91 花束
十分前。千葉のとあるマンションの駐車場。
一台の車の中で、私服姿の男が携帯を耳に押し当てていた。
「……貴様らがしくじったせいで、奴は戻ってきたんだ。この責任、どう取るつもりだ?」
『バカな……あの機関から戻っただと?!』
「そうだ。」
――しかも……
男は先ほどの屈辱を思い返し、奥歯を噛み締める。拳が震え、額に青筋が浮かんだ。
「役立たずめ……せっかく、あれだけ時間をくれてやったというのに」
『ふん、偉そうに言うな。てめぇのとこの女警察が邪魔さえしなきゃ、とっくに片付いてたんだ!』
「ちっ」
男は短く舌を打ち、顔に怒りの影を浮かべた。
『──それより、どうやってあいつは戻ってきたんだ? あの機関に喰われたら、ふつう二度と出てこれねぇんじゃねぇのか?』
「問題はそこなんだ。奴、特務監理局の手帳を持っていやがる」
『なっ……何だと?!』
「俺も最初は信じられなかった。だが冷静に考えれば……奴らが警察に人を求めた時点で、グルだとバレバレだったんだよ」
携帯の向こうがしばらく沈黙する。
『……なるほど。黒楓会があれほどの速さで台頭した理由がわかった。ちっ、これが広まれば、極道連中は総スカンを食らうぞ』
「外には出せねぇ。一度でも漏れりゃ、奴に俺の場所を突き止められる」
『クックック……そうだな。ところで、そっちの電波が良くないみてぇだな。さっきから雑音が入ってるぞ』
「ん? ああ、地下駐車場のせいかもな。とにかく、もう警察は奴に手を出せねぇ。こちらから情報は流すが、今度こそ必ず仕留めろ、いいな」
『言われなくてもだよ、クック……』
通話を切ると、男は深く息を吐き、タバコに火を点けた。
紫煙が車内に溶けていく。短く一服を終えると、乱暴にドアを開け、足早にエレベーターへと向かう。
――その少し奥。
駐車場の暗がりに身を潜めていた矢崎が、盗聴器材を手際よく片付ける。
わずかな物音すら漏らさぬよう動きを止め、気配を消す。
そして携帯を取り出し、即座に短い一文を打ち込んだ。
――餌は食いついた。
車内。楓は携帯を閉じると、ふっと口元をゆるめた。
「矢崎のやつ、よくやったな」
運転席の鬼塚がちらりと視線を向ける。
「何があったんだ、会長?」
楓はシートに深く身を預け、短く吐息をついた。
「俺を狙ったのは、どうやら正興会だけじゃなかった。……石川警察官も、かなり俺を恨んでいたらしい」
そう前置きして、楓は自分の推理を手短に述べた。
――あの日、喫茶店で上野夏実との誤解が生じたこと。
――石川が現場に駆けつけたこと。
――行動が敵に筒抜けだったこと。
――"影"が張り付いていたにも関わらず、極道者らしき見張りを一人も捕捉できなかったこと。
――暗殺者が街中で銃撃や手榴弾まで使いながら、なおも警察の到着を恐れなかったこと。
答えはひとつ。正興会の背後で、警察内部の誰かが糸を引いている。
「よくもこんな真似をしてくれやがって……」
鬼塚はハンドルをきしませるほど握り込み、低く吐き捨てた。
「上等だ。……ぶっ飛ばしてやるか、会長」
「そうだな。それも魅力的だが……俺にはもっと面白い策がある」
「ハハッ、会長の考えることなんざ、俺には到底わかんねぇ。だが――きっととんでもねぇことだろうよ」
鬼塚は口角を吊り上げ、不敵に笑った。
翌日のお昼、千葉東警察署の正面。
そこに、ひとりの少年が立っていた。
黒いシャツに楓色のネクタイ。整えられた黒髪に、清秀な顔立ち。派手さはないが、妙に人目を引く静かな佇まいをしている。
その手には花束。まるでプロポーズの直前のように、ただ署の前に立ち尽くしていた。
やがて署内の窓からその姿に気づいた職員たちがざわつき始める。
「……告白か?」
「誰だ、あの子」
「いやいや、ここでやるか? 場所を考えろよ……」
「あの少年、どこかで……」
署内のざわめきは、すぐに上野夏実と石川の耳に届いた。
二人も窓辺に駆け寄り、外を覗き込む。
「……玄野楓?!」
夏実の目が見開かれる。
石川の表情は険しくなり、低く吐き捨てるように言った。
「……あの野郎」
その時、楓もまた窓際の夏実に気づいたのか、わずかに手を振ってみせた。
夏実の表情が揺れる。
かつて彼女は楓を極悪人と決めつけ、まともに向き合う態度すら見せなかった。
だが昨日――楓が特務監理局の一員であると知ったとき、心の奥で何かが微かに揺らいだ。
いま、その揺らぎが、複雑な感情となって胸を締めつけていた。
「……ちょっと、行ってきます」
夏実が小さくつぶやき、踵を返す。
「夏実!」
石川が慌てて声をかけるが、彼女は振り返らない。
「大丈夫……と思います」
その言葉だけを残し、夏実は署を後にした。
石川は口を開きかけたものの、結局なにも言えず、ただ唇を噛みしめた。
正門前に夏実の姿が現れると、署内からどよめきが広がった。
「玄野楓……何をしているんです、こんな場所で」
その視線を一身に受けながら、楓は変わらぬ笑みで花束を差し出す。
