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89 仮面

 ホテル最上階にある高級レストラン。

 外周は一面、天井まで届く大きな窓ガラスで囲まれており、遠くには宝石を散りばめたような東京都の夜景が広がっていた。

 店内は広々としているが、客の数はそれほど多くはない。ライトは抑えめに灯され、柔らかな陰影が空間に落ち、静かな音楽と相まって落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 その窓際の二人席に、玄野楓と上野夏実が向かい合って腰を下ろした。

 外の光景と店内の静けさが、二人を包み込む。

 ウェイターが微笑みながら問いかける。

 「お飲み物は何になさいますか?」

 夏実は少し迷いながらも、静かに答えた。

 「……ノンアルコールカクテルをお願いします」

 「俺はオレンジジュースを」

 「……意外ですね」

 楓は口元にわずかな笑みを浮かべ、肩をすくめる。

 「こう見えて、一応未成年でな。――それに、警察官の前じゃ酒は遠慮しとくよ」

 その言葉に、夏実は思わず小さく笑った。

 「そう言えばそうですね。……あまりにも年齢にふさわしくないことばかりしているから、つい忘れてしまいそうで」

 軽く交わされたやり取りの余韻を残しながら、二人はしばし窓の外に広がる夜景へと視線を移した。

 ちょうどその時、ウェイターが静かに飲み物を運んできて、恭しく一礼すると音もなく立ち去っていった。

 「ね……あなたは一体、どうやってあの特監局から戻ってきたの?」

 楓はオレンジジュースをゆっくりと口に含み、静かに喉を潤す。

 そして、涼やかな瞳を夏実に向け、逆に問い返した。

 「その前に――俺があの日、気絶した後のことを聞かせろ」

 夏実は一瞬躊躇した後、ゆっくりと口を開いた。

 あの日、佐竹たちが撤退した直後に、警察が駆けつけてきた。

 「大丈夫か、夏実?」

 駆け寄ってきたのは石川警察官たちだった。

 「救急車を! 早く!」

 「怪我はどこだ!?」

 「私じゃありません、この人を……この人を助けてください!」

 夏実の膝に崩れ落ちていた楓を見た石川は、一瞬、複雑な表情を浮かべ――小さく舌打ちをした。

 そのまま楓は警察病院へ搬送され、すぐに手術室に運び込まれた。

 本来なら、一般市民に死傷者が出なかったとはいえ、あの市街地での手榴弾騒ぎは、全国的な大事件として報じられて然るべきだった。

 しかし、それは決して世間に公表できる類の事件ではなかった。

 結果――「ガス爆発事故」として情報は統制された。

 楓は夏実の言葉を聞いた後、しばし思案するように額へ指先を軽く当てた。

 「……石川、ね」

 「ええ。石川さんが駆けつけてくれたおかげで、あなたは助かったんです」

 楓は口元をわずかに歪め、低く笑った。

 「くくっ……そうだな。礼を言わなきゃ」

 ほんの一瞬だけ、瞳に冷たい殺意が走った。

 「……ねえ、どうしてあの時、私を庇ったんですか?」

 夏実は真剣な眼差しで楓を見つめ、静かに問いかけた。

 楓は瞼を閉じて、そして再びゆっくりと目を開け、答えようとした、その瞬間――。

 「……夏実?」

 背後から聞こえた声に、夏実の肩がびくりと震えた。

 振り返ると、そこには見慣れた顔。

 「い、石川さん!? どうしてここに……」

 「そっちこそ――」

 石川は視線を楓に移し、吐き捨てるように言った。

 「どうして、こんなやつと一緒にいるんだ?」

 突然の詰問に、夏実は一瞬だけ息を呑み、慌てて言葉を紡いだ。

 「……これには理由があります」

 警察官の制服でなくても、今ここにヤクザの会長と並んでいる自分が人目に触れるのはまずい――そう思うのは当然だった。

