97 誤導
「先に行け――情報を兄貴に伝えろ!」
「お前らは?!」
「いいから行け!」
「すぐ助けに来る、待ってろ!」
そう叫び残して、天井裏へ上がった男は足音を消して去っていった。
「……てめぇら、逃げられると思ってんのか?」
柏が低く詰め寄る。
すると、残っていたスーツの男の一人が、裕作を背からゆっくり下ろし、片手でその喉元をがっちり押さえた。
「ひぃぃ! 大西、何をするつもりだ!?」
裕作が怯えた声を上げる。
「……悪い、裕作さん。少しだけ、合わせてもらいます」
大西と呼ばれるスーツ男が、裕作の耳元で低く囁いた。
「……てめぇ、狂ったか?」
柏が目を細め、声を低くする。
「動くな。生きてる裕作さんの方が、てめぇらにとっちゃまだ使えるだろ?」
大西は冷たく吐き捨てるように言った。
「ちっ……小賢ぇ真似を」
騒ぎを聞きつけて駆けつけた鴨川衆たちは、目の前の光景を見渡し、柏に視線で問いかけるように示した。
柏はゆっくりと首を振り、低く言い放つ。
「追うな。ネズミ一匹を逃がしたところで何の影響もねぇ」
周囲の視線が大西に向く。
大西は敵の集結をうかがいながら、仲間の脱出時間を稼いでいた。
情報を先に組に届けさえすれば、組は必ず動くと信じている。
やがて二十分ほど経ち、大西は手を離した。
裕作は青ざめた顔で大きく息を吸い込み、喉を絞るように叫んだ。
「ゲホッ……大西、覚えとけ! 脱出したら覚悟しとけよ、後悔させてやるからな!」
柏は哀れむような視線で大西を見やり、吐き捨てるように言った。
「こんな玉に仕えるかよ」
大西は苦笑した。
「ククッ……組長と盃を交わした以上、たとえバカ息子でも、俺は守り抜くさ」
「てめぇの忠義にゃ敬意を払う。だがあいにく、俺にも守らなきゃならねぇ忠義がある。
悪いが――てめぇらを、別のところに移すぞ。」
夜十時すぎ、早乙女組が土浦郊外の空き家に駆けつけた時には、すでに誰の姿もなかった。
「チクショウ……逃げ足の早ぇ野郎だ」
「兄貴、間違いありません。裕作さんと大西を攫ったのは――三河会です」
「三河会、か……。他の勢力に狙われてるってのに、よくも俺らまで敵に回すたぁ、上等だ」
「どうします、兄貴? 親分に報告を……」
「必要ねぇ。俺らでケリつける」
男はタバコに火をつけ、煙を吐きながらニヤリと笑った。
「そういや――土浦に三河会の"四柱"がいるんだろ。あのメギツネ野郎。
……ちょうどいい。久々に、挨拶してやるか」
一方、柏からの報告を受けた楓は、静かに頷いた。
「……わざと護衛たちに通話を聞かせて、一人だけ逃がす。そいつに"偽りの情報"を持ち帰らせる――か。見事だ」
「ありがとうございます」
「となると、早乙女組の連中は次に土浦の三河会と接触するはずだな」
「はい。すでに見張りをつけてあります」
楓の目に、わずかな称賛の色が浮かんだ。
――やはり、鴨川拠点から柏を引き抜いたのは正解だった。
沈黙を保つ楓を見て、柏は静かに続けた。
「このあとのシナリオですが――早乙女組の連中が、土浦で三河会と接触した直後に、全員行方不明になる"予定"です。
そのあと、早乙女裕作の死体を――早乙女組のシマにそれとなく置いておけば、早乙女組と三河会の争いは、もはや止められません」
「ん――」
楓はしばし考え込み、ゆっくりと顔を上げた。
「……そうしよう。ただし、今回は龍崎を連れていけ」
「龍崎さん、ですか。心強いですね」
柏は、龍崎の実力については噂でしか知らない。黒楓会のトップ戦力と聞いてはいたが、清水とどれほどの差があるのか――少し興味があった。
「それと、資料によれば、土浦には"深井玲子"という女がいる。三河会の"四柱"の一人だ
分かっていると思うが……前回、黒楓会討伐連盟を仕切っていたのも"四柱"の一人だった。深井玲子も、同じく侮ってはいかん」
「肝に銘じておきます」
土浦の中心地にある一軒の大きな屋敷。
その屋敷の奥の一室――
中性的な魅力と、凛とした美しさを併せ持つスーツ姿の女性が、机に並ぶ大量の書類に目を通していた。
年齢は見た目からは判別がつかない。
整った顔立ちは、むしろ多くの男よりも端正で、短く整えられた髪がその冷ややかな印象をさらに際立たせている。
性別を感じさせる唯一の要素は、スーツ越しにわずかに形を主張する胸元だけだった。
その時、屋敷の正門の方から、怒号と騒めきがかすかに響いてきた。
女性はペンを置き、わずかに眉をひそめる。
冷ややかな眼差しで隣に控えていた部下へ視線を向けた。
「……何事だ」
「すぐ確認してまいります」
部下が返答するより早く、外から複数の足音と傲慢な声が入り込んでくる。
「てめぇらに用はねぇ! 深井はどこだ、出てきやがれ!」
書斎の静けさを裂くような怒鳴り声に、女――深井は静かに立ち上がった。
薄い唇がわずかに歪む。
