90 均衡
スーツの男たちは老人の姿を認めた途端、犬の首輪を引き、慌てて一斉に頭を垂れた。
「下がって良い」
老人の声は柔らかく、しかし逆らう余地のない重みを帯びていた。
その一言で、緊張に満ちていた空気が一瞬にして切り替わる。
スーツの男たちは素早く散り、懐に忍ばせていた手を静かに下ろした。
窓ガラスが静かに下がり、後部座席に腰掛けた楓が顔をのぞかせた。
「……久しぶりですね、三四郎さん」
三四郎と呼ばれた老人は、ゆるやかに歩み出て、品格ある所作で深く一礼した。
「お久しゅうございます、玄野様。お元気そうで、なによりにございます。
駐車場は奥にございます。こちらへどうぞ」
車を止め、楓と鬼塚は三四郎に案内されて屋敷の中へと入った。
広大な敷地内では、複数の警備員が大型犬を連れて巡回している。東京・目黒でこれほどの土地を構えるには、尋常ならざる金が動いているのだろう。
一室の前に着くと、三四郎が軽くノックしてからドアを開いた。
「では、玄野様、鬼塚様。こちらにお掛けになって、しばらくお待ちください」
楓は軽く頷き、中へと足を踏み入れる。
――その時。
「チャオ、黒楓会の会長さん」
軽薄そうに笑いながらソファに腰掛ける、ホスト風のイケメン。
「あら、坊や。久しぶりね」
濃い化粧と艶めかしい所作。立ち居振る舞いの一つひとつから、妖艶な香りを漂わせる女。
思わぬ人物の姿が目に飛び込んできた。楓は内心で驚きを覚えたが、表情には出さず、淡々と口を開いた。
「……久しいな。ホストの王子・結城葵。そして、カジノの女王・鯨井節子」
結城葵と呼ばれた男は、細い指を左右に振りながら訂正する。
「ノー、ノー。王子じゃない。プリンス――そう呼んでくれよ」
「坊やも、木下の爺さんに呼ばれた口?」
鯨井は興味深そうに楓を見つめた。
――呼ばれた……?
もちろん、それは鯨井の失言ではない。彼女は意図的に楓へ情報を与えていた。女の身でありながら、この地位に登り詰めた鯨井に限って、そんなヘマをするはずがない。
「それよりさ、君が捕まったって噂、やっぱデマだったんだね」
結城が鯨井の意図を察して、わざと割り込む。
「色々あってな。俺はただ、木下組長にご挨拶に来ただけだ」
「先日のあの連盟との大戦――見事だったわね、坊や。さすがは、私が見込んだ男よ」
「過ぎたことだ」
「坊やのそういうところ、嫌いじゃないわよ」
鬼塚は関東極道懇親会の場で、すでにこの二人と顔を合わせていた。
だが――どうにも苦手なタイプだ。
鬼塚はできる限り気配を殺し、存在感を消すようにしていた。
十数分後、重厚な扉がゆっくりと開いた。
姿を現したのは、この屋敷の主にして極道の泰斗――木下龍。
皺深い顔には年輪が刻まれているはずなのに、不思議と衰えを感じさせない。
むしろそこには、長い歳月を経てなお揺るぎない威厳と、意外なほどの柔和さが同居していた。
その隣には、鬼塚よりも背が高く、金髪のロングを靡かせた男――湘北連合総番長・獅子倉英司の姿もあった。
「待たせたのう、ハッハッハ!」
朗々とした木下の声が広間に響く。
獅子倉も、楓に軽く頷いた。
楓、結城、そして鯨井は立ち上がり、恭しく一礼した。
木下は主の座に腰を下ろし、軽く顎を引く。
その合図に従うように、他の者たちも静かに席へ腰を沈めた。
微笑を浮かべ、木下は楓を見据える。
「よう帰ってきたのう、若造」
「おかげさまでございます。心より御礼申し上げます」
楓は小さく頭を下げた。
木下の眼差しには、若さを超えた才覚を認めるかのような光が宿っていた。
木下は改めて全員へと視線を巡らせ、低く響く声で言葉を放った。
「……さて、ここに諸君らを招いたのは他でもない。
これからの東京極道、その勢力図の行方を定めるためじゃ。
諸君らもよう承知しておろう――長きにわたり東京の裏を支えてきた"四家"。
麻薬の桐原、警備の荒井、キャバクラの結城、そしてカジノの鯨井。
じゃが、桐原一家はすでに滅び去り、正興会の荒井も東京を離れた。
残るは結城と鯨井、実質二家のみ……これでは均衡が保てん。
このまま放置すれば、東京の秩序はいずれ乱れる。
――ゆえにワシは決めた。新たに二家を選び、再び"四家"の均衡を取り戻すのじゃ」
場にいる者たちは互いに目を見交わした。
――なるほど、このために呼ばれたのか。
従来、木下龍の呼び出しなど、たいていは罰を下す時に限られる。
たとえ表情には出さなくても、呼ばれた者は、例外なく緊張に苛まれていた。
「そこでじゃ。ワシの提案は――
桐原一家に代わり、黒楓会が東京の麻薬市場を統括する。
そして正興会の抜けた穴は、湘北連合が担う。
……諸君ら、異を唱える者はおらんじゃろうな?」
木下龍の低く響く声が、広間の隅々まで重く染み渡った。
誰もすぐには口を開けなかった。結城葵も、鯨井節子も、ただ黙したまま視線を交わす。
鬼塚ですら気配を殺し、楓は静かに瞼を伏せていた。
――木下龍の言葉は「提案」などではない。
それが決定であり、命令であり、逆らえば命を落としかねぬ勅命に等しい。