「今日、仕事が終わったら……時間はあるか?」
「この花は、どういうつもりですか?」
「昨夜のお詫びだ」
「……そんなの、別に必要ありません」
楓は笑みを崩さぬまま、花束を抱えた夏実に一歩近づいた。
吐息がかかるほどの距離で、声を低く落とす。
「……中には、先日俺たちを襲った犯人の手がかりが入っている。
そして――奴らが今夜、姿を現す場所もな」
「な……何ですって?!」
夏実の瞳が揺れる。
「ここは目立ちすぎる。受け取れ。そして……誰にも言うな」
「……わ、分かりました」
「では続きは――今夜だ」
短く言い残し、楓は車に乗り込む。
エンジン音が遠ざかる。
残された夏実は、花束を抱いたまま足を止めていた。
警察としての正義感と、胸に生まれた複雑な感情が交錯し、どうしても一歩を踏み出せなかった。
一方、署内からの視線には、思わぬ光景が映っていた。
――玄関に姿を現した上野夏実に、黒シャツ姿の少年が花束を差し出し、さらに親しげに耳元へと顔を寄せる。
そして、夏実は戸惑いながらも、その花束を受け取ってしまった。
その場面を目にした署内の若い警察官たちは、思わず顔を見合わせる。
「……マジかよ」
「上野さん、あのガキに……?」
「あんな奴のどこがいいんだ」
胸中に隠してきた淡い想いが、一瞬で掻き乱されていくのを誰もが感じていた。
戻ってきた夏実は、人目を避けるように更衣室へ向かおうとした。
その前に石川が立ちはだかる。
「……夏実、その花は?」
夏実は楓の言葉を思い出し、花束を胸にぎゅっと抱き寄せた。まるで秘密を隠すように。
――誰にも言うな。
「……石川さんには、関係ないです」
夏実の声色は冷たくも聞こえるが、それは決して拒絶のためではない。
本当は、同僚をこの事件に巻き込みたくなかった。
危険に触れさせまいとする気持ちが、逆に突き放す言葉となって口をついて出たのだった。
その言葉、その仕草は、石川の目には「あいつから贈られた花を大事に守る姿」にしか映らなかった。
石川の顔に、抑えきれない陰が落ちた。
ポケットの中の携帯が、きしむほどに握りしめられる。
――玄野楓。
その名を思い浮かべただけで、胸の奥から黒い感情が噴き出す。
殺意は、もはや隠しようもなかった。
それは義憤でも正義でもない。
ただ、夏実の腕に抱かれた花束――その送り主が楓であるという事実が、石川の理性を静かに食い破っていく。
石川は無言のまま廊下を抜け、階段の陰へと足を運んだ。
人目の届かぬ隅に身を寄せると、握りしめた携帯を耳に当てる。
「……俺だ。頼みたいことがあるんだが――」
夕暮れの署前に、楓が立っていた。
花束を抱いた夏実が、再び姿を現し、迷いなく楓のもとへ歩み寄った。
「……これ、返します」
差し出された花束に、楓はふっと笑みをこぼした。
「一度渡したものを、取り戻すことは許さない」
低く響く声とともに、わざとらしいほど丁寧にドアを開ける。
「――乗れ」
夏実は一瞬ためらった。
花束を抱えた腕に力がこもる。
結局、その視線を伏せ、ゆっくりと車内へと身を滑り込ませた。
車内。鬼塚が無言でハンドルを握り、楓と夏実は後部座席に並んでいた。
「……メッセージ、読みました」
夏実は花束を抱えたまま、楓を横目で睨む。
「中には今夜六時に迎えにくるとしか書いてなかった。……どういうつもりですか?」
「言っただろう、続きは今夜だって」
楓は涼しい顔で答える。
「言葉遊びは嫌いだと――そう言ったのは、あなた自身ですよね」
「よく覚えてるな。……あれは、初めて会った日の話だろ」
「答えないなら、ここで降ります」
夏実の声には苛立ちが混じっていた。
「文字通りの意味だよ。今夜、奴らが現れる」
「……どこに?」
「これから向かう場所だ」
楓は視線を前方に移し、静かに告げた。
やがて車は市街を離れ、郊外のレストランへと到着した。
建物の周囲には鬱蒼とした樹々が並び、まるで森の奥にひっそりと佇む隠れ家のようだ。
黄味を帯びたライトが温かく点り、外観からして落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
店内は自然を意識した内装で、テーブルも椅子も食器までもが木製で統一されていた。
数組の客が静かに食事を楽しんでいるが、どこか秘密めいた落ち着きが漂っている。
楓と夏実は席に腰を下ろし、料理が順に運ばれてきた。
夏実はフォークとナイフを手にしながらも、視線は何度も楓に向けられる。
だが答えはいつも同じだった。
――「まだ時間じゃない」
楓がさらりと話題を変える。
「料理はどうだ?」
「……とても美味しいです。こんな店があるなんて知りませんでした。……って、誤魔化さないでください。本当に――あの日の犯人が現れるんですか?」
楓は答えようとした。しかしその瞬間、ふっと場の空気が張りつめる。
店のざわめきは変わらぬはずなのに、まるで風向きが変わったかのように。
楓は視線を外へ向け、低く呟いた。
「……来る」
「……!」




