人の名は――早乙女正晋。

 茨城県で二番目に勢力を誇る極道組織"早乙女組"の組長である。

 古くから県警とも太いパイプを持ち、顔を知らぬ刑事はいない。

 その早乙女正晋が現場に入った時、死体はすでに警察の搬送車に収められ、アスファルトの上には、白線で描かれた人型だけが無言で残っている。

 早乙女正晋は震える手で杖を支えながら、搬送車の後部へと歩み寄った。

 白い布が掛けられたストレッチャーの前で立ち止まり、

 一瞬だけ、息を止める。

 布の端をつまみ、そっとめくった。

 「……裕作……」

 声にならない嗚咽が喉の奥で震える。

 蒼白に冷えきった顔――それが、たしかに息子だった。

 額には深い裂傷が走り、血はすでに黒く乾いている。

 唇の端には打撲の痕、首筋には指で掴まれたような赤黒い痣。

 衣服は胸元まで裂け、内側には刃物で刺された跡が覗いていた。

 そのどれもが、無惨という言葉すら生ぬるい。

 早乙女正晋は息を呑み、膝が震えた。

 「……我が息子よ……」

 小さい頃から溺愛してきた息子が、こんな姿になるとは――。

 何十年も極道の世界を生き抜いてきた早乙女正晋ですら、頭がくらりと揺れた。普通の親なら、その場で気絶してもおかしくない。

 「……誰だ……誰が、裕作を……」

 低く、喉の奥から絞り出すような声。

 早乙女正晋の目は、怒りと悲しみで真っ赤に充血している。

 その瞳には、涙ではなく――報復の炎が宿っていた。

 刑事も部下も息を呑み、誰も動けなくなる。

 「見つけ出せ。そいつの仲間も、家族も、根こそぎだ。裕作が受けた苦しみを――百倍にして返せ!」

 警察がいるにもかかわらず、誰ひとり止めようとしなかった。


 昨日、小宮山が土浦の三河拠点へ向かって以降、行方不明になっていることは、少し調べればすぐに分かった。

 早乙女正晋は三河会会長・三河雅に直電を入れる。

 「令息のご不幸、謹んで哀悼の意を表します。我々もできる限り捜査には協力するよ、早乙女組長」

 『しらばっくれるんじゃねぇ! 三河――貴様は無関係とでも言うのか!』

 「全くの誤解だね。今この状況で、早乙女組を敵に回すことで我々に得るものなんて何もないからね」

 『ならば深井玲子を出せ。ワシが直に尋問する』

 「ご冗談を。仮に深井に疑いがあったとしても、うちの"四柱"を外に差し出す義理はないさ」

 『話が通じんようだな……ならば、その女の命はもらう』

 「フン。やれるもんなら、やってごらん」

 電話を切ると、三河はゆっくりと顔を上げ、隣に控える深井玲子を見やった。

 「で、君は――小宮山を逃がしたあと、何も見ていなかったのかい?」

 「はい」

 深井は短く答える。

 「本当かい?」

 「本当です」

 その声音には、わずかな揺らぎもない。

三河は微笑を浮かべながら、指先で机を軽く叩いた。

 「おかしいね。君ほどの観察眼があれば、小宮山が誰かに利用されていたくらい、気づくはずだろう?」

 「買いかぶりです。しかし――違和感を覚えたのは事実です。ゆえに、あの場で応戦する価値はないと判断し、追い返しました」

 三河は意味深な笑みを浮かべ、静かに言葉を落とした。

 「そういうことにしておくよ。……筑波では、どうやら不穏なものが動いている。」

 三河は隣に控えている男へと視線を向けて

 「念のため、君も土浦に残りたまえ。深井のサポートを頼む」

 「かしこまりました」

 男が一礼する。

 三河は視線を深井玲子に向け、微笑んだ。

 「異論はないか?」

 「もちろんです。――"四柱"の加藤昭彦さんがいてくださるなら、安心です」

 玲子は落ち着いた声でそう応じ、ほんの僅かに口元を歪めた。

 加藤昭彦――四柱の中でも最も古株。

 忠実で、腕も確か。三河に命じられたことは必ずやり遂げる。

 三河会の中で、あの"戦鬼"石澤を除けば、彼に敵う者はいないだろう。

 しかし、戦の才に秀でていても、頭の切れは犬飼に遠く及ばない。

 だからこそ――利用しやすい。

 深井玲子は首をわずかに傾げただけで、部下がすっと駆け寄った。

 「加藤さんに部屋を用意しておきなさい」

 「はっ」

 三河はゆっくりと立ち上がり、ネクタイを締め直した。

 「さて、このあと議会がある。ここは任せた。――それと、三日以内に早乙女の三男を殺した犯人の正体を突き止めたまえ。……いい?」

 「はい」

 「承知しました」

 深井玲子と加藤昭彦が、同時に静かに一礼した。


 三河が去ったあと、書斎の中で深井玲子はゆっくりと歩きながら思考を巡らせていた。

 ――昨夜、あの少年剣士があの小宮山を、あれほど容易く倒した。

 実力はおそらく自分の遥かに上……あんな人物が、茨城の極道にいたか?