もちろん、これは楓にとって願ってもない展開だった。
――桐原一家を葬ったのも、もともと東京の麻薬市場に黒楓会が進出する布石。
しかも今は、"アイス"に代わる目玉商品――"スピード"の量産体制が整いつつある。
実力・供給力の両面からしても、この役割を担うのは黒楓会が最適だった。
一方で、湘北連合。
四大勢力の中でも頭数は群を抜いており、もとより族の集合体ゆえ、各地に根深いネットワークを持っている。
むしろ、警備事業を旗印にしていた正興会よりも、東京の治安を"握る"にふさわしい。
――黒楓会と湘北連合。
その二つを新たに"四家"へ据える。
木下龍の決定は、実に理に適っていた。
納得して頷く者もいれば、腹の底で不満を募らせる者もいた。
そう――ホストの王子・結城葵。
結城は、東京のキャバクラ事業や風俗業を仕切り、夜の街に広大な影響力を持ってきた。
だがその業界は、麻薬と警備の需要が特に大きく、売上の利の一部をどうしても桐原と荒井に奪われていた。
二人が消えた今こそ、自分が夜の街を完全に掌握できる――そう信じていた矢先。新たに黒楓会と湘北連合が選ばれ、すべてを覆された。
もちろん、その胸の内を顔に出すわけにはいかない。
結城葵は、夜の街で何百人という客を相手に笑顔を作り続けてきたプロだ。
「いいんじゃない? 湘北連合に黒楓会――どっちも四大勢力だし、実力面じゃ文句のつけようがないからね」
涼やかで隙のない笑みを浮かべたまま、視線を楓と獅子倉英司へとゆっくり流す。
「私も賛成よ。鬼獅子に、玄野の坊や――どっちも、私の好みなんだから」
鯨井は妖艶な笑みを浮かべ、わざと楓の方へ身を傾けた。
その時、まるで合図を心得ていたかのように、鈴木三四郎が現れた。
手には黒漆塗りの盆。その上には酒瓶と盃が整然と並べられている。
三四郎は静かに歩を進め、盆を卓上に置くと、一つひとつ盃を配り始めた。
盃が行き渡ると、三四郎は恭しく身を引き、深々と一礼した。
淡い香りが立ち上る中、木下龍は盃を手に取り、ゆったりと場を見渡した。
その眼差しは、年輪を重ねた泰斗にふさわしい重みを帯びている。
「この一献をもって、新たな秩序の礎とする」。
結城は涼やかな笑みを浮かべたまま、鯨井は妖艶な仕草で、獅子倉は鋭い瞳で――。
そして楓もまた、胸奥に秘めた決意を抱えながら、静かに盃を手に取った。
それぞれが抱く思惑は交わらずとも、同じ酒の香りに包まれながら、四家の均衡を象徴する盃が掲げられていった。
場の空気が一段落した頃、獅子倉、結城、鯨井はそのまま席に残り、新たな秩序に関わる細かな掟や利権の線引きについて語り合い始めた。木下は無言で楓を伴い、別の部屋へと歩を進めた。
「……そうか、特務監理局に入ったか。吉田はまだ元気そうじゃったのう。ハッハッハ」
「はい。改めて御礼を申し上げます」
楓はわずかに頭を下げる。
木下の目が細くなり、声色が沈んだ。
「じゃがのう、特務監理局を完全に信じるでない。川口大介の件も――真実を握っとるのは奴らだけじゃ。お主は権力を得たと同時に、その分の業も背負うことになる」
重苦しい沈黙が数秒、場を覆う。
やがて木下の声音がさらに低く沈む。
「……これから先は修羅の道ぞ。覚悟はできておるか?」
楓は真っ直ぐにその眼差しを受け止め、静かに頷いた。
「ええ――それもまた、俺が自ら選んだ道ですから」
敷地内の駐車場。
別れ際、結城が軽く手を振りながら笑った。
「アディオス、黒楓会の会長さん。……今後はお手柔らかに頼むよ」
鯨井が横から涼しげに笑みを浮かべる。
「ふふっ……男の嫉妬って醜いものね」
二人が車に乗り込み、去っていく。
残された静けさの中で、獅子倉が不意に楓へ声をかけた。
「小僧……今度は三河会とやり合う気か?」
「ああ、そうだ」
楓は短く答えた。隠す気はない――この動きは、すでに多くの勢力が勘づいている。
獅子倉は低く言葉を継いだ。
「……うちの総参謀長から、お前に託す言葉がある。
――"兵を形に示す極みは、無形へ至る"」
――猿飛隼人。
楓の脳裏に、その名が過る。
黒楓会にとっても要注意人物のひとり。敵であるはずの自分に、なぜわざわざそんな言葉を?
楓の返事を待つことなく、獅子倉は無造作に車へ乗り込んだ。
ドアが閉まる直前、振り返りざまに言葉を投げる。
「……それとよ、たまには円香のやつを構ってやれ。あいつ、放っとくと拗ねるからな」
千葉へ戻る車中、鬼塚はしばらく黙り込んでいたが、不意に口を開いた。
「……やっぱ、組の親分ってのは化け物揃いだな」
楓は返事をせず、ただ静かに瞼を伏せる。
脳裏に蘇るのは、猿飛隼人が獅子倉を通して残した一言。
――兵を形に示す極みは、無形に至る。
挑発か、警告か。
それとも、別の意図が潜んでいるのか。
車窓を流れる街の灯りを眺めながら、楓の胸中には、答えの見えぬ疑念だけが静かに渦を巻き続けていた。
そんな時、楓のポケットで携帯が震えた。
画面を開くと、矢崎からの短い一文。
――餌は食いついた。