 「俺が誘ったんだ。それとも、俺と彼女が一緒にいちゃまずいのか?」

 楓はあえて火に油を注ぐように挑発するように言った。

 石川の顔が歪む。声は震え、怒りと屈辱が入り混じっていた。

 「貴様……ただの社会のクズの分際でよくもそんな口がきけたな」

 言いかけたところで、石川は不敵な笑みを浮かべ、ホルスターに手をかけた。ゆっくりと右手で銃を抜くその動作に、周囲の空気が一瞬硬くなる。

 石川の瞳は冷たく光った。銃口を楓に向けながら、低く告げる。

 「そう言えば、貴様はあの機関に引き渡されたはずだ。……どうやって戻ってきたのかは知らんが――玄野楓、逃亡容疑で逮捕する。手を上げろ。」

 突然の事態に、レストランの客たちが悲鳴をあげ、椅子を倒しながら出口へ殺到した。ウェイターたちも青ざめた顔で後退し、店内は一瞬にして混乱に包まれる。

 「石川さん!」

 夏実が声を張り上げる。

 「立ってろ!」

 石川は一喝し、銃口を楓に突きつけた。指が引き金にかかる。

 だが楓は動じなかった。静かに息を吐き、ゆっくりと胸奥のポケットへ手を差し込む。

 「動くな!」

 石川が叫ぶ。

 「ちょっと、二人とも……! こんなところで銃を――」

 夏実の声は震えていた。

 しかし、楓が取り出したのは拳銃ではなかった。

 黒革の手帳――掌に収まるその表紙で、楓は石川の銃口を覆い塞いだ。

 「……ッ!」

 石川の目が見開かれる。

 重厚な革の手帳には、金文字で刻まれた"内閣直轄特務監理局"の文字と、鈍く光る紋章。

 一目でただの身分証ではないと分かる"権威"が、銃口の向こうから石川の全身を圧した。

 「……ウソっ?!」

 上野夏実は思わず口を塞いだ。

 「ば、バカな……き、貴様が、特監局のはずが……!」

 石川の声は震え、額には汗が浮かんでいた。

 銃口は楓へ向けられているものの、その手は明らかに揺れている。

 対照的に、楓は落ち着き払ったまま、黒革の手帳をテーブルの上へ静かに置いた。

 「これが現実だが、信じるも信じないも自由だ」

 夏実は目を見開き、椅子に思わず身を預ける。

 石川の動揺が場の空気をさらに張り詰めさせ、レストランのざわめきは遠のいていった。

 「……道理で。あの特監局が、わざわざ警察にあなたを求めたわけ……」

 夏実の脳裏で、点と点が線を結ぶ。

 ――頭がいくら切れても、この歳で孤立無援のまま裏社会でのし上がるのは不可能。

 必ず、見えない後ろ盾があるはず。

 そう考えれば、これまでの楓の行動にも説明がつく。

 夏実は小さく息を呑み、胸の奥で辻褄が合っていく感覚に震えた。

 対して楓は、肯定も否定もせず――彼女の想像に委ねるように。

 「そ、そんな……」

 石川もまた、同じ誤解に行き着いたらしい。

 彼は確かめるように、テーブルに置かれた黒革の手帳を手に取る。

 中には、楓の顔写真と認証番号、そして所属コードが鮮明に刻まれていた。

 喉を鳴らし、額にじわりと汗を浮かべる石川。

 特監局の者は警察とは別の系統に属する。

 しかし、権限と立場は明らかに一介の警察官などより遥かに上位にある。

 ――その事実を思い知らされた瞬間、石川は観念したように、ゆっくりと銃口を下ろした。

 楓は低い声を投げかける。

 「石川警察官。確認したければ、直接特監局に問い合わせるといい」

 言葉は淡々としているのに、一つひとつが重くのしかかる。

 「だが――その前に。この局面を、どう落とし前をつけてくれる?」

 石川の顔色がさらに青ざめた。

 「……す、すみません。すぐ……対応、いたします」

 声は震え、つい先ほどまでの威勢が跡形もなく消え失せていた。

 楓はそんな石川を一瞥すらせず、夏実に向き直った。

 「今日はさすがに雰囲気が台無しだな。……また後日、誘わせてもらうよ」

 「ま、待って――」

