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88 帰還

 車が千葉市の黒楓会本部事務所の前に停まった。

 すでに街路の両脇には、黒楓会の者たちが整列していた。

 黒スーツに身を固め、無言のまま視線を一点に注いでいる。

 車のドアが開き、佐竹が先に降りる。

 彼は慎重な手つきで楓を支え、車椅子へと移した。

 ――その瞬間。

 車椅子に座した若き会長の姿を目にした黒楓会の者たちは、全員が揃って深く頭を下げる。

 「「「お戻りでございます、会長!!」」」

 地鳴りのように響く声が、一斉に街路を揺らした。

 鬼塚を先頭に、佐藤、矢崎、龍崎、稲村ら幹部たちが楓の周りへ集まった。

 「会長、俺がいねぇ間にこんなことが起きちまうなんて……面目ねぇ」

 「ご無事と分かり、安心いたしました」

 「会長、無事でなによりッス」

 「……心配させやがって」

 次々と声が飛び交う。

 楓は彼らの顔を順に見やり、わずかに微笑んで答えた。

 「迷惑をかけたな」


 事務所内。

 楓は、ここ最近の出来事の多くを佐竹から聞いていたが、幹部や組員を抑え込み、黒楓会を無事にここまで維持した佐竹自身の奮闘については、佐藤らが詳しく語ってくれた。

 「俺がいない間よくやった、佐竹。……やはりあんたは優秀だ。将たる器を持つ男だ」

 楓の言葉に、佐竹は深く頭を下げる。

 「勿体ねぇお言葉でさ……」

 その時、ドアが勢いよく開かれた。

 「会長が戻ってきたって?! 」

 「弘大さん、慌てすぎッスよ!」

 茶髪の青年と、アイパーの青年が慌ただしく飛び込んできた。

 突然の乱入に、幹部たちの視線が一斉に二人へ向けられる。

 「会長! ご無事で良かった!」

 茶髪の青年が、嬉しさを隠しきれない顔で叫んだ。

 「す、すみません……!」

 アイパーの青年は幹部たちの鋭い視線に気づき、慌てて深く頭を下げる。

 「来たか、柏、清水」

 楓の声に、二人は同時に姿勢を正した。

 「はい! 一昨日、こちらに引っ越して参りました!」

 柏が元気よく答える。

 楓は幹部たちへ視線を移し、静かに告げた。

 「知っていると思うが――鴨川拠点の若中、柏弘大と、その部下・清水聡だ。これから柏は本部の若中として活躍してもらう。柏、清水、挨拶を」

 「はい!」

 柏は一歩前に出て、深々と頭を下げる。

 「ただ今、本部若中に任命されました柏弘大です!未熟者ですが、ぜひともご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします!」

 清水も慌てて頭を下げ、声を張った。

 「清水聡です!本部で精一杯尽くしまっす!」

 二人の挨拶が終わり、会議室には再び緊張が張り詰めた。

 楓はゆっくりと全員を見渡し、真剣な眼差しで言葉を放つ。

 「――さて、人も揃った。ここからは次の段階に入る。

 まず、先日俺を狙った暗殺者……正体は突き止めたか?」

 「はっ」

 佐藤が一歩前に出て、重々しく報告した。

 「敵は……東京の正興会でございます」

 「またあいつらか」

 鬼塚が机を拳で叩き、怒声をあげた。

 「前に討伐連盟を組んだ時は、うまく身を隠しましたね。今度こそ逃がさねぇんで!」

 稲村も声を荒らげて頷く。

 楓は続いた。

 「……で、奴らは今どう動いている?」

 「正興会会長・荒井健以下、幹部と主力メンバーが三河会と合流。現在、茨城県へと移動し、三河会と手を組んでいる模様です」

 「三河会と、か……。ふっ、実に一網打尽にする好機だな」

 楓は薄く笑みを浮かべ、全員を見渡した。

 「各位、予定通りだ。一週間後に控えた"茨城遠征"――その準備を整えよ」

 「しかし楓さん……お体の方は……」

 佐竹が心配そうに声をかける。

 「大丈夫だ」

 楓は短く答えると、ゆっくりと車椅子の肘掛けを押し、立ち上がった。

 わずかに膝が震え、歩みはまだ弱々しい。

 二週間近い集中治療の甲斐もあり、弾丸は致命傷を避け、内臓には届いていなかった。

 「会長……」

 「楓会長」

 みんなの心配の声を、楓は軽く手を振って制した。

 「やられっぱなしじゃ黒楓会の名が泣く。一週間後――茨城遠征を決行する。必ず三河会と正興会を叩き潰すぞ」


 会議は終わり、幹部たちが三々五々部屋を後にする。

 その場に残った楓は、ふと窓の外に視線を投げた。

 ――暗殺未遂。

 あの一件についてはすでに結論を出したはずだったが、どうしても胸の奥に引っかかる。

 なぜ、あの場で?

 なぜ、あのタイミングで?