「……どうやら、"客"のようだ」
女性は静かに椅子を押し、立ち上がった。
机の上の書類を一瞥すると、乱れることなく歩を進め、書斎の扉を開く。
わずかに軋む音とともに、彼女は無造作に廊下へ姿を現した。
騒ぎ立てていた男たちが一斉に振り返る。
その凛とした立ち姿に、一瞬だけ空気が張り詰めた。
先頭にいた男が皮肉げな笑みを浮かべ、一歩前へ出る。
「よ、久しぶりだな――深井玲子」
深井は眉ひとつ動かさず、その男を見据えた。
「早乙女組の若頭、小宮山辰人。……ここがどこだと思っておる?」
「てめぇらがやったんだろ……裕作を返せ!」
深井は鼻で笑い、冷たく言い放つ。
「裕作? あの早乙女の三男か? ……話が見えん」
「とぼけるのも無駄だ!」
小宮山が怒鳴り、背後の男に顎で合図した。
「下田、見たまんま全部言え!」
「はっ!」
下田と呼ばれる男が一歩前へ出て、短く報告する。
昨夜、裕作が何者かに誘拐され、犯人の通話の中には"三河会"という名が出ていたという。
自分はなんとかその場を逃れたが、裕作と大西は今も捕らわれたままだった。
深井は静かに立ったまま、瞼をわずかに伏せた。
薄い唇がゆっくりと動く。
「……ふむ。それとわらわに何の関係がある?」
「は? んざけんなよ。俺らのシマが欲しいってんなら正面からかかってこい、。こんなインチキな真似なんざしなくても、相手してやらぁ!」
早乙女組の者たちは即座に刀を手に取り、庭にいる三河会の連中も身構えた。双方の空気が鋭く張り詰め、まるで合図ひとつで互いを切り裂かんばかりの殺気が満ちている。
深井はその場に立ち尽くし、冷たい視線で小宮山たちを見据えた。やがて、呆れたようにため息をひとつ漏らす。
「そなたは本当に愚かだ。真犯人に踊らされ、己の命すら危うい状況に陥っておる。」
深井はしばし沈黙したのち、何かを見透かしたように口角をわずかに上げた。
「そなたらは、ここを離れよ。――そうすれば、早乙女裕作を攫った"真犯人"に会えるだろう。」
「はっ?何を抜かして――!」
「わらわが保証する。」
「……は?」
小宮山は、意味の掴めぬ言葉に眉をひそめた。
深井は小宮山の反応を待たず、静かに踵を返すと、そのまま書斎へ戻り扉を閉めた。
「待てぇ――!」
小宮山が声を上げるより早く、深井の側近が一歩前へ出た。
「もうお帰りください」
低くも毅然とした声だった。
小宮山はなおも納得がいかず、唇を噛む。
だが、深井の言葉には嘘が混じっていない――それだけは直感で分かる。
「兄貴……どうします?」
部下の問いに、小宮山は一瞬だけ考え込み、舌打ちした。
「……ええい、一旦引くぞ」
早乙女組の一行は無言のまま車に乗り込み、土浦の屋敷を後にした。
来たときの威勢はどこにもなく、ただ全員の顔に、納得のいかぬ色だけが残っている。
「……あのメギツネめ、何が"真犯人に会える"だ。話の半分も言いやがらねぇ」
小宮山が不機嫌そうに吐き捨てる。
車はゆっくりと市街を抜け、やがて郊外へと差しかかった。
遠ざかる街の光が、フロントガラスの奥で次第に小さくなっていく。
周囲の建物はまばらになり、代わりに広がるのは暗い畑と林。
湿った夜風が窓の隙間から吹き込み、車内の沈黙をさらに重くした。
――その時。
突然、強烈な光が前方から照りつけた。
運転手が反射的にハンドルを切り、ブレーキを踏み込む。
タイヤが悲鳴を上げ、車体がわずかに横滑りした。
「っぶねぇ――! 誰だ、こんなとこでいきなりハイビーム当てやがって!」
急停車した車内で、小宮山は怒鳴り声を上げた。
ようやく体勢を取り戻したその瞬間、ふっと脳裏を深井の言葉がよぎる。
――"真犯人に会える"。
「……まさか……」
小宮山は低く呟き、鋭く号令を飛ばした。
「野郎ども、戦闘準備だ!」
「はいっ!」
後続の車も急停車し、ドアが次々と開く。
2台の車から、合わせて十三人の男たちが降り立った。
夜気の中、金属音が立て続けに響く。
強光の向こう――
ヘッドライトの白い光を背に、数人の人影がゆらりと立っていた。
逆光のせいで、誰の顔もはっきりとは見えない。
その場に漂う空気だけが、異様に重い。
小宮山は一歩、前へ出た。
「……てめぇらか、裕作を攫ったのは。どうやら三河会じゃなかったようだな。おい、名を名乗れ」
静寂。
返答の代わりに、人影の一人が口元を歪める。
指先でくわえていた吸い殻を足元に落とし、無造作に踏みつけた。
「へぇ――そこまで嗅ぎつけたか。……おもしれぇ」
人影がゆっくりと足を進め、小宮山たちに向かって歩いてくる。他の者たちも先頭に続き、次々とナイフや刀の鞘を抜いた。
「ま、どうせ生かすつもりはねぇ。教えてやるよ。」
人影が近づき、背後の光を遮る。茶色の髪、不敵な笑み、そして――獣のように光る赤い瞳が、わずかな光を反射した。
「俺は柏弘大だ。覚えとけ。」