 夏実は思わず声を上げたが、楓は柔らかい微笑みを残し、静かに言葉を重ねた。

 「続きは……また今度にしよう」

 そのまま背を向け、レストランを後にする楓。

 残された石川は、そのやり取りを耳にしていた。

 彼の拳は爪が肉に食い込むほど強く握り締められ、怒りと嫉妬が混じった吐息が喉奥から漏れた。


 エレベーターの中。

 先ほどまで一般客を装っていた男が、眼鏡を外し、低く声を漏らした。

 「よろしいっすか? あんなに彼を刺激して」

 楓の隣に立つ矢崎が、思わず問いかける。

 「それが目的だよ、矢崎」

 楓はわずかに笑みを浮かべた。

 「まだまだ勉強が足りないな。そのままじゃ、いつまで経っても佐藤には追いつけないぞ。……彼も、そろそろ契約の期限切れだ」

 楓は興味深そうに、黒い革の手帳を手の中で軽く弄びながら、その"重さ"を測っていた。

 ――しかし、驚いたな。特監局の身分が、ここまで使い勝手がいいとは。

 もし石川が特監局を知らない人間だったら、もう少し面倒を見せる羽目になっていたところだ。

 矢崎は息を呑み、小さく頷いた。

 「そうなんっすね……佐藤隊長が、あと一ヶ月で……」

 「矢崎、あんたに特別任務を与える。今から石川の通話を張れ、何かがあれば直ちに報告するように。」

 「了解っ!」


 こっちの一件は思ったより早く片付いた。矢崎が別任務で動くなか、迎えに来たのは鬼塚だった。

 ――てめぇらじゃ歯が立たねぇ。俺が会長のそばにいりゃ、あんなことは起きなかった。

 鬼塚は吐き捨てるように言い、以来、半ば強引に楓の傍に付き従うようになっていた。

 高速道路を滑るように走る車内。

 ふいに楓が、何気ない調子で切り出した。

 「……修行はどうだった、田中大地さん?」

 「げほっ!」

 鬼塚が盛大にむせ、ハンドルがぶれる。車体が小さく揺れ、思わず楓がシートに手を添えた。

 「おいおい、危ないだろう――田中大地さん」

 わざとらしく言い直す楓に、鬼塚は顔を真っ赤にして叫んだ。

 「なっ……ど、どうしてその名前を知ってやがる!?」

 「鬼塚よりは人間らしい響きだと思うが?」

 楓が涼しい顔で返すと、鬼塚は歯切れ悪く呟く。

 「……そ、そりゃまぁ、そうかもしれねぇけどよ」

 珍しく居心地悪そうに視線を逸らした鬼塚は、照れ隠しのようにぼそりと続けた。

 「族ってのはな、基本"通り名"を持ってんだ。意味なんざなくてもいい、響きがいいとか、特別感があるとか、そういう理由でな。

 ……ま、俺も例外じゃねぇ。一応、元総長だ。」

 「あの丸川クロスもそうだったな。どうだ、今なら勝てるか?」

 鬼塚はしばし沈黙した。

 やがてルームミラー越しに、楓の視線を真正面から受け止める。

 「……やってみなきゃ分かんねぇ。だが、これだけは言える――俺ぁ、同じ相手に二度と負けねぇ」

 楓は静かに頷いた。

 「……そうか。ならいい。再びあの男と相まみえる日は、そう遠くないかも」


 一時間あまり走り続けた末、車は東京・目黒にそびえる大きな屋敷の前で停まった。

 停車と同時に、闇を切り裂くように数人のスーツの男が姿を現す。大型犬が低く唸り、懐中電灯の光が鋭く車内を照らす。

 スーツの男の一人は、すでに懐へ手を差し込み、今にも"何か"を抜かんばかりの構えを見せていた。

 「……何者だ」

 ガラス越しに鋭い声が響く。

 鬼塚が舌打ちした。

 「チッ……どうする、会長」

 楓が口を開くより早く、屋敷の奥で重厚な扉が軋む音が響く。

 その隙間から漏れる光の中に、ゆっくりと姿を現したのは――白髪交じりの老人だった。

 「……これはこれは。まことに珍しい客人ですな。ホッホッホ……」

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