 それに、なぜ……

 考えれば考えるほど、説明のつかない違和感が膨らんでいく。

 ――この感覚を放置すれば、いずれ同じことが起きる。

 それだけは避けねばならない。

 楓は静かに決めた。

 真実を確かめるために――ある人物に会いに行かねばならない。

 


 三日後の夕方、千葉東警察署。

 ここ最近、暴力団情勢があまりにも不安定だったため、署員たちはほぼ毎日のように深夜まで残業を強いられていた。

 数日の忙しさを終え、この日は珍しく早上がりが許された。

 本来なら喜ばしいはずの休暇の兆し。

 しかし、上野夏実の表情には、どこか晴れぬ影が差していた。

 そんな彼女の横顔を見て、石川は声を掛けた。

 「……夏実。まだ"あいつ"のことを気にしてるのか」

 ――"あいつ"。

 それは先日、警察から特務監理局へと引き渡された、黒楓会会長・玄野楓のことを指していた。

 上野夏実は石川の言葉に何も返さず、ただ黙々と机の上を片付けていた。

 彼女の胸中を占めていたのは――あの日の光景。

 楓が自分を庇い、血に塗れたまま倒れた姿。

 そして彼を病院へ運んだあの瞬間。

 ――逮捕は免れないとしても、せめて少年刑務所に収監され、いずれ改心して出てこられる。

 上野夏実は、そう信じて疑わなかった。

 しかし現実は、楓は刑務所ではなく、警察すら畏れる"特務監理局"へ移送されたのだ。

 その機関に送られた者は、もはや表舞台に戻ることはほとんどない。

 世間に公表できない重罪人として扱われ、極秘裏に処刑される例もある――。

 楓がその道を辿ることになったのは、自分のせいだ。

 もしあの時、自分が助けられなければ――。

 その考えが胸を締め付け、上野夏実は深いため息を吐いた。

 その横顔を見て、石川の胸に苛立ちが走る。だが声を荒げかけたところで、ぐっと抑え込み、別の調子に切り替えた。

 「夏実……あんな社会のゴミのことは、もう忘れてくれ」

 声音は柔らかく、だがどこか無理に繕った色を帯びている。

 「前に言ったろ? 暇ができたら一緒に一杯行こうって。今夜は高級レストランを予約したんだ。……気分転換になるはずだよ」

 その言葉に、夏実の手が一瞬止まった。

 ――そう、本来なら自分もそう考えるべきなのだ。ヤクザなんて、所詮は金と暴力にまみれた外道。そう信じていた。そう割り切ってきた。

 けれど、玄野楓の瞳だけは違っていた。

 普段は読めないはずの漆黒の眼差しが、あの時だけは澄み渡っていた。

 そこには欲望も権力もなく、ただ静かな怒りと孤独、そして冷たい意志が潜んでいた。

 ――なぜ、あんなに怒っていたの?

 ――なぜ、孤独を抱えていたの?

 ――なぜ、一人で立ち向かおうとしていたの?

 夏実の胸に、答えの出ない問いが重く積もっていく。

 「……ごめん、石川さん。せっかくなのに、今日はそんな気分じゃなくて……」

 小さくもはっきりとした断り。

 石川の拳がポケットの中で強く握りしめられる。しかし口にしたのは、あくまでも優しい声だった。

 「大丈夫だよ、夏実。君の心が落ち着くまで、僕はいくらでも待つ。……ずっとね」

 

 三階の窓から退勤する夏実を遠く見つめながら、石川は低く呟いた。

 「……いいんだ、焦る必要はない。あいつはもう消えた。あの忌まわしい機関に連れ去られた以上、二度と戻ってはこない。時間はいくらでもある。いずれ夏実は、必ず俺のものになる」

 その目が、一瞬だけ氷のような光を宿す。

 だが次の瞬間――。

 視界に飛び込んできた光景に、石川は思わず目を見開いた。

 警察署の外。一台の黒いセダンから、ゆっくりと降り立ったのは……存在するはずのない人物だった。


 警察署の正門。

 「く、玄野……楓? どうして……」

 上野夏実は目を大きく見開き、まるで亡霊でも見たかのように立ち尽くした。

 楓はそんな彼女に微笑みを向ける。

 「上野警察官、先日は世話になった」

 「……どうして。あなたは特監局に移送されたはずじゃ……」

 夏実の声は震えていた。

 楓は肯定も否定もせず、ただ口元に笑みを残したまま視線を返す。

 「玄野楓……あなた、一体どうやって……それに、怪我は、もう……」

 上野夏実の問いかけに、楓は静かに指先を唇へ当てた。

 「ここは話す場所じゃない。……どうだ、一杯付き合わないか?」

 上野夏実は一瞬、言葉を失った。

 普段なら、警察官としてヤクザと飲むなどあり得ない。しかし、知りたいことが山ほどあるのも事実だ。

 やがて小さく頷いた。


 三階の窓際に立つ石川の目に映ったのは――。

 黒いセダンのドアを、まるで紳士のように開く玄野楓の姿。

 そして、ためらいもなくその車に乗り込む上野夏実。

 石川の胸に、鋭い嫉妬が突き刺さった。

 しかも――気のせいか。

 車に乗り込む直前、楓がほんの一瞬こちらを見たように思えた。

 自分の誘いを断り、あの社会の底に生きる男を選んだ。

 その現実が、石川に今まで感じたことのない屈辱と敗北感を突きつけた。

 拳が震え、奥歯が軋む。

 ――どうしてあんな奴が。なぜ、夏実は……。

 石川は制服を脱ぎ捨てるように着替え、足早に駐車場へ向かった。

 「石川さん?! 何か事件ですか?」

 異様な気配を察した同僚が声を掛ける。

 「……なんでもない。ちょっと用事を思い出した。今日はこれで失礼する」

 ドアを叩き閉め、車を発進させる。黒いセダンが消えた方角へとハンドルを切り、距離を取りつつ尾行する。

 やがて車は幕張の高級ホテルの前で停車した。降りてきたのは――玄野楓と上野夏実。

 「……っ!」

 石川の喉が震える。そこは、今夜自分が夏実を連れて行くために予約を取った場所だった。

 皮肉にも――いや、悪意ある運命の仕業のように。

 「このぉ――!」

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