 しかも、そんな強者を抱える組織が、早乙女組と三河会――両方を同時に狙っている。

 よりにもよって、三河会が黒楓会の襲来を警戒しているこのタイミングで……。

 ――待て。黒楓会……?

 深井玲子は、ふっと何かを思いついたように机へ戻り、積み上げられた書類の山を手早くあさった。

 「これは……違う。これも違う……あった」

 A4の報告書。三週間前の黒楓会討伐連盟の詳細が記されている。

 ページを繰りながら、深井は細かい文字を一つひとつ追っていく。

 「……龍崎勝。剣の達人。討伐連盟の時三代目斎藤会随一の剣士、藤原克也と一騎打ち――藤原が撤退し、勝負はつかなかった……」

 その名を見つめ、深井の瞳がわずかに光る。

 「……これだ。この男に、間違いない」

 ――となれば、黒楓会はすでに茨城へ侵入している。

 しかも狙いは三河会だけではない――茨城の極道そのものを、掌握しようとしている。

 これはおそらく、黒楓会会長・玄野楓の策だ。噂以上に、恐ろしい男……。

 「ふふっ……そなたは、わらわが待ち望んでいた者なのか。確かめさせてもらうぞ」

 深井の唇が、ゆるやかに歪む。

 「次の一手は――三河会と早乙女組の対立を、さらに激化させること」



 すべてが"各々の思惑"通りに進んでいた

 早乙女正晋の怒りは三河会に向けられ、早乙女組の主力が次々と日立から筑波へと移動を開始する。

 対する三河会では、深井が一切の弁明を行わず、沈黙のまま戦闘態勢を整えていた。

 両勢力――その関係は、もはや一触即発であった。

 その中、徹底的に姿を隠した黒楓会は、この混乱を静かに監視していた。

 臨時拠点の一室。

 机の上には地図と無線機、そして現場から届いた報告書が広げられている。

 報告書を手にしていた佐藤が静かに口を開いた。

 「早乙女組は本気で"四柱"の深井玲子の命を狙っています。

 一方の深井も戦力を増やしており……この動き、どちらも"見せかけ"ではなさそうです」

 「計画通りッスね、さすが弘大さん!」

 清水が満面の笑みを浮かべながら言った。

 「やるねぇ……あっしも活躍しねぇと、若ぇもんに追い抜かれちまう」

 稲村が口元を歪めながら言う。

 「これで……俺たち黒楓会は、ただ眺めてるだけで漁夫の利をいただけるってわけですね」

 矢崎が笑う。

 全員が浮ついている中、会長の楓と、計画を立てた柏だけが沈黙していた。

 幹部たちは二人の様子を見て、次第に口を閉ざし、場が静まり返った。

 「ど、どうしたんスか、会長……弘大さん……?」

 清水が恐る恐る尋ねる。

 楓と柏は無言で視線を交わした。

 ――どうやら、二人は同じことを考えているらしい。

 先に楓が口を開く。

 「……あんたはどう思う?」

 「その……順調すぎる気がします」

 「ああ。たとえ早乙女組が気づかなくても――いきなり喧嘩をふっかけられた三河会が、気づかないはずがない」

 「はい、小宮山たちが無事に三河会の拠点から戻ってきたのは、何よりの証拠です」

 二人の会話の内容を理解できず、幹部たちは黙って聞き入るしかなかった。

 楓はその様子を一瞥し、全員に向けてゆっくりと口を開く。

 「柏の本来の狙いは――おそらく、あえて三河会に察知させ、三河会が早乙女組に交渉を持ちかけるその隙を突き、再び早乙女組へ仕掛けること。そうすれば、三河会がどれだけ弁解しても、早乙女組は二度と信じまい。……違うか?」

 「おっしゃる通りです」

 柏はわずかに目を見張った。

 ――早乙女組と三河会を決定的に引き裂く策。

 最初に計画を説明した際、そこまでは口にしていなかった。

 それをすべて読み切られた――その事実に驚くと同時に、やはり自分はすごい男の下についたのだと、胸の奥に高揚が広がった。

 しかし、三河会の反応は、あまりにも不可解だ。

 ――まるで、早乙女組を煽っている